基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

ハイネ
             高橋健二

ドイツ文学にかぎらず、世界文学を通じ、ハイネ
ほど賞賛と非難との的になり、激しい論争の対象
になった詩人はないでしょう。それは彼がユダヤ人
であったことと、「ローレライ」などの流麗な叙情
詩人でありながら、神や教会や既成のあらゆる権威
に対して、しんらつで機知に富む批判と皮肉とを
あびせたことによります。しかしおもしろいこと
に、軍国的ドイツ帝国の象徴のような鉄血宰相
ビスマークが「諸君は、ハイネが、ゲーテだけが
並称され得るようなリートの詩人であることを
全く忘れているのか。そのリートはまさに独特に
ドイツ的な詩の形式であることを忘れているのか」
と言っています。人種はどうあれ、政治的な主張
はどうあれ、ハイネがドイツのリートの最もすぐれ
た作者であることは、ビスマークも認めている
とおりであります。

ハイネ (Heinrich Heine 1797-1856) は商業都市
デュッセルドルフに生まれ、ユダヤ人らしく商人
になるべく、19歳の時ハンブルクで伯父ザロモン
の銀行に勤めましたが、伯父の目からはこの愚鈍
な青年はものになりませんでした。黄金万能の
伯父は「あれも何か習得したら、本なんか書く
必要がなかったろうに」と、ハイネが有名な詩人
となってからも言いました。

ハンブルクはハイネにとって幻滅と悩みの揺りかご
になりました。21歳のハイネは伯父から資金を
もらい、織物取次店を開きましたが、すぐ倒産し
ました。そんな無能なハイネを、伯父の娘たち
がけいべつしたのに不思議はありません。ハイネ
は伯父の娘アマーリエとテレーゼを次ぎ次ぎに
愛しましたが、冷たい仕打ちに失恋の苦杯をなめ
ました。その切ない片思いをリートに表白しました。
「若い悩み」(Junge Leiden) と「叙情挿曲」 
(Lyrisches Intermezzo) には、アマーリエへの
愛とうらみが、「帰郷」(Die Heimkehr) と
「北海」(Die Nordsee) には、テレーゼへの
報われぬ恋が歌われています。

その間ハイネは弁護士になるため伯父のすすめ
で1819年ボン大学にはいりました。しかし文学
をより多く勉強し、学生運動にも従いました。
ゲッティンゲン大学からベルリン大学に移って、
そこで1821年末、初めて「詩集」を出して、
詩才を認められました。さらに23年には、「悲劇
付叙情挿曲」を出しました。それはあの有名な
「美しい五月に...」というリートで始まって
います。その時から今日も世界中で愛唱され続け
ている歌ですが、この詩集の歌は作者にとっては
失恋の「悪いリート」だったのです。

1824年、彼はゲッティンゲン大学に再入学、その
秋ハルツ山地に旅行し、ワイマルに出て、ゲーテ
を訪れました。ゲーテに会い、その目にとまる
ことは、すべての詩人の念願でした。ハイネも
ゲーテの感心しそうな話題をいろいろと考えて
いましたが、いざとなると、「ファウスト」を
書いていますなどと言ってしまいました。75歳
のゲーテがもう半世紀も苦心している大作を、
27歳のハイネが事もなげに口にしたので、文豪
のきげんをそこねてしまいました。しかしその
時の紀行「ハルツの旅」(Harzreise) はハイネ
の機知縦横、自由自在な文才を遺憾なく発揮した
もので、いつ読んでも、みずみずしくはつらつ
としたユーモアに引きこまれます。「ハルツの旅」
は詩集「帰郷」と「北海,I」と共に、「旅の絵」
(Reisebilder) 第1部として1826年に発表され
ました。「帰郷」には「ローレライ」の詩が含
まれております。ハイネは20代で早くも世界で
最も多く愛唱される詩人となったわけです。

その前年ハイネは大学卒業をひかえ、新教に
改宗しました。ユダヤ教徒では弁護士になれない
からです。「洗礼証書は欧州文化への入場券」
だと彼は言っています。彼はあらゆる既成宗教
の敵でしたから、信仰からでなく、処世の必要
から改宗したのですが、失敗でした。ユダヤ人
からは背教者と見られ、キリスト教徒からは
依然としてユダヤ教徒と見られたからです。
宗教的偏見に悩まされたハイネは、日本人に
なりたいとさえ言ってます。

