基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

ワーグナー
            山根銀二

メンデルスゾーンやシューマンがドイツ音楽をロマン主義の方向へ
回転させはじめたとき、それをオペラないし楽劇の領域でおこなった
のがワーグナーでした。ドイツのオペラはモーツァルトで大きく
盛り上がりましたが、ベートーヴェンやシューベルトの主な仕事の
領域ではなくむしろウェーバーがモーツァルトの次にあらわれる
オペラ作曲家でした。そしてこのウェーバーを継ぐ位置にきたのが
ワーグナーということになります。

リヒアルト・ワーグナー Richard Wagner は1813年5月22日に
ライプチヒで生まれました。はじめは劇作家になろうとし、
ライプチヒ大学では哲学に籍をおきましたが、シューマンと同じく
音楽の魅力にとらえられて勉強をはじめ、専門家について対位法の
手ほどきを7カ月うけただけでヴュルツブルクの合唱指揮者(1833年)
になったのを手はじめに、指揮者の生活にとびこみました。
ヴュルツブルクからマクデブルク、リガといった具合に転々とし、
このリガ劇場指揮者のとき、借金で首がまわらなくなり、密輸入
業者の手びきで夜国境を越え、ピルラウ港からロンドンゆきの船に
のって脱出したのですが、その航海が大変なシケで、ハイネの物語
から知った「幽霊船」を、ほうふつさせるものがありました。
これがそのあと「さまよえるオランダ人」のインスピレーションと
なったのだそうです。ロンドンからパリに渡りましたが、オペラの
ピアノ編曲や音楽通信の雑文がきなどをして、やっとその日その日を
すごすひどい生活でした。その困難のうちに出世作「リエンツィ」
(1840年) が完成、ドレスデン宮廷劇場で、この「リエンツィ」と
ひきつづき完成された次の作品「さまよえるオランダ人」(1841年)
 が上演されて大成功をはくし、そのためワーグナーは宮廷楽長に
任命されました。そのあと「タンホイザー」(45年)、「ローエングリン」
(47年) といった具合に大作がつくられてゆきますが、やがて1849年
の5月には、パリから発したいわゆる2月革命の波がドレスデンをも
襲い、宮廷楽長ワーグナーはバクーニン
たちのたてこもる革命の司令部に出入する
熱心な闘士となって働きますが、プロイセン
軍の侵攻にもろくも破れ、命からがら
チューリヒに脱出。ここでヴェーゼンドンク
夫妻の庇護の下に「革命と芸術」「未来の
芸術作品」「オペラとドラマ」などを書き、
従来の歌劇とちがったいわゆる楽劇の理論を
完成します。それらの著述はフォイエルバッハ
の思想を音楽に適用したともいえるほどで、
両者の考え方が非常によく似ているのは興味
あるところです。それからまた、この楽劇の
理論を実際に作品化するものとして、その頃
「ニーベルングの指輪」(1874年) の4曲
(「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジーク
フリート」「神々のたそがれ」) が着想され
ました。そうこうしているうちに革命の波は
退潮して、ワーグナーの考え方もフォイエル
バッハからショーペンハウアーに傾いていった
折に、ヴェーゼンドンク夫人マティルデとの
悲恋がおこり、それらのことが「トリスタン
とイゾルデ」(59年) を生む機縁となりました。
その後60年には追放がとかれ、64年にはルート
ヴィヒII世に迎えられてミュンヘンの宮廷
音楽家となり、67年にはきわめて楽天的な
「ニュルンベルクの名歌手」をかきました。
69年にはリストの娘でハンス・フォン・
ビューローの妻だったコージマと結婚、トリープ
シェンのみちたりた生活の団欒には若い大学
教授ニーチェもときどき参加しました。74年
には自作上演のためバイロイトにたてた祝祭
劇場が完成、また、完成祝賀の上演曲としての
前出「ニーベルングの指輪」が完成、その後
最後の作品である舞台聖祝劇「パルジファル」
が82年にかきあげられることで、創作はおわり
ました。その初演の後ヴェネツィアに保養に
ゆきましたが、そこで心臓まひで急逝しました。

ワーグナーの仕事は、それぞれその時代の精神
を反映して、きわめて独創的なものであった
だけに、その後世にのこした影響は絶大なもの
がありました。それはすべての流派、国籍に
わたり、例えばドイツ音楽とは相容れない
フランスやイタリアの人たちにも、いろいろ
な形で影響したほどです。ワーグナーのあと
には、その行き方を交響曲の領域でうけとめた
のがブルックナー、マーラー、またリードでは
ヴォルフ、交響詩と楽劇の分野にそれを発展
させたリヒアルト・シュトラウスが出ました。
またワーグナーの行き方に激しく対立して古典
音楽の規格にそってロマン主義を深めたブラー
ムスがワーグナーを追いかけるようにして
現われ、その方向はレーガーにひきつがれて
ゆきました。
    (1月号)   

      

