ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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ロマン楽派の抬頭 山根銀二 ベートーヴェンが晩年の苦渋にみちた闘いの中から、いわゆる第三期 様式のひかりかがやく諸作品を生み出していたときに、それとは全く 別な領域で,二人の天才が仕事をしていました。リートのシューベルト とオペラのウェーバーがそれです。 フランツ・シューベルト Franz schubert は1797年の1月31日にウィーン 郊外のリヒテンタールで小学校教師の子として生まれました。自分も 教師の仕事を手伝っているうちに、どうしても音楽がやりたくなり、 1810年頃から自己流でいろいろなものを作曲しはじめ、1814年にはもう 「糸を紡ぐグレートヒェン」、15年には「魔王」、「野バラ」のような すぐれたものをかくようになりました。それから約13年間の短い期間に 彼の作曲したリートは「美しい水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」 などの名歌曲集をふくめて全体で600曲以上にのぼりました。そのほか に規模の大きな交響曲、例えばハ長調や未完成交響曲などのほか、 またピアノソナタや絃楽四重奏曲にも多くの傑作をのこしておりますが、 そのいずれもリートの精神につらぬかれた流麗な音楽です。リートは 当時のドイツに興隆した抒情詩をテクストとして、それにキメこまやか な旋律とピアノ伴奏をつけたものです。ベートーヴェンの音楽が大きな 思想や感情を土台として、大規模な構成による表現を目指しているの に反し,シューベルトの場合はもっと小さな日常的な、したがって いっそうインティームなものを、小さな形のうちに極端に表現している といえます。またベートーヴェンは苦悩をつきぬけての歓喜を生活と 作曲の信条としましたが、シューベルトは喜びではなくてむしろ 悲しみを作曲の起動力にしている点も正反対。性格的にも、生活の 方法も逆です。いいかえればベートーヴェンが大きな世界市民である とすると,シューベルトはウィーンの小市民であり、ベートーヴェン の栄光のかげにかくされたところに、その芸術をみのらせたのでした。 亡くなったのはベートーヴェンの翌年の1828年11月19日、31歳の若さ でした。 カール・マリーア・フォン・ウェーバー Carl Maria von Weber はドイツ北部のオイティン に1786年11月19日に生まれたオペラ作曲家 です。父はモーツァルトの妻コンスタンツェの 父と兄弟ですから、ウェーバーとモーツァルト は従兄弟同士ということになります。幼時から 楽才をあらわし、12歳のときに最初のオペラを 作曲し、晩年には「魔弾の射手」(1820)、 「オイリアンテ」(1823)、「オーベロン」(1826) をかいて,ドイツ・ロマン楽派のオペラの先頭 を切りました。オペラのほかに有名な作品と してはピアノ曲「舞踏への勧誘」、ピアノと 管絃楽のためのコンツェルトシュテュックなど があります。亡くなったのは1826年6月5日、 ロンドンに行ってオーベロン初演の指揮を すませた後でした。 これらの人たちの亡くなった後、ドイツ音楽は はっきりとロマン主義時代に入ります。 メンデルスゾーンとシューマンがその先達として あらわれ、ついでワーグナー、リスト、 ブルックナー、ブラームスたちの時代となります。 フェーリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ Felix Mendelssohn Bartholdy (1809-1847) は 裕福な銀行家の家に生まれたユダヤ系ドイツ 作曲家で,小さいときから理想的に教育され た秀才でした。ゲーテの取り巻きの一人 ツェルターに師事したことからゲーテの 知遇を受けました。バッハを歴史の忘却から すくいだした仕事も有名です。作風は均斉の とれた温和な表現を、完備した形式のうちに 浮彫りにしたものです。そのため、激しい力感 や深い感動からは縁遠い、優雅な抒情が主眼と なっております。それをよくあらわしている傑作 にヴァイオリン協奏曲ホ短調や、ピアノ曲の 「無言歌」があります。 ローベルト・シューマン Robert Schumann (1810-1856) はザクセンのツヴィッカウ生まれ。 はじめ法律の学生でしたが,ピアニストに なりたくて猛勉強し、その結果、指をいためて しまって専ら作曲に没頭。したがってピアノの 小曲が彼の本領でした。例えば最初の頃の 「アベッグ変奏曲」(1830)「蝶々」(32) など、 したたるような抒情の小曲をつないで組立てて ゆきます。この方法はその後の交響的練習曲 (34) や「子供の情景」(38), クライスレリ アーナ (同) などにも見られます。これらの ピアノ曲の10年間のあと、リートの時期が つづき、それでは「ミルテの花」、「詩人の恋」、 ハイネとアイヒェンドルフによる二つの 「リーダークライス」(いずれも40)のような 傑作が書かれました。それは旋律の点でも ピアノ伴奏の上でも,シューベルトをいっそう 繊細にしたものです。彼はまたノイエ・ ツァイトシュリフト・フュア・ムジーク 「音楽のための新雑誌」を創刊し,音楽評論 の筆もとりました。ピアノの師ヴィークの愛娘 クラーラと長い闘いののち結婚し(40)、幸福 な家庭をつくりましたが、不幸にも発狂して ライン河に投身 (54) し、その後エンデニヒ の精神病院で亡くなりました。 (12月号)
