方長老 ほうちょうろう
1588‐1553 本名 規伯玄方(きはくげんぼう)
朝鮮通信使をめぐる国書改竄の罪により、盛岡に配流された。
南部藩では文化人として厚くもてなし、都の文化や茶道や漢文などの指導を受けた。
方長老は1635年から1658年まで盛岡で暮らし、赦免され南禅寺をへて大阪九昌院で没。
南部鉄瓶のゆかりの先人として、ここに簡単にまとめておく。
方長老は同郷の禅僧、対馬藩の外交僧である景轍玄蘇(けいてつげんそ)の弟子として
対馬藩が日朝交流に役割を果たすのを見て外交技術を学んだ。 玄蘇(1537-1611)
秀吉の朝鮮侵略により日朝は国交断絶時代がしばらく続く。
日中貿易が主な藩の財政であった対馬藩にとって、これは大打撃であった。
必死で日朝修好回復を願う対馬藩は何度も朝鮮に願い、無理な条件も克服して
なんとか国交回復にいたった。
玄蘇が亡くなってから若い玄方(方長老)が外交の仕事につくが若いので、
しばらく京都の寺で修業する。その間に外交文書作成などを任された対馬藩の柳川調興(やながわしげおき)
が玄方が戻ってきてから、自分たちの役割を取り上げられることを恐れ、
藩主との争いが起こり、騒ぎを聞きつけた幕府から取り調べがある。
そして、喧嘩両成敗となり、柳川調興も玄方もみちのくに流される。
柳川一件(やながわいっけん)
昔から東アジア地域には 中国を中心とした国際社会があった。 中国を宗主国としてあがめ、周辺の国々を従属させる独特の 国際ルールをつくりあげていた。 交流を許した国の王に中国皇帝が印鑑を授け、 朝貢使節を迎え入れること 一定の規定を設けて貿易を許したりすることである。 冊封体制 日本と朝鮮とは 交隣といわれる関係で結ばれ 原則的には対等な関係であった。 しかし、その関係はその時々における中国の国際的影響力の強弱や 日本・朝鮮の主権者の意識の相違によって 実際上は多様な対応をみせることがしばしばあった。 14世紀に和寇がさかんに朝鮮半島を襲うようになる、 困った朝鮮側は 武力によったり、懐柔させる作戦をとった。 おもだった者に投降を勧告し、平和に通交すれば それなりの官職を授けて貿易を許すことにした。 この作戦は効をそうしたが、帰順者増えると朝鮮側の経済的負担が重くなった。 負担増を防ぐために、日本からの通交者を統制する必要が出て、 中国の方式をここに適用しようと考えた朝鮮側は 日本の身分の高い者には印鑑(図書)を授けて その派遣する使者を優遇したり、彼らに渡航証の発行をゆだね 通交者を制限することにした。 歴史的にながめてみると、朝鮮と日本の最高権力者の間で 対馬藩の宗氏は巧みに仲介役を演じて成功してきた。 たとえば、日本から朝鮮へ渡る者は、 将軍(足利将軍)や有名大名(大内氏、細川氏、畠山氏)の限られた者を のぞいて 、すべて宗(そう)氏が発行した渡航証を持参しなければならなかった。 16世紀になると朝鮮へ渡るものは対馬の者か、宗氏から特に許された者だけ という状態になった。 江戸時代にはいる前に、宗氏による日朝関係の独占的な体制ができあがっていた。 このため外交文書に精通した玄蘇のような外交僧をかかえておくことが必要だった。 だが、秀吉による2度の朝鮮出兵による侵略は、日朝間の国交断絶となって 朝鮮との貿易で生計をたてていた対馬にとって、まさに死活問題であった。 それゆえ、対馬藩は何度も朝鮮に使者を派遣し講話の糸口をつかもうと努力した。 また家康も善隣外交政策をとったので、宗氏の講和路線を支持した。 貿易再開には、藩主宗義智(そうよしとし)の下に、家老の柳川調信(しげのぶ)、 外交僧景轍玄蘇(けいてつげんそ)が取り組んだ。 朝鮮の使者が対馬で講和をはかり、 後に朝鮮使者を京都や江戸城へ案内することにも成功した。 この時の外交僧玄蘇にお供をして いわば外交僧の見習いをしていたのが17歳の玄方(方長老) であった。 このときすでに家康の国書の偽造という巧みな外交が行われた。 朝鮮王朝と家康とで、講和が成立し、国交が正常にもどるための条件として 朝鮮は難問を2つ要求した。 1つ 秀吉侵略の時に 朝鮮国王の墓を荒らした犯人を縛送してこい。 もう1つ 家康のほうから先に朝鮮国王へ国書を送るように (従来の慣習ではまず朝鮮から使者が出向いた) 対馬は困って 最初の課題については 対馬島内にいた罪人2人を、犯陵賊の首謀者にしたてあげて 縛送した。 (彼らは朝鮮で、ただちに処刑されたそうだ) 後の課題は 当時の外交上の慣習として相手方への恭順を意味する 先に国書を差し出す行為なので、 対馬は幕府に内密に 国書を偽造した。 国書偽造は対馬では以前から日朝関係を独占していたので これまでにも何度か行っていた。 