革命と反革命
            成瀬 治

ドイツの自由・国民主義運動の中では、
観念的・理想主義的な要素と現実的な動機
とがまじり合っていましたが、後者を代表
するブルジョワ的な世論の中心となったの
は、ヴィーン会議でプロイセン領となった
ラインラント州です。ルール重工業地帯を
含みドイツ産業革命の先頭をきったこの地
方は、ナポレオン時代フフンスの支配下に
置かれ、1815年以後もなお、他の諸州に見
られぬ進歩的な民法典や裁判制度を享受し
ていました。マルクス・エンゲルスが共に
この州の出身であり、またドイツにおける
彼らの活動中心がやはり同じ州の大都市
Koeln であったことも、偶然とは思われま
せん。この地方の工場主や商人たちは、プ
ロイセン王国が自由な立憲国家となり、そ
の上で統一ドイツに吸収されることを何よ
りも望んでいました。1840年に即位したイ
ンテリ国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4
世は、こうした世論におされて1847年、プ
ロイセンの連合州議会(各州の身分制議会
の合同)を招集したものの、中世的な身分
制国家の理念を奉ずるロマン主義者のかれ
は、ブルジョワ議員たちの憲法制定要求を
斥け、深い幻滅を買いました。あまつさえ
ここ数年来凶作が続いて、 Koeln や Berlin
に労働者の暴動がおこるなど、世相はしだ
いに険悪になっています。

そんな中で1848年2月、Paris における
民衆の蜂起と共和制樹立のニュースが伝わ
ると、たちまちドイツ各地に動乱がおこり、
反動の拠点 Wien は3月中旬民衆に制圧さ
れてメッテルニヒはイギリスに亡命、続い
て Berlin でも王は市民の要求に屈して軍
を撤収し、ラインラントの実業家カンプハ
ウゼンを首班とする自由主義政府が生まれ
ました。この革命のさいプロイセン王は、ド
イツの自由・統一のシンボルとなっていた
「黒・赤・金」の三色旗を立てて Berlin 市
内を廻り、憲法の発布などを約束していま
す。しかしこれも結局はジェスチュアにす
ぎず、やがて Wien で反革命が勝利するに
およんで反撃に転じた王が、「恩恵として」
プロイセン国民に与えたものは、三級選挙
権という足枷(あしかせ)をはめられた二院制の
議会と王権優位をうたう欽定憲法(1850年
1月)だけでした。

一方、ドイツ全体にわたる自由と統一の
問題はどうなったかといえば、これは1848
年の5月18日、ゲーテの故郷の町 Frankfurt
am Main の聖パウロ教会堂でおごそかに
開かれた、ドイツ史上最初の国民議会が引
き受けた課題でした。この議会は、旧来の
連邦議会の協力下に、普通選挙にもとづい
てドイツ各邦から選ばれたものです。けれ
ども、おそらくこれは当時のドイツ社会に
おける「名士」の観念を反映しているので
しょうが、この議会を牛耳ったのは殆んど
が、歴史家 Dahlmann,Droysen、老詩人
Uhland らをはじめとする、多分に理想主
義的な「知識人」ばかり。そのため議会は、
新しきドイツは君主国たるべきか共和国た
るべきかといった原則論に大切な時間を空
費したうえ、統一実現の方式をめぐってオ
ーストリア中心の「大ドイツ主義」とプロ
イセン中心の「小ドイツ主義」とが対立し、
いたずらに議論が紛糾しました。ようやく
翌年3月末に「ドイツ国民の基本権」を骨
子とする「帝国憲法」を採択したものの、
議会によって世襲の皇帝に選ばれたプロイ
セン王が、人民主権論への反感から、ドイ
フ諸邦の君主の同意なくては帝冠を受けら
れないといって断わるにおよんで、折角の
憲法も全く宙に浮いてしまいます。オース
トリアがいち早く議員を引揚げたのに続
いて、他の諸邦の穏健自由主義者もしだい
に帰国し、Stuttgart におちのびた残部議
会も軍隊の手で解散させられるという状況
のもとで、帝国憲法を守り抜けと叫ぶプチ
ブル民主主義者たちの最後の蜂起が、西南
ドイツで散発的におこりましたが、強力な
プロイセン軍の前では所詮敵ではありませ
ん。こうして反革命は49年の夏に勝利し、
旧い連邦体制が復活しました。

しかし、未完成に終わったどはいえ、こ
の革命運動を通じてプロイセンは曲りなり
にも立憲君主国へと生まれかわり、最も反
動的なオーストリアですら、革命当初に廃
止された農奴制は二度ともどってこないと
いう風に、全体として自由主義的諸理念の
実現がうながされたことは間違いありませ
ん。エンゲルスは革命の挫折の教訓に立っ
て有名な『ドイツ農民戦争』を書き、プロ
レタリアートによる革命の徹底を恐れるブ
ルジョワジーの寝返りを非難しましたが、
1850年代のドイツには資本主義経済の未
曽有の発展が見られました。鉄道網は3000
キロから11000キロに延び、Hamburg 港
の積荷量は3倍になり、ドイツは今や石
炭、鉄鋼、機械、絹織物の大生産国へと成
長しつつ、イギリス商品を国内市場から駆
逐してゆくのです。こうした経済ブームの
中で、ドイツのブルジョワジーの自由主義
が、その重点を政治的なものからますます
経済的なものへと移し、裏切られた理想主
義のかわりに打算的な現実主義を身につけ
たとしても不思議ではないでしょう。そし
てこの経済的現実主義に対し政治的な現実
主義をかかげて登場してくるのが、かのビ
スマルクなのでした。
    (1月号)   

             

 

 

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