ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。
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ドーナウ河 高木 実 西ドイツの南東部のはしっこ、オーストリアとの国境 がはじまろうとするところに小さな美しい町パッサウ (Passau) があります。昔のとりでにのぼってみます と、小さな半島のように突きでた古い町を取りまく ようにして三つの川が流れています。まん中のいち ばん大きい悠然と流れているのがドーナウ河 (die Donau)、右側の早い流れがイン川 (der Inn)、左手 の黒ずんだ水のいちばん小さなのがイルツ川 (die Ilz) です。ドイツの石灰岩質の地域を流れてきた イン川は、乳白色をした河水が「青きドーナウ」と 合流したあとも、しばらくはまざらず水面上に一線 を画してオーストリア領へと流れこんでゆきます。 ドイツ南部の「黒い森」とよばれるシュヴァルツ ヴァルト (Schwarzwald m) に発したドーナウ河は、 ウルム (Ulm)、レーゲンスブルク(Regensburg) の 町々を通って、パッサウをすぎ、オーストリア、チェ コスロバキア、ハンガリー、ユーゴー、ブルガリア、 ルーマニア,ソ連の各国を経て黒海 (Schwarzes Meer) に注いでいます。全長 2850キロメートル、ライン河 (der Rhein) をはるかにしのぐヨーロッパ第2の大河 です。パッサウからオーストリアの首都ウィーン までは列車で4時間ほどの行程ですが、船に乗って ゆっくりとドーナウを下るのも楽しい旅の思い出に つながるでしょう。オレンジ色にそろった町の屋根、 屋根。古い伝統をつたえる木組みの家々、その背後 に展開する整然たるぶどう山、まるで西洋のお伽話 を再現しているようなライン河沿岸の風景はここに は見られませんが、まだ人間の手にいためられて いない自然、わたしたち東洋の人間にしたしみ深い 自然がここでは展開されてゆきます。ひっそりと どこまでもつづく森の連続、白い岩山のつらなりは 旅につかれた心をなごませ、いつかヨーロッパの 中心を流れる大河の船上にいることも忘れさせて くれます。行きかう貨物船は、船尾に東欧の国々の 旗をなびかせ、ライン河ほど交通ははげしくありま せんが、この河がやはり西と東をつなぐヨーロッパ の重要な動脈であることを示しています。河すじに 集落が少ないことはふしぎな気がしますが、それは ドーナウ河が蛇行をくりかえし、洪水をおこすたび に川の流れをかえ、住民たちを困らせたあばれ河だ ったからでしょう。このため人びとは難をさけて河 から遠いはるかな丘のふもとや,草原に居を移して ゆきました。3つの川にはさまれたパッサウはいう におよばず、それよりずっと下流のウィーンの町で さえ19世紀のおわり頃まではたびたび洪水におそわ れ、この大改修をおこない、町の中にはドーナウ 運河 (Donaukanal m) を通し、本流を町のそとに出し てやっと危険をのがれました。夏になると白い帆の ヨットが浮かび、ウィーン子たちが水泳をたのしむ 郊外の旧ドーナウ (Alte Donau) はこの改修の名残 です。 さてパッサウから下ったウィーンまでくる途中の ドーナウ河の右岸に人口 3,000 ばかりの小さな町 ペヒラルン (Poechlarn) があります。ここは中世 (13世紀) の英雄叙事詩「ニーベルンゲンの歌」 (das Nibelungenlied) の中にでてくる辺境伯リュ ーデガー (Ruedeger) の居城のあったベヒェラーレ ン (Bechelaren) です。夫ジークフリートを殺害 され、ライン河畔のブルグント国の兄弟たちのとこ ろでさびしく暮らしていたクリームヒルトのところ に、フン族の王エッツェルは求婚の死者としてこの リューデガーを派遣します。彼は使命を見事にはた して、クリームヒルトを伴いドーナウ河ぞいにフン の国へと馬を進めました。途中まで出迎えたエッツ ェルはウィーンで盛大な婚礼の宴をはります。やがて 王子が誕生し、フンの国は喜びにわきかえるのですが、 クリームヒルトは亡き夫の仇を報ずることを忘れる ことができません。