また玄蘇という選任の外交僧を召しかかえていたので作業としては難しい ものでなかった。 家康の国書には日本国王の印が押されていたという。 数年かかるのではと考えていた難問を、わずか8カ月で提出した 対馬に対して驚いたのは朝鮮のほうであった。 検討した結果、体面もたったし流れにのってこのまま講和を成立 することにした。 副使節慶暹は日本紀行報告書を残しているが その中で玄蘇との会話 「家康公は王号を用いないのに 国書に日本国王の印鑑をなぜ使ったのか」 「あの印は、先年明国の勅使が来日したとき、もたらされたもので 時の関白秀吉は冊封を受けなかった。 勅使が印を置き忘れていったので、これを使った。」 朝鮮使者は国書偽造を疑っていたが、 明の使いが置き去りにした日本国王の印だから 由緒正しい印である と答えた玄蘇の巧みな返答。 卑弥呼なら喜んで受けた金印も 秀吉は冊封は明の支配下になることを知って 日本国王印も認めなかった。 その印がどこをどう回ったか いつしか宗家に手に渡った と玄蘇は答えたのであった。 1611に玄蘇が75歳で亡くなってから 若い24歳の弟子玄方は正外交官になった。 あまり若すぎるので それ相当の僧位を得るため 京都で半年の間に平僧から五山の住持僧になるというスピード出世をした。 それは宗氏の関係者に手を回した政治力もあったようである。 しかし、玄方が京都にいっている時、対馬で 宗氏の家老柳川氏が 正式に朝鮮への使者として認められ 彼らが 外交文書作成 度重なる国書偽造などの仕事をして しだいに力を付けて 幕府にもとりいって幕府の重臣の味方をつけてから 話はややこしくなる。 柳川氏三代目柳川調興(やながわしげおき)は江戸に生まれ、 家康・秀忠・家光の側近として仕え、自らは一度も朝鮮へ渡ることはなかった。 かつて宗義智(よしとし)へ与えられていた肥前の飛地2800石のうち 1000石を、柳川調信(しげのぶ)の子智永(としなが)の時に家康の直命で、柳川氏へ分け与えられた。 そんなこともあって、しだいに主である宗義成を軽んじるようになっていった。 つまりお家騒動 対馬の宗氏の下で 主家にしたがわず お家を乗っ取りたい 自分たちこそ新しい日朝関係の主役を 願う柳川調興が 幕府の取り調べの時に おおそれながら 対馬は国書改ざんをやってきました と訴えた。 幕府の結論は結局 喧嘩両成敗 長い間の国書偽造は悪いこと しかし日朝外交の功績も認められる。 訴えた柳川調興も 外交僧玄方も 遠くみちのくに流された。 柳川は弘前に流され、そこで一生を終わる。 宗氏は一族の罪を一身に引き受けた 玄方のことを感謝し心配して 幕府に嘆願書を送り続け やっと24年たって玄方は許され 大阪で弟子たちに囲まれ一生を終わった。 方長老と木津屋 外交官とは やりくり上手 おもての世界とうらの世界の使い分けがあったのだろう。 日朝の交流に 当時の漢文の知識はなくてはならないものだった。 玄方は罪をはじて盛岡では 無方あるいは方と呼ばせたが いつしか盛岡では 方長老と読んだ。 呼んだ。 幕府の結論は 宗氏が今までどおり幕府と朝鮮の仲立ちをせよ。 悪いのは国書改ざんをした家来の柳川氏である という宗氏の言い分をとりあげたことになった。 しかし喧嘩両成敗の方針で 宗氏側の玄方も盛岡に流された。 玄方が流されたのは、実は宗氏も大痛手であった。 柳川氏が強気に出たのは 幕府の老中の最高権力者土井利勝や林羅山などの多数の うしろだてがあったからだろう。 宗氏の側は支持者が少なかった。 事件の後 宗氏にさせてみて外交能力テストに合格しなかったら 柳川氏の復活も考えていたふしがある。 林羅山などが、宗氏に無理難題をもちかけて 宗氏は苦労しながら役をのりきったという。 どうして客観的に不利だった宗氏が勝ち得たのだろう。 それは 日朝関係は他の外交関係と違って 宗氏でなくてはつとまらない と幕府が考えたからであろう と推察される。 日本と朝鮮が対等の関係で結ばれていた (たとえば国書の、日本と朝鮮という文字の書き出しの高さも 揃えられていた) しかし、この対等の関係をとどこおりなくすすめていくことは 大変なことであった。 日本も朝鮮も相手を見下そうとする中華思想的な要素があって そこでそうした意識を直接ぶっつけることのないよう 調停役として働いたのが 宗氏であった。 (朝鮮の使節を来日するよう要請するのは すべて対馬からなされた。 貿易を行いため、形式的には使者を派遣して外交を行う という形をとらなくてはならないから。) 使者は中世から続いていた、伝統的儀式を行っていた。 釜山で、殿牌という国王の象徴を 使者一同が拝むのである。 