基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

宗教改革とその帰結
              成瀬 治

「ドイツ国民のローマ帝国」(Roemisches
Reich deutscher Nation)という言葉がは
じめて使われたのは1486年のある帝国法
においてです。その揚合「ドイツ国民」とは
ドイツ語をはなす住民の意味で、こうした
表現の背後にはかなり強い国民意識の成立
が考えられますが、それはまた15世紀に皇
帝の勢力がもはやイタリアの地に及ぼなく
なっていたという事実にも対応していまし
た。ルネサンス時代のイタリア諸国は、す
でに独自の道を歩みつつあったのです。し
かし同時に見逃せないのは、この頃ローマ
ア法王庁のドイツに対する財政的な圧迫が、
「ドイツ国民」の問に強い不満を呼び起し
ていたことです。ウィクリフを生んだイギ
リスはもとより、フランスでもスペインで
も、中央集権的な国民国家をつくりあげよ
うとする王たちは、カトリックの信仰を奉
じつつも、国内の教会に対する政治的・財
政的な支配を拡大するのに成功していたの
に反し、大小の領邦にわかれているドイツ
ではそれがうまくゆかず、帝国議会にはロ
―マの搾取に対する「ドイツ国民の苦情」
がしばしば持出されていました。この反ロ
ーマ感情は、しかし権力者だけに限られま
せん。前回に述べた市民階級の勃興を背景
として、当時のドイツには「ゲルマン的」
な民族意識の覚醒が見られ、デューラーや
ホルバインなどドイツ・ルネサンス芸術の
巨匠は、絵画に彫刻にドイツ的な精神の深
みを表現しようとつとめ、ウルリヒ・フォ
ン・フッテンをはじめとする人文主義者た
ちも、古代ゲルマンの英雄や皇帝時代の栄
光に憧れの目を向けていたのでした。

1517年にマルティン・ルターが法王の贖
宥状(免罪符)に対する95ヵ条の批判を公
けにしたとき、それ自体は全く神学的な性
質のものだったにもかかわらず、短時日の
間に全ドイツに流布し、驚くほどの大反響
をまねいた事実は、このような歴史的事情
を抜きにしては理解できないでしょう。
1519年のライプチヒ討論会でルターが、保
守的神学の代表者ヨハン・エックとわたり
合いつつ、反ローマ法王の立場を明らかに
すると、ドイツの人文主義者たちはこぞっ
てこれに拍手を送りましたが、それという
も彼らにとってルターの宗教改革運動
は、その昔トイトブルクの森でゲルマンの
武将アルミニウスがローマの大軍を撃滅し
らい、叙任権闘争をへて今の世まで続
けられているローマ人とゲルマン人の戦い
のひとこまと思われたからでした。ルター
自身、1520年の有名な改革綱領『ドイツ国
民のキリスト者貴族に与う』でドイツの教
会生活の改善をうったえたさい、まさにそ
うした反ローマ感情を代弁し、若い皇帝カ
ール5世(1519-56)やドイツ諸侯に期待
をかけていたのです。ところが皮肉なこと
に、フランドル育ちのこの皇帝はドイツ語
をろくに解せず、皇帝に選ばれるよりも前
にスペイン王でした。彼の属するオースト
リアのハプスブルク家(Habsburger)は、
1477年に皇太子マクシミリアンがブルゴ
ーニュ公女と政略結婚をしたことから、そ
の属領のネーデルラント(のちのオランダ
とベルギー)を手に入れ、更には相続の僥
倖が重なってスペイン王国まで継承するに
いたったのです。