ついに国王を説得してブルグン トの国へ招待の使者をおくります。ジークフリート を手にかけたブルグント国の重臣ハーゲンは 招待のうらにかくされたクリームヒルトの復讐の 意図を察知し、招きに応じないようすすめるので すが、臆病風に吹かれたのかとののしられると、 敢然として道案内を引き受けるのでした。1万を こえる軍勢からなるブルグント族はライン河畔の ヴォルムスを出発し、東フランケンを通って12日目 にドーナウ河の岸べに到着してみると、河水は氾濫 し、船の影も見当たりません。 そこでハーゲンは軍勢を待たせて、船をさがしに出 かけ、泉で水浴びをしていた水の妖精の女たちを見 つけ、彼女たちの羽衣をうばいます。羽衣をかえし て、そのかわり彼女たちからハーゲンは、旅の予言 をききます。このままフンの国へ行けば一人の牧師 をのぞいては、だれも生きてはふたたび故郷の土を ふむことはできない、という予言でした。船頭を殺 し、舟を手に入れたハーゲンは軍兵をのせてドーナ ウ河を渡しますが、従軍牧師を川の中ほどで水中に 突きおとします。ところが彼は流れにのってもとの 岸辺に打ちあげられます。これを見たハーゲンは 運命のかえられないことを悟り、対岸で舟をくだき、 死の旅をつづけたのでした。「ニーベルンゲンの歌」 は中高ドイツ語 (Mittelhochdeutsch n) という古い ことばで書かれていますが、日本語訳がありますので、 一読をおすすめします。 (8月号)
きのうの友はきょうの友 徳島県鳴門市板東「ドイツ館」由来 川原栄峰 ドイチェ・マリーネ 第一次世界大戦のとき青島で捕虜に なったドイツ軍将兵3,900人のうち939 人が大正6年4月、私の生まれ故郷、当時 の徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市大麻 町板東)に新築された「俘虜収容所」に集 められた。「みなさんお気の毒です。でも 私たちはみなさんを心から歓迎します。」 とドイツ語で書かれた垂れ幕にまずドイツ 兵士たちは面くらい、安堵したが、軍楽隊 の行進曲を先頭にした堂々たる捕虜の入城 (?)には板東の村人たちの方も面くらっ た。 収容所内での捕虜の扱いはきわめてマイ ルドであった。点呼以外には強制労働も何 もなく、彼らも日本軍人と同額の俸給(?) を支給せられ、週に一度の外出も許され た。ドイツ兵たちは概して紳士的、特に村 の女性に対していんぎんであった。それに 彼らは教養にたけ技術に優れ、先進国民た るの誇りを失わなかった。板東の村人たち は陽気(阿波踊り!)で、好奇心に富み、 勤勉、しかもやさしかった。両者はすで仲 良くなってしまった。 ドイツ兵たちは酪農と野菜栽培とに優れ た技術をもっていた。「独乙農学士」まで いたのである。村人たちはすすんでこの技 術を習い、ドイツ兵の設計でレンガ造りの 酪農湯や牧場ができ、町農業会の事業とし て「独乙式蔬菜栽培」が始まった。兵士た ちはこの農業枝術指導の名目でしばしば外 出を許され、いつしか四国の片田舎の田園 になまのドイツ・リートの合唱が朝な夕な こだまするようになったのである。「板野 郡誌」にも「…誠に町民の喜ぶべき処にし て、将来永く農事改良の紀元として脳裏に 刻むを要するならん。」とあるほどである。 本邦初演 なにしろ暇だからドイツ兵たち、ありとあらゆるこ とをやったらしい。色刷りの新聞や紙幣 (?)の印刷発行、家具工作、日本語の習 得、――それに日本側の好意で広いサッカ ー場やケーゲル(九柱戯・ドイツ式ボーリ ング)場を作ってもらってスポーツに打ち 興じたりもした。大正7年3月8日―17日、 町公会堂での「俘虜製作品展覧会」には町 をあげてのお祭り騒ぎ、汽車賃の割引きま であって郡内から大勢の見物客が押しよせ た! 私の生家にもドイツ兵がしばしば出 入りしたらしく、父が雲つくようなドイツ 人数人と腕を組んで大笑いしている写真が 何枚もある。ドイツ工兵隊が作った「独乙 式石橋」は今なお健在だし、彼らの設計に よる郡公会堂「鳳鳴閣」は戦前郡随一の建 物であった。炊事係の兵士たちは村人のた めに「料理講習会」をしばしば開催した。 