ハイネはその後「旅の絵」の続きに、イタリア
やイギリスの印象を書き、清新なジャーナ
リスティックな文体の先駆者になりました。
1827年に「歌の本」(Buch der Lieder) が出ま
した。今までの詩を全部一巻にまとめたもので、
美しくやさしいリートの豊かな宝庫と言え
ましょう。しかし彼はもう1828年のイタリア旅行
(旅の絵の第3部)で、「私は文学をどんなに愛し
ようと、文学は私にとっていつも神聖なおもちゃ
であった...私は詩人の名声に大きな価値を
置かなかった。...諸君は私の棺の上に剣を
置かなければならない。私は人類解放戦争の
勇敢な兵士だったのだから。」と言っています。
そして1830年ヘルゴラント島で,バリに7月革命
の起きた報を聞くと、感激のあまり、「私は
革命の子だ」と叫び、新しい宗教である自由を
めざし、パリへ向かいました。パリで彼は終生、
詩に散文に流麗、悲壮なペンをふるって,最も
不滅な人間の一人になりました。1856年に死んだ
彼は、パリのモンマルトルに葬られています。
    (10月号)   

  

三十年戦争と絶対君主政
             成瀬 治

皇帝 KarlV. はアウクスブルク宗教和
議の翌年(1556)失意のうちに退位してス
ペインに隠棲し、弟の Ferdinand  I. が皇
帝になりますが、スペイン王国とその海外
植民地およびネーデルラントは太子のフェ
リペ2世に継承され、ここにハプスブルク
家はスペイン系とオーストリア系に分裂す
ることとなります。両系統のうちでスペイ
ン系が圧倒的に優勢なことは、その経済的
基礎を考えただけでも明らかでしょう。オ
ーストリア系は、同家得意の婚姻政策の結
果、I526年いらいべーメンとハンガリーの
王位を獲得していましたが、ハンガリーの
支配をめぐって今後ながらくトルコとの間
に争いが続き、ハンガリー全土がオースト
リア領となるのはようやく1699年(カルロ
ヴィッツ条約)のことです。ともあれ、ハプ
スブルク家は宗教改革に抗してあくまでカ
トリシズムを堅持したので、オーストリア
はバイエルンと並んでドイツにおける最も
有力なカトリック領邦でした。しかしオー
ストリア領内の貴族には新教徒が多く、と
りわけベーメンのそれは反抗的で、17世紀
はじめごろまでにかなり大幅な宗教的自由
をかちとり、それが政治的にも同王国の統
治を困難なものにしました。 1618年から始
まる有名な三十年戦争は、ほかならぬこの
ベーメンの新教貴族に対するハプスブルク
家の抑圧が口火となって勃発したのです。
ベーメンの貴族たちが反宗教改革の闘士た
る皇帝Ferdinand II. のベーメン王位を認
めず、新教徒のファルツ伯 Fridrich V.
を王に選んだことから、戦争は忽ち全ドイ
ツに拡大していきました。

しかし三十年戦争は、単なるドイツ内部
での宗教戦争ではありませんでした。分裂
したとはいえなお密接な協力関係にあった
スペイン・オーストリア両ハプスブルク勢
力に脅威を感ずる諸外国の介入が、この戦
争の政治的な性格とその結果とを深く規定
したのであり、むしろこの点がいっそう重
要だといえます。 l630年にスウェーデン王
グスタフ・アドルフが参戦したのは、宗教
上の動機もあったにせよ、皇帝の大傭兵隊
長ワレンシュタインが北ドイツを征服し、
スウェーデンの生命線ともいうべきバルト
海に威圧を加えたことが、その直接の誘因
でした。しかもこの新教国の背後では旧教
国のフランスが糸を引いており、スペイン
を最大の敵とみなすフフンスは、Luetzenの
戦(1632)でグスタフ・アドルフが陣歿し、
まもなく戦争が膠着状態になると、こんど
自分が公然と介入してきました。そんな
わけで、ドイツの国土と国民はドイツその
ものの利益と無関係な諸大国間の長たらし
い戦争によってひどい目にあわされ、無紀
律な外人傭兵による掠奪や疫病の蔓延(まんえん)
もあって、1648年ようやく Westfalen条約
で平和が回復された時には、平均してドイ
ツの総人口はほぼ戦前の2/3に減っていたと
いわれます。