このようなハプスブルク家の強盛はライ
バルのフランス王はもとより法王自身にさ
え恐怖を呼びおこし、更にオスマン・トル
コが東方からオーストリアに迫るという事
情も加わったため、カールはその治世の大
半をドイツ外部での戦争に費やさねばなり
ませんでした。また、ルターが法王に破門さ
れてのちもローマの法廷に引き出されず、
ヴォルムスの帝国議会(1521)で審理をう
けたのは、彼の保護者たるザクセン選帝侯
ら有力諸侯の圧力があったればこそです。
ルターが最後まで信念を貫き、帝国法の保
護を失ったにかかわらずドイツの各地で宗
教改革が実現され、ついに1555年のアウク
スブルク帝国議会でドイツにおける新旧両
宗派の共存が承認されたのも、そういう内
外の政治情勢に負うところが大きかったと
いえます。しかしその幸いには不幸が結び
ついていました。宗教改革の政治的主導権
を諸侯がにぎった結果、フッテンやジッキ
ンゲンらルター派の帝国騎士の叛乱(I522)
を粉砕した諸侯は、1525年、宗教改革に自
己の運命の打開を期待した農民の一揆が西
南ドイツから中部ドイツに拡大すると、宗
派の別なく協力してこれに血腥い弾圧を加
え、今後長きにわたってドイツの農民と市
民を政治に対する無関心の中に閉じこめて
しまったのです。「キリスト者の自由」を
もっぱら精神的に理解するルターが、自ら
農民の出でありながらこの農民戦争の鎮圧
に加担したことはすでにご承知でしょう。

こうして、当初は国民意識の高揚と結び
ついていた宗教改革は、ドイツの政治的分
裂を強化し固定する結果を生みました。当
時はアウクスブルクの大金融財閥フッガー
家に代表されるドイツ初期資本主義の英雄
時代でしたが、それは国民経済の地道な成
長を何ら促進せず、l6世紀いらい西欧諸国
が展開した貿易・植民競争からドイツは脱
落し、社会経済的な立ち遅れが目立つよう
になりました。
    (9月号)

 

特派員たち
              坂本明美

日本の新聞社や放送局が世界各国に特派
員を出して、いろんなニョースを現地から
直接日本に報道させているように、ドイツ
のマスコミ機関も東京に特派員を送り込み、
日本の政治、経済、文化各方面の出来事を
本国の読者や聴視者に伝えている。5月15
日、日本と国交を結んだ東ドイツは現在の
ところ、1人だけしかマスコミ関係者は常
駐させていないが、日本で活躍する西ドイ
ツの記者は、全部で9人もいる。これにド
イツ語を話すオーストリアやスイスの記者
を加え、さらにドイツから短期間の取材に
やって来るテレビ関係者等を考え合わせれ
ば、かなりの量の日本に関する情報がドイ
ツ語でヨーロッパに流されていることにな
る。

しかしここでは常駐記者が一番多い西ド
イツの日本特派員についてご紹介しよう。
ハンブルクのディー・ヴェルト、フランク
フルトのフランクフルター・アルゲマイネ、
ミュンヒェンのズュートドイチェ・ツァイ
トゥング等の西ドイツ日刊新聞、週刊誌の
シュピーゲル、北ドイツ放送のラジオとテ
レビ、それにDPA通信社と、西ドイツの
駐日マスコミ機関は多い。但し1人でいく
つもの雑誌や新聞の特派員を兼任している
人がいるから、何社が日本で取材活動に当
っているかは中々見通せない。また彼等の
守備範囲は日本だけとは限らず、席の暖ま
る暇もなく、インドネシアから韓国の間を
飛び回っている記者が多い。

興味深いのは9人の西ドイツ人記者の内、
3人が日本女性を、1人が中国女性を夫人
にしていることだ。中には日本人以上に日
本語が上手な人もいるが、ご夫人方の助力
はかれらの報道の質を向上させるのに役立
っている。なぜなら日本語という言葉の障
害はドイツ人のみならず外国人特派員にと
っては日本人が考える以上に大きなものだ
からだ。何種類かの英字新聞、外務省や通
産省の役人や一般民間人の中でも、英語の
堪能な人が重要な情報源になる。テレビや
ラジオのために、ドイツ語をしゃべってく
れるインタビュー・パートナーは容易に発
見できない。これは2,30年前のドイツ語
教育が、話すことにより読むことに重点を
置いていたこと、さらには生きたドイツ語
を使う機会に恵まれなかったことと大いに
関係があるだろう。

