留学の意義、留学の意味 その2

○留学神話の崩壊(シンポジウム)
遣隋使から現代の留学まで
(つづき)
 留学という問題は外国語を専攻する学生の間にかなり早くから
 一種の義務感というか、やがては留学しなきゃいけないんだ
 という考えで定着していたと思われる。

 若いドイツ語研究者の場合
 実地にドイツの土地を踏んでその土地でもってドイツ語を話すという
 生活を体験してこないと一人前のドイツ語教師とか、ドイツ文学
 研究者になれないんだという意識があった。

 ドイツへ行って
 せっかくドイツに来ているんだから、ただ本を読むという生活なら
 日本にいてもできる、何かドイツにいなければできない
 ドイツ文学なり何なりの勉強のしかたがあるんじゃないかと考えた。

 そして
 明治時代の留学生みたいに国家の運命を双肩に担ってでかける
 のだという時代ならともかく今の時代では留学生なんて少しも
 珍しいことではないし、つまり何のおみやげを持って帰らなくても
 自分で好きなようにして生活してきたって誰も文句を言わない
 とも考えた。

  ☆    ☆    ☆

私の場合
実はこの本をドイツに持って行きながら留学の意味を考えました。
(今も考えているわけですが)

私の場合、ちょうど奨学生の先輩にあたる神戸大学の医学部教授と
ドイツで一緒になり
せっかくドイツへ来たのだから、日本でできること(その先生は
試験管振りと言っていましたが)はしないで、ドイツでしか
できないことをすべきである
という誠に結構な助言をいただきました。

元来が弥次馬的好奇心にあふれる性格なので、できるだけ
ドイツの実態を知ろうと何でも見るようにしました。

ハム3枚を買うとき、私が早速勉強したドイツ語で、
(3個という意味で)ドライ・ステュッケと注文したら、
スーパーマーケットの(茶髪碧眼の美人の)お姉さんが
違う違う ドライ・シャイベンというと教えてくれたので
Scheibe とは力学では2次元応力状態をさす言葉だと思っていたら
本場ドイツでは円板、平板はおろかハムまでシャイベと呼ぶのだ
さすが力学の国と感心したこともありました。
(南部煎餅もシャイベですね)

あるいは写真屋さんに撮影済のスライド用フィルムを持っていって
現像を頼んだら、ラーメンを付けるか、付けないか
と聞かれて何のことかわかりませんでした。

何度も聞き直す私に、とうとう店のおばさんはマウントを見せてくれました。
たしかに眼鏡のフレームや額縁のことをドイツ語ではラーメンといいますが、
スライドのマウントを付けるか付けないかと聞いたわけです。

ラーメンは我々の専門分野では骨組剛接構造物をいいます。
建築士ならラーメンの構造計算ができないといけません。
念のために、ここでいうラーメンは中華料理ではありません。

何かおみやげを持って帰ろうとしなくても、現地で生活していれば
何か発見やら感動があるものです。
そういう留学の意味もあるのかもしれません。

○留学と年令
 35歳で留学した場合と26歳で行った場合は違う。
 何歳で行ったかというのは、非常に重要なことになる。

 若いときに行ったら、やはり摂取するものは沢山摂取するだろう。
 けれども、失うものもまた多いわけで、そして一番怖いことは
 摂取したものはわかるけど失ったものはわかりにくい。
 それも、何年かたって、もしくは何十年かたって、
 もうどうしようもなくなったときはじめて、ああおれは
 あのとき大変なものを失ったんだということがわかる。
 そういうようなわかりかたをする、これは恐ろしいことじゃ 
 ないだろうか。  

 一方年をとってから行った限りでは、確かに獲得するものは
 少ないけど、失うものも少ない。
 ただ、その獲得と喪失ということのドラマというか、
 そういうものが見える眼というものは、若い人に比べてあったと思う。

(人生も遅くなって留学した人の言い訳にも聞こえますね。
まあ、若い人は若いなりのリスクもあり都合のよい点もあります。
全部が全部よくなるというのは欲張りかも知れません)

留学神話の崩壊
○留学神話の崩壊
 このシンポジウムに参加した世代ぐらいまでは、留学神話に対する
 反発という形ででも、留学神話が生きているのではないか。

 留学というものは、単に個人が個人の意志のみにもとづいて
 外国へ行って勉強する、ということだけじゃなくて、何か国家的な
 民族的なエトスがそのなかにこめられている言葉だったと思う。

 それを背負わされるのは嫌だ、という人がいても理解できる
 しかし、それより若い学生で行っている世代には全くそういう反発もない
 初めから問題の自覚がない。

 昔の人たちにとってはヨーロッパというものがいろんな意味で中心で
 あって、全面的にそれに吸いよせられ、落差の意識が非常に強かった
 わけだが、それが次第になくなってきたということが留学神話の
 崩壊ということではなかろうか。

 それは日本がヨーロッパからもはや何も学ぶことがなくなった
 ということではなく、いろんな分野で学ぶべきことはまだ依然として
 あると思うのだが、それが部分的であり、それが部分的にすぎない
 という意識を日本人がもつようになったのではないだろうか。

 つまり、それはあくまで文明という面で落差がなくなってきた
 ということであって文化とか生活の上では、これは落差というふうに
 考える方がおかしいんであって、われわれにとってどうにもならない
 異質のものだと考えるべきではないか。

(文化とは共通する世界に生きたものどうしが理解しあうものだ
たとえば、その土地のものにしかわからない、誰にでも理解しうる
というわけにはいかないものである
と書かれた本を読んだことがあります。芋の子汁は岩手の食文化、
家畜民族ヨーロッパ人を理解するには血のソーセージや鶏頭の脳みそ
を食べないといけないように アニメやウルトラマンを語ることも
若い人の文化を共有することでしょうか)

留学の意義(つづく)

留学の頁の始めに戻る