採点こぼれ話 常木 実 教師稼業をしていると一年の経過が実に速く感じられる。それは一年間のス ケジュールがだいぶ前からできていて、この整然たる予定表にしたがって4月 の中ごろから活動を開始し、絶えず先の先まで見とおしてアクセク働いている ためでもあろう。 大学もこのごろは夏休み前に最初の試験をする所が多くなった。学生の側に 言わせれば、9月に試験をやられたんでは夏休みにバイトもおちおちできない し、またのんびりレジャーを楽しむわけにもいかないというし、教師の側から はせっかくおぼえてもらったドイツ語の文法知識を、夏休み中にきれいサッパ リ忘れてしまわれては困るというわけである。 採点のつらさは多くの教師に共通のようだ。採点のうち一番つらいのは入学 試験のそれであろう。限られた期間内に山ほどもある答案を調べる苦労は、採 点をした人でないとわからないだろう。本誌毎号の懸賞出題・採点者の小塩さ んはこの道のベテランだが、それでも答案の山を前にしてため息の出ることが あると聞いた。採点のつらさは1つには、採点をきょうはあすはと延ばすこと にあるようだ。入試や懸賞出題の採点のように期間が短く、採点報告の日時が きびしく決められている場合は別として、多少の余裕があると、つい採点にふ みきれないことがある。採点というものは、冬の夜中に小用をたすのと同じこ とで、どうせしなければならないことだから、思い切って暖い寝床からはい出 せばよいのである。布団のぬくもりに安住して(?)いると、体にもさわるし精 神衛生の上からも悪いにきまっている。学生諸君の中には徹夜の勉強までして この答案を書いてくださった方があると思えば、義理にも採点は延ばせないと いうのが、わたしの持論である。 戦後新学制の発足当時はわたしもまだ若く、旧学制の時代には見たこともな かった女子学生の答案を見たとき、多少の心理的動揺があったようだが、やが て女子学生が珍しくなくなるにつれて、男女同権の趣意を体してすっかり不感 症になっている。こういうのを老化現象(Alterserscheinung)というのだろ う。 採点に当って一番困るのは、数ある答案の中には時とすると、解答欄に解答 以外のことが書いてあることだ。「今学期はすっかり怠けてごらんのとおりお 恥かしい次第です。来学期には必ず取返すよう頑張ります」などというのは、 こちらもついホロリとさせられてしまう。見事な(?)雪だるまの絵にそえて、 「手も足も出ません」と注釈がついていたり、「先生、あわれな小羊だと思っ て、情けをかけてやってください」などと、小羊ならぬクマのような大男が書 いていたりする。 同じような答案を何十枚もめくっているとき、こういう珍(?)答案にお目に かかると、息抜きにもなるし思わず微苦笑させられてしまうが、やはり解答欄 に全然解答と違うことが長々と書いてあるのは困る。言いわけやら泣きごとや らを解答欄に整然と書きつらね、しかもなかなか論理的で説得力に富んでいる ように見えるのもあるから、始末が悪い。末尾には「不幸にして先生の単位を いただけない場合には、留年の道=親不幸の道をたどることになり、経済的に 全く余裕のない両親の悲嘆を思うと胸も張り裂けるばかり、わけても数年来高 血圧症に悩む母には必ずや異常なショックを与え、ひいては私の一生にまで災 いし…」とある。 これではまるで脅迫状だ。こういうことのないように出席点なるものを与え、 試験の数週間も前から出題傾向も教え、また止むを得ざる事情で授業に出られ なかった者、勉強のできなかった者は申し出るように言い渡してあるのだが、 こういうことを言い渡されるべき学生は、たいてい教室には出てこないために、 学生の側からすれば止むを得ず一方的宣言を発するのであろう。数年前思いが けなくも水茎の跡うるわしい女性名の手紙をいただいた。年甲斐もなく胸とき めかしつつ開封してみるとこれも脅迫状である。ただし流石に女性らしく、か らめ手から綿々と訴えてくる名文であった。 手紙ならまだしも臆面もなく電話をかけてくる者もある。また「私がドイツ 語の合格点に達するためには、あと○○点が絶対に必要です」とご丁寧にも点 数まで暗示してくれたのがある。もうだいぶ前のことだが、速達!という郵便 屋さんの声に玄関に出てみると、「これはグラム超過で郵税不足ですからお払 いください」ときた。3倍もの料金の支払いをすませて開封した十数枚に及ぶ 手紙が、これまた脅迫状である。生れてはじめてなほど腹を立てたが、この学 生はその後幾年かしてめでたく卒業し、所もあろうに郵政省とかの役人になっ たと、風の便りに聞いた。 (12月号)