日本で活躍する西ドイツの記者たちは、
日本のすべての事件について細大洩らさず
本国に報道しているわけではない。各自の
判断で自分の読者にとって興味ある事件を
カバーしている。 しかし全体的な流れとい
うものはあって、数年前までは『日本良い
とこ一度はおいで』と日本礼讃、ことにそ
の素晴しい経済力の源の究明にやっきにな
っていたが、最近は、『どうにもおかしいこ
の日本』という調子の記事が多い。公害犠
牲者を詳細に紹介したり、政府要人の私生
活を暴いたりしている。日本や日本人を数
字や統計の面からだけでなく、心情的に、
生きた人間として把握しようとする努力が
行なわれていると言って良いだろう。

それにしても多忙な特派員たちやその家
族は日本の生活に欲求不満を
感じることが多いらしい。上
顎と下顎の圧縮力を最大限に
発揮してかみ、確かに何かを
食べているという実感を味わ
わせてくれるドイツパンが、
日本ではそう簡単に手に入ら
ないことから、それは始まっ
て、東京という人口一千万の
大都市に住みながら、ふだん
付き合う人の顔触れは、きわ
めて小さな範囲に限定され、
一種のドイツ人ゲットーに閉
じ込められていると誰もが感
じている。ことに子供がいる
特派員だと、子供たちが大森のドイツ人学
校に通う関係上住居はどうしても港区と
か、品川、太田区に集中してしまう。

ウィークエンドハウスを持つことも、東
京の特派員たちの間で流行っているが、不
思議なことにこれが、三浦半島のある小さ
な漁村に、別に相談したわけでもないのに
集中することになる。

どこに行ってもアメリカ人と間違われる
ことに、まずカチンと来て、ゆっくり食事
をして、食後のワインやビールをたのしめ
る店がないのを嘆き、大事な人生の数年間
を過す、あるいは過さなければならない日
本で、周囲からはいつまでも外人として待
遇され、良い意味でも悪い意味でも、日本
人の社会では、しっかり根がおろせないの
を恨んでいるのが、ドイツ人特派員の平均
的な日本の生活である。しかし日本にはも
う2年以上も住んでいるのに、日本人の間
には1人の真の友人もなく、いまだに日本
人の家庭に行くと、靴のまま上がりこむ特
派員がいるとしたら、どうやら、かれらが
日本に根を下ろせないのは、かれら自身の
側にもいささか問題があるからなのかもし
れない。
    (9月号)

 

妙な思い出
              平尾浩三

西洋の小説を読むと登場人物の眼や毛髪の色がよく描かれています。眼は青とか黒とか、髪は
ブロンドとかブリュネットとかいうふうに。眼も髪も黒ときまっている僕たち日本人にはそう
いった描写があまりピンとこず、たとえばトーマス・マンの「トニオ・クレーガー」の一節:
Tonio liebte seine dunkle und feurige Mutter,...「トニオは...髪の黒い情の激しい母
を愛していた」を、「黒ん坊のお母さんを」と訳す学生諸氏さえあらわれます。ところで、
眼と髪の色が均一なためだけでもないでしょうが、日本人はみんな似たりよったりに見えると
いって、ドイツ人がこぼすのをよく耳にします。