私の母の話では、料理はおいしかったが、 豚の腸詰め(ソーセージ)だけはみんな気 味悪がって試食せず、うちへ持っ 帰って捨てたのだそうである! エンゲル少尉という人が「エンゲ ル楽団」を組織し、暇にまかせて猛 練習、ついに大正8年12月,お寺の 参道にある宿屋の庭にベンチを並べ ただけの台の上で、べートーヴェン の第九交響曲がドイツ人たちの手で 本邦において初演されたのである! 勲章 ドイツ兵たちは終戦とともに もちろん帰国し、 大正9年1月には収容所は「解除」 された。しかし日本に住みついて 日本人と結婚した人も何人かいたらしく、 そのひとりヨハンネス・バート氏は今日なお 鎌倉に健在である。私は彼らが帰国して しまった直後この板東で生まれた。私より 1つか2つ年上に混血児が数人いたし、例の 「独乙式蔬菜栽培」でとれたトマトという 妙なもの(?)を食べさせられて吐き出した こともおぼえている。農家の庭でケーゲル の球をころがしたこともあるし、レンガ造 りの酪農場ヘミルクを買いにもいった。そ れに収容所跡はわれら悪童の遊び場にもな っていたのである。 収容所の裏山のふもとに大きなお墓があ り、ドイツ語で「祖国ドイツノタメニ忠勇 ナル最期ヲ遂グ ワガ親愛ナル戦友 ノ記念ノタメニコレヲ祀ル」という碑文 とともに11人の兵士の名が刻まれて いる。この若さで、とらわれの身として 異国で淋しく世を去ったこの人々の 胸中を思うとせつなくてせつなくて …・‥・謹んで哀悼! 収容所はその後は陸軍の演習場に なり、さらに戦後は町営住宅、次い で市営住宅になり、建物もすっかり 新築されたが――このお墓だけはも とのままに残り、しかも、これをば 板東の村人たちは全く自発的に守り つづけたのである! 特に、戦後は 外地から引揚げてきてこの町営住宅に住む ことになった高橋春枝さんがこのお墓を清 掃して香華を供えつづけた。 10年も15年 もそれ以上も。このことが伝わり伝わって ついにリュプケ大統領の耳にまで届き、高 橋さんは昭和39年7月14日板東において ドイツ総領事の手でドイツ連邦共和国荒鷲 十字勲章を授与された!(こんなこと世界 に例があるだろうか!) ドイツ館 ハンブルクには今日なおバンドー会 というのがある。半世紀前日本板東の 収容所にいた元兵士たちの会であって、 毎年11月ドイツ中から老 兵たちが集まってきて(去年は30人!)楽 しかった(!)バンドーの生活をしのぶの だそうである。ところが昭和45年このバ ンドー会のメンバーであるE・ライポルト 氏とP・クーリー氏とが万博見物をかねて 板東へやってきた! 例の酪農場の一室に かつての友だちが集まってきて大歓迎、お 互いに忘れてしまった日本語と忘れてしま ったドイツ語とを思い出しながら、半世紀 を跳び越えて旧交を温めたのである。もち ろんみんなで収容所跡を訪ね、戦友の墓に 詣でた。 半世紀以上に及ぶいささかこっけいだが 奇しき因縁にいろどられ、戦争を背景とし ながらも、ほのぼのと温くさわやかなこの 日独親善を記念して、鳴門市は板東に「ド イツ館」を建てた。昭和47年5月10日駐 日ドイツ高官数人を迎えて開館式が行わ れた。四国の片田舎の森の中に目を見はる ような美しいドイツ風の建物が建ち、当時 をしのぶ写真その他の貴重な品々が飾られ ている。 このドイツ館の話がまたまたドイツヘ伝 わった。1972年に亡くなったバンドー会の 老兵L・ヴィーティング氏の娘さん I.v. ハレンさんは、たまたま日本へ行くという 大学生H.ノイマン君に託して亡き父の遺 品「鉄条網の中の4年半」と題する画集を ドイツ館へ届けてきた。昭和47年7月のこ とである。「鉄条網の中」がどんなに陽気で 楽しかった(!)かをこの画集がよく示し ている。 きのうの敵はきょうの友−―と歌の文句 にもある。が、板東の場合は、きのうの友 はきょうの友――なのである。しかも半世 紀以上も! 将軍でも大将でもない村人た ちと兵士たちとのこの親善が永く記憶にと どめられ、さらに大きく伸びることを、板 東に生まれたもののひとりとして、私は切 にねがっている。 (8月号)
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