その時の場面を描いた屏風絵「草梁客舎」を見ると 屋内の中央に殿牌が置かれ、手前の庭には 座らされた対馬の使者がいる。 まるで国王の威を借りたように、朝鮮の官吏や役人たちが立ちはだかっている。 昔は土の上にムシロも敷いておらず 粛拝のときは使者は額を地面にこすりつけなければならなかった。 そして、国王に進呈する貢ぎ物が使者の前に並べられてある。 この絵はそれでもかなり改善されて描いているが、 日本人の目から見れば屈辱的な光景である。 ところがこの儀式を中止すれば、これからの外交はおろか 貿易も成り立たないのであった。 つまりこれは、宗家の朝鮮国王に対する一種の朝貢儀式であり、 それが中世以来対馬と朝鮮との間で行われてきた もう1つの外交の重要な部分であった。 対馬藩は自らをそのような位置に置くことで、国際上の特殊な地位を獲得した のである。 徳川幕府と朝鮮国王の対等な関係は、こうした裏方の外交実務があって はじめて成立していた。 この裏方の仕事は宗氏でなければつとまらない。 同じことを幕府が行うと 朝鮮国王に日本政府が朝貢していることになる。 またこの役に柳川氏をあてることはできない。 柳川調興は自分は旗本であると主張している。 将軍家の直属の家臣が、そうした位置で外交を行うことなど もってのほかである。 地方の領主が昔からの習慣で儀式を行う 裏方の仕事は、釜山の倭館でやらなければならない。 やはり中世からこのことにあずかっている宗氏に任せるのが 無難ということになる。 (家康が対馬藩主の宗家の力が増大しないように柳川氏に力を与えるとき 与えすぎた、あるいは柳川氏が増長しすぎたため、宗家からおさえられたので 幕府が応援してくれるとと期待した柳川氏が逆襲をはかったが、 結局は江戸幕府に切り捨てられたのであろう) この事件以降は、対馬藩が直接採用していた外交僧の制度を廃止して 幕府が京都五山の碩学僧のうちから適任者を選んで、それを対馬に赴任させる ようになった。 当然、国書も対馬藩の代作というよりは幕府が直接作成するということになった。 そして、国書には、新井白石時代の「日本国王」以外は「大君」が用いられた。 中国が明から清に交代する時期にあたったので、朝鮮は北の新しい圧力の中で 南の日本との外交をつつがなく続けることが国家の安泰のためには望ましいと考え むずかしい注文は出さなかったのである。 実務においては、対馬藩はやはりめんどうな朝鮮との交渉はさせられた。 たとえば、将軍家光は対馬藩に朝鮮の「馬上才」(ばじょうさい 馬の曲芸) の来日を求めさせた。これは対馬藩の交渉能力のテストであったが 対馬藩は無事交渉役を成功した。馬上才は朝鮮通信使来詔の度に 国書伝命の儀式終了後に、場内の馬場で催された。
1588(天文16) 規伯玄方生まれる。
1589(天文17) 日本国王使派遣、通信使来日を要請。
1590(天文18) 通信使来日、秀吉と接見。
秀吉、南部信直に南部領の朱印状下す。
1591(天文19) 日本国王使派遣。正使玄蘇、副使柳川調信。九戸政実の乱。
1592(文禄元) 日本国王使派遣、通信使来日を要請。
1589(天文17) 文禄の役。
1596(慶長元) 明国講和使節と朝鮮通信使来日。
1597(慶長 2) 慶長の役。
1598(慶長 3) 秀吉亡くなる。
1606(慶長11) 家康国書偽造。
1607(慶長12) 朝鮮使節来日、日朝修好回復。
1608(慶長13) 日本国王使派遣。正使玄蘇、副使柳川智永。
1611(慶長16) 玄蘇亡くなる。玄方京都へ修業。
1616(元和 2) 家康亡くなる。柳川調興諸大夫に任じられる。
1617(元和 3) 日本国王使派遣。正使橘智正。
1620(元和 6) 玄方、西堂となる。
1621(元和 7) 日本国王使派遣。正使玄方、副使宗智順。
1629(寛永 7) 日本国王使派遣。正使玄方、副使杉村釆女。初めてソウルに行く。
1633(寛永10) 黒田藩の栗山大膳、南部藩に預けられる。
1634(寛永11) 国書改竄審理。
1635(寛永12) 柳川調興弘前に、規伯玄方盛岡に預けられる。
1652(承応元) 栗山大膳亡くなる。
1657(明暦 3) 宗義貞対馬藩主となる。
1658(万治元) 規伯玄方(方長老)赦免。京都の南禅寺に移る。
1661(寛文元) 規伯玄方(方長老)大阪九昌院(南禅寺末寺)で亡くなる。
1684(貞享元) 柳川調興弘前で亡くなる。
1763(宝暦13) 朝鮮使節日本よりサツマイモ持ち帰る。
1808(文化 5) 間宮林蔵、樺太探検。フェートン号事件。
1811(文化 8) 第12回(最後の)朝鮮使節来日。
1840(仁孝11) アヘン戦争(〜42)。