Westfalen条約はドイツの諸侯に殆んど
完全な国家主権(外国との同盟権も含む)
を与え、帝国の政治的解体を決定的なもの
としました。スイスとオランダが正式に独
立を認められるのもこの時です。バルト海・
北海沿岸の諸要地、Oder、Weser、Elbeと
いう三大河川の出口はスウェーデンに割譲
されてドイツ経済の「内陸化」をいっそう
促進し、アルザス地方は殆んどすべてフラ
ンスの手にわたってしまいました。フラン
スは間もなくルイ14世の親政のもとで絶
対王政の最盛期を迎え、ドイツにさまざま
の干渉をこころみますが、その影響は文化
の面にも及び、哲学者のフイプニッツがド
イフ語の純化を呼びかけねばならなかった
ほど、フランスの言語と風俗がドイツ各地
の宮廷や都市に氾濫することとなりまし
た。

宮廷といえば、経済的には英・仏などに
到底太刀打ちできないみみっちさの中で、
諸侯はそれぞれ「小ヴェルサイユ」をいと
なみ、何とか絶対主義的な統治形態をうち
立てようとつとめます。この絶対君主政の
確立という点でとくに典型的だったのは、
この頃オーストリアに対抗しつつ急速に台
頭してきたブランデンブルク=プロイセン
です。「大選帝侯」と呼ばれるFriedrich
Wilhelm(1640-88)は、三十年戦争のさい
に編成した軍隊を戦後も何かと口実を設け
てそのまま維持し、反抗的な地方貴族や都
市を威圧しつつ税制を改革し、官僚制によ
る集権政治の土台を据(す)えました。彼の事
業は、18世紀に輩出した二人のすぐれた王
(1701年にプロイセンは皇帝から王国の地
位を認められます)、Friedrich Wilhelm I.
(1713‐40),Friedrich II. (大王,1740-86)
によって完成されます。しかしこのプロイ
セン絶対王政は、 Junkerと呼ばれた地方
貴族をしだいに馴致し、陸軍の将校や高級
官僚のポストにつけることにより、王権の
忠実な道具に変えるという仕方で発展しま
した。そのかわり王の側では Junkerの領
地における農民支配には全く手を触れず、
むしろこれを保障さえしました。このため
プロイセン、とくにエルベ河以東の農業地
帯には、Gutsherrschaftと通称される前近
代的な大農場経営が強固に維持され、それ
がまたプロイセン的ミリタリズムの社会的
基礎ともなったのです。
    (10月号)   

  

DDRの大学制度・大学生活
                      西本美彦

本年5月に日本と東独は国交を樹立しま
した。東独の正式な国名は、ドイツ民主共
和国 Deutsche Demokratische Republik,
略して "DDR" と言います。

DDRは人口1,700万の社会主義国で、現
在では世界で十指に入る工業国です。この
DDRにわたしは、1961年8月から1971年
3月まで、約10年間留学していました。こ
こではわたしのDDR留学生活をとおし
て、この国の大学のことや、学生の生活な
どについて話してみたいと思います。

DDRに留学する外国人の大多数は、自
国で高等学校を終了した者ばかりです。

そこで、DDRに到着すると、息つくひ
まもなく、大学付属の留学生別科に入れら
れます。この別科のセンターは、ライプツ
ィヒにあるヘルダー・インスティトゥート
(Herder‐Institut)で、ここで1年間ドイ
ツ語中心の生活が続きます。わたしのいた
頃、はじめの4ヵ月間位は、朝8時から昼
の1時まで、ドイツ人教師の計画どおりに
ドイツ語の授業が行なわれました。そのう
え毎日の宿題の量がやたらに多く、予習・
復習を終える頃にはビーア・ホールも店じ
まいをしているといったぐあいでした。こ
んな生活がしばらく続くと、人間は少々神
経が冒されるようで、わたしなどは、こと
あるごとに、ドイツ人教師に食ってかかっ
ていました。スタンドの電球がよく切れる
とか、ベッドのクッションが悪いとか、部
屋にノミがいてよく眠れないとか、全くさ
さいなことで教師を困らして、日頃のウッ
プンをはらしていました。わたしはこの頃
を「ドイツ語恐怖症時期」と名づけていま
ず。実際にはこの時期に語学力は一番伸び
ていたわけで、これが「慢性症時期」に移
り、持ち合わせの語彙でなんとか表現でき
ることに満足しはじめるとあまり進歩はな
いようです。