十数年前のある夏の夕暮、ハンブルクの中央駅で、僕はフラリと電車をおりました。これと
いって目的もなく、人間世界を見て歩きアルスター湖畔で休もうかという程度の気持ちだった
のです。プラットホームを階段に向かって数歩進んだとき、僕はうしろからポンと肩をたたか
れました。振りかえると、背のスラリと高い、金髪碧眼の典型的な北ドイツ青年が微笑みなが
ら手をさしのべています。 Sie sind ja ganz puenktlich ! 「まったく時間厳守だね」と言わ
れても、僕には要領をえぬことなので、こちらもなんとなく手を出して O ja! Guten Tag!
「ええ!こんにちは!」ぐらい言っておきます。彼は先に立って階段をおり、改札口を通り
抜け、ホールの人混みの間をドンドン歩いてゆきます。僕がためらっていると
彼は立ちどまり、 Kommen Sie schnell, Herr Iwate! Wir haben nur noch 5 Minuten !
「はやく来てください、イワタ君!あと5分しかないよ!」と大声で呼びかけるので、僕は
また O ja! と答えて小走りについていきます。駅を出てメンケベルゲ通りの人混みをかきわけ
るうちに、僕にも事の次第がのみこめてきます。ハンブルクにやはり最近到着した岩田君とい
う日本人を、僕は知っているのです。今晩、岩田君とどこかへ行く約束を、このドイツ青年は
していたのでしょう。しかし岩田君と僕とは、日本人の眼から見れば似ても似つかぬでしょう
が ― 黒眼黒髪は当然として― 年令・背丈・やせ具合から顔全体のパターン・めがねの型
に至るまで共通点が多いので、たまたまその時刻にその場所に来あわせた僕を岩田君だとドイ
ツ青年は勘ちがいしたらしい。岩田君は到着してまだ日も浅く,ドイツ青年とそれほど親しい
間柄でもないのでしょう。湖の見えるあたりでは、だまっていてもつまらないので、僕も
Schoenes Wetter!「いい天気だね」ぐらい言ってみるうちに、僕たちはある映画館の前につ
きます。彼は相談もせずに券を2枚求め、さっさとはいってゆくので、僕もついてはいります。
上映が始まります。画面にはなんでも、キャザリン・ヘップバーンが出てきたようです。
ドイツ青年の隣で、もちろんきわめて落ちつかぬ気持ちのまま、それでも僕は最後まで映画を
見ます。やがてあたりが明かるくなり、僕たちも席を立ち、人波にまじってロビーを通り、外
へ出ようとしたら ― ああ、そこに本物の岩田君が立っているのです。打ち合わせた時間
より大分おくれて駅についた彼は、相手がもういないので、いっしょに行く約束をしていた
この映画館に1人で来て、うしろの席にすわって見ていたのです。

それからのことを書くのは、もうやめましょう。僕の説明をきいて岩田君がどんなに笑ったか、
ドイツ青年がどんなに sprachlos [シュプラーハロース]「言葉も出ない、あいた口がふさがら
ない」様子であったか....

常識ある読者のみなさんには、この話、嘘としか思えぬでしょう。残念なことに、すべて
本当なのです。ドイツ人が僕を岩田君ととり違えたのは十分うなずけます。うなずけないのは、
あのときの僕の行動です。僕が岩田君ではないことを、どうしてまず言ってやらなかったのか?
どうして O ja! O ja1  Schoenes Wetter! などと言いながら、ついて行ったのか?

要するに,ドイツ青年に恥をかかせたくないというのが、僕のはじめの心理だったと思います。
それで Nein ! の一言が出なかったんだと思います。彼の素朴な力に引張られるうちにますます
真実からは遠ざかってゆき、生来のものぐさも手伝って、やがていっさいの抵抗をあきらめ、
成りゆきにまかせていた...しばらく岩田君になってあげようという妙な親切さえ抱きながら
...あのときの僕はこうとしか説明できません。

ちがう、ちがう、と心の中ではつぶやきながら、これで事がまるくおさまるならと、だまって
流れに身をゆだねている ― そんなことがあまりに屡々おこります。ドイツ生活を通じて
の僕の格闘の焦点も結局のところ、日本的な変にやさしく消極的な心くばりから自分を解き
はなち,真実を尊び、時にはきっぱり Nein ! の言える人間にどこまで自分がなりうるか、
ということであったかも知れず、それがいまだにうまくゆかないので、あの遠い夏の出来事は、
やはり痛みをともなう思い出です。

それにしても、駅で会ってから映画を見おわるまでの数時間、おとなしく他人になりすまして
いた日本男児を、あの青年は、おとなと思ったか? 精薄児と思ったか? いずれにせよ、
気味わるく感じたであろうことは疑いありません。
    (9月号)

             

 

 

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