基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

名詞の性のお話

                   野 田 保 之

「天照大神は、わが天皇陛下の御先祖にてまします。その御徳、きわめて、
高く、あたかも、太陽の天上にありて、世界を照すが如し。」これは戦前昭和
11年ごろの小学日本歴史第1頁の書き出しです。この天照大神という人物名は、
戦後小学校教育を受けた方たちには、聞きなれない名かもしれませんが、
「天の岩戸」の物語などは、以前「日本誕生」とかいう映画の中にもとりあげ
られたりしましたから、ご存じの方もあるかと思います。この「天の岩戸」の
神話も、歴史学者にいわせれば、さまざまの学説があり、その意味は必ずしも
一定していないようですが、天照大神が日の神であり、しかも女性だったという
ことは、ドイツ語の女性名詞「太陽」(die Sonne) と偶然一致して、おもしろい
と思います。

ドイツ語にはじめて接した人たちが、最初にとまどうものの一つに、この名詞の
性の問題があることは、経験者であるみなさんは、よくご存じのことでしょう。
たとえばわたくしたちがふだん耳にするドイツ語、「アルバイト」(die Arbeit)、
「ヒュッテ」(die Huette) は女性名詞、「アイゼン」(das Eisen)、「ザイル」
(das Seil) は中性名詞と聞かされますと、いったい何を根拠にと首をかしげたく
なります。英語の名詞でも flower,ship などは she で受ける場合もあり、性の
区別が多少意識されることもあるのですが、ドイツ語のように、決定的に重要な
意味を持っていませんね。

それでは、ドイツ語の名詞の性は何を基準にしてきめられているのでしょうか。
まず人間や動物の場合は、それぞれのもつ自然の性、外観、強さ、弱さなどと
文法上の性が一致するという点はよくご存じですね。たとえば der Vater ― 
die Mutter ― das Kind; der Ochse ― die Kuh; der Loewe ― die Maus 
などの例がそれを示しています。しかし必ずしもそうとばかりはいえません。
das Maedchen, das Fraeulein などがすぐ頭に浮かびますね。また「番兵」
(die Wache) が女性ではものの役に立たないかもしれません。前者については、
-chen, -lein (縮小語尾) が中性名詞をつくる語尾だったということを思い出し
てください。さらに例の「太陽」(die Sonne) が女性で、「月」(der Mond) が
男性ということになると、むしろ逆ではなかろうかと思われるくらいです。
実際フランス語など、ラテン系の言語では、太陽は男性 (le soleil)、月は女性
(la lune) で、ドイツ語とはまったく正反対になっています。しかし、これは
最初にあげた神話にでてくる天照大神が女神だったように、それぞれの民族の
持つ自然に対する固有の感情が原因だと考えれば、無理もないことだとも思え
るのです。文法上の性の起源、特に無生物が男性名詞や女性名詞になったことの
起源は、古代人が万物を人格化したからだといわれていますが、ドイツ人の祖先
にあたるゲルマン民族は北方系の森林民族でしたから、その自然に対する感情
からして、太陽を、長い暗い冬の冷たい雪の下から万物を開放し育ててくれる、
あたたかい母性的なものととらえたのも当然のことなのです。それに反して、
冬の凍りつくような寒空に皎皎(こうこう 日偏)と冴え渡る月、それは黒々と
した樹木の枯枝とのコントラストも加わって、女性的なやさしさよりも、むしろ
男性的な厳しさを人の心に植えつけたのでしょう。「月影のなぎさ」などという
南国のロマンチックな女性的ムードは、北国では考えられないことなのかもしれ
ません。ところで日本語の名詞にもし性があるならば、はたして太陽は女性に
なったでしょうか。それとも男性でしょうか。みなさんはどうですか。男性と
思う人はインドネシア系、女性と感じる人はモンゴル系ということになりそう
ですね。われわれ大和民族は、南方系、北方系の民族がまざりあってできた優秀
な(?)雑種だという説もあるくらいですから。

さて「太陽」とか、「月」などは、それを人格的にとらえることによって、その
性の意味も何とか説明がつくのですが、 der Tisch, die Feder, das Buch など
の例になると、まったくお手あげです。なれないわたくしたちにとって、これら
非人格的な名詞の性すべてを完全に覚えることなど至難のわざといえましょう。
しかしここで挫けてはいけません。Goethe ではありませんが、絶えず努力する
人こそ救われるのです。名詞の性を記憶するもっとも実用的な方法は、定冠詞
つきのままその名詞を覚えること、また7月号下山さんのお話にあった「名詞の
性の識別法」などを利用すること等々、努力の積み重ねにまつほかはありません。
どうぞ油断せず中級への飛躍のために基礎がためを怠らないでください。
       (4月号)   

 

essen, trinken, besuchen
                   真 鍋 良 一

あるホテルのレストランのチーフマネ
ジャーが、あるパンフレットにこんなこ
とを書いていました。「外国人はスープ
をのむと言わないで、たべると言いま
す。それほどスープというものは洋食の
中でも重い役割をしめているので、あっ
てもなくてもいいような軽い食物ではな
いのです」といったようなことです。

「のむ」と言わずに「たべる」と言う、
というところはいいのですが、そのあと
の「たべる」という理由づけはちょっと
どうかと思います。スープはもちろん食
事のだいじなコースのひとつにはちがい
ありませんが、だから「たべる」という、
と言うのはどうでしょう。

ドイツ語の essen「たべる」という語
は、ナイフとかフォークとかスプーンと
か、食器をつかってたべるときに用いる
語なのです。 trinken 「のむ」というの
は茶碗とかコップとかの容器に直接口を
つけてのむときの語なのです。スープは
スプーンを用いますから、もちろんたべ
る(essen)ものです。ビールなどはのみ
ますね。

外国人を日本料理におよびしますと、
はじめての人はよく、おつゆが出される
と、ちょっとまごついて、お膳の上の食
器をさがします。そんなとき trinken
してよろしいのですよ、と言ってあげる
と安心してお椀に口をつけます。

コーヒーについているスプーンで、コ
ーヒーをしゃくってのんだりしたら、き
っと、コーヒーは essen しないで、
trinken しなさいと言われるでしょうね。

besuchen「訪問する」という語も、日
本語と意味にずれがあるので、よくまち
がって使われます。 besuchen というの
は「会いたい人のところへ行って、一定
時間その人と話などしてそこにとどま
る」こと、つまり、いわゆる訪問の「目
的を達したとき」だけに用いるのです。
ですから、彼女を訪問(besuchen)した
けど留守だった、ということはあり得な
いのです。 besuchenしたけど、つめた
くあつかわれた、というのなら大いに可
能性があります。ですから展覧会や、劇
場(芝居)、観光地などは besuchen でき
ます。そういうものは、にげもかくれも
しません、行けばかならず目的を達しま
すから。
    (4月号)   

 

             

 

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