(―ところが,聞くところによれば、毎
年何名かの留学生は、ドイツ語恐怖症から
本ものの精神異常になって本国送還の運命
をたどるらしく、Herder-Institut 時代を思
い出すたびに、背筋がゾクッとします。)
Herder-Institut で初級ドイツ語の第1次試
験、中級ドイツ語と専攻関連科目に関する
第2次試験に無事合格すれば、晴れて大学
入学ということになります。

さてわたしたち留学生は、大学ではじめ
てドイツ大学生と合流するわけですが、
DDRには現在54の大小の総合大学があり
ます。その中でもBerlin,Leipzig,Halle,
Jena,Rostock そして Greifswald などの大
学は伝統的な大学と言えましょう。この他、
Dresden の工科大学や、Freiberg の鉱山
アカデミーなどは有名な単科大学です。わ
たしの場合はベルリン・フンボルト大学
(Humboldt―Universitaet zu Berlin)文学部
で言語学を学ぶことになりました。専攻に
関してDDRの大学は日本とちがっていて、
ほとんどの学生は2科目を専攻しなくては
なりません。2科目のうち、一方が主専攻
(Hauptfach)で、他方が副専攻(Neben‐
fach)と呼ばれ、主専攻・副専攻の試験に
合格しないと、卒業できません。授業時間数
はもちろん主専攻の方が多くなります。主
副専攻の組み合わせは時間割の上からみて
もたいへんむずかしいわけですが、各大学
ごとに修学上可能な組み合わせをしている
ようです。たとえばフンボルト大学の教育
学部では、ロシヤ語(主)と美術(副)とか、
英語(主)と地理(副)とかがあり、他学部
では数学と経済学、歴史学と哲学、化学と
日本語などという組み合わせもあります。
わたしは主専攻に印欧語比較言語学、副専
攻にフィン・ウゴール語比較言語
学を選びましたが、ドイツ語もロ
クに分らないわたしにとって、少
し無理な組み合わせであったと今
ごろ後悔しています。 DDRの大
学の修学年限は、教育学部とか一
部の単科大学をのぞくと5年で
す。この5年間は一般にたいへん
きびしく教育され、たとえば学年
末試験を2科目以上落とすと、自
動的に退学せざるを得ませんし、
病気以外の休学なども許されませ
んし、いわゆる "サボる" ことにも
たいへんな勇気がいります。それにもかか
わらず、学生生活はいつも勉学に追われて
いるわけではありません。 ドイツ大学生の
ほとんどは200マルク前後の奨学金で生活
していますが、入学金や授業料は無論一銭
も要りませんので、それだけでも結構やっ
て行けます。わたしなども土曜日の夜など
は、よくさそわれて居酒屋でビールを飲ん
では、ドイツの学生歌をうたったり、議論
に花をさかせて、ワイワイ騒いだものです
が、このビール1杯が安い所で40〜50プ
フェニヒ(Pf.)でしたので、3マルクもあ
れば、大学の授業のことを忘れるのに充分
です。ちなみに他の物価についていいます
と、国電、市電、地下鉄はベルリン市内な
ら20 Pf.、寮費が月10マルク、学生食堂の
昼食60 Pf. 黒パン1kgが52 Pf. ジャガイ
モ5kgが85 Pf. です。夏休みになると、
旅行好きのドイツ人学生は、われ先きにと
ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーラ
ンド、ルーマニア等にでかけて行きます。

さて5年間の学業が終わり、すべての国
家試験に合格すると、ディプローム(Di-
plom)という学位が与えられ、成績の良い
者だけは博士課程生(Aspirant)として大
学に留まりますが、ほとんどの者は社会に
はいっていくことになるのです。
 (10月号)   

             

 

 

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