基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

ライプニッツ
           生松敬三

近代ドイツに決定的な立ちおくれをも
たらした宗教改革後の宗教騒乱、30年戦
争の混乱のさ中でヤーコプ・ベーメは死
にましたが、この戦争の終わる2年前の
I646年に一人の天才的な大哲学者ライ
プニッツGottfried Wilhelm Leibniz
(1646-1716)がライプツィヒに生まれて
います。

べーメの神秘主義的な、深遠な宗教的
思索をよそに、時代はすでに新しい哲学・
新しい科学の時代に入っておりました。
近代哲学の創始者といわれるデカルト
Rene Descartes(1596―1650)がその「普
遍学」mathesis universalis の着想を得
たのは、30年戦争に従軍してドイツにお
もむき、ウルム近郊で休息をとっていた
ときであったと伝えられていますが、こ
れはドイツにとってはいささか皮肉な挿
話であります。近代的な学問・文化の育
成の基盤を奪われた当時のドイツの状況
の中でライプニッツは先進国たるイギリ
ス、フランスの学界、そこの学者たちを
相手に孤軍奮闘することになります。

実際にライプニッツが外交官としてパ
リにおもむいたのは1672年,それからロ
ンドンにも渡って,ふたたびドイツにハ
ノーファー侯に仕える図書館長として帰
ってきたのは1676年で、その間足かけ5
年にすぎませんでしたが、ロンドンには
すでに1662年にニュートンやボイル等そ
うそうたる科学者を擁する「王立科学者
協会」 Royal Society が出来ており、'66
年にはパリにも「科学アカデミー」 Aca-
demie des Sciences が生まれておりまし
た。すぐれた数学者でもあったライプニ
ッツはのちにニュートンと「微分法」の
発見のプライオリティを争うことになり
ますけれども、そのときライプニッツに
浴びせられた非難はロンドン訪問の際に
かれがニュートンの着想を盗んだのだと
いうことでした。今日ではそれは事実で
なく、のみならずその後の微分法の発展
や記号法はもっぱらライプニッツの創案
にかかるものであったことが明らかにさ
れております。

ところで、ライプニッツはパリからの
帰途オランダを経由し、スピノザ Baruch
de Spinoza(1632-77)にも会って、当時
未刊の『エチカ』Ethica. 1677の草稿を
も見せてもらったと言われます。スピノ
ザは、デカルトが新しく実体として設定
した「精神」(考えるもの)と「物体」(延
長をもつもの)という心身二元論を批判
して、「精神」と「物体」とは決して「実
体」(それ自身においてあるもの)ではな
く、真の実体はただ一つ「神または自然」
であって、「思惟」と「延長」はその「属
性」にほかならないという独自の汎神論
的形而上学を展開しておりました。この
スピノザの汎神論的世界観はのちにゲー
テ、さらにドイツ・ロマン派の人々に大
きな影響を与えるので、その意味でも重
要な意義をもつものですが、それはとに
かくとして、ラフイプニッツはこのデカル
トやスピノザの哲学に対して、きわめ
て力動的な『モナドロジー』(単子論)
Monadologie の宇宙論を説いておりま
す。

物体の最小単位は古来「アトム」と呼
ばれていますが、この「モナド」という
のは精神をも含めた一切の存在の最小単
位だと考えてよいでしょう。ライプニ
ッツは、この「モナド」の本質は「力」
force であり、それぞれの「モナド」は
独立の個性的存在であり「窓をもたない」
と言います。そして無意識的な暗い「表
象」をもつ「眠れるモナド」(物質)から
最上の明晰判明な「表象」をもつ
最高の「モナド」(神)にいたるまで
全世界は連続的系列をなしている
と考えます。「窓をもたない」
それぞれの「モナド」が独立の自己
の内的法則にしたがって運動す
る。しかもそれによって全世界に
一つの調和が実現されるのだと言うので
す。これがライプニッツの「予定調和」
harmonie preetablie 説であり、「最善
観」optimisme (楽天観)です。一見奇
妙な考えのように思われますが、この「モ
ナド」を各個人としてみれば、自由放任
の市民の競争が神の「見えざる手」(アダ
ム・スミス)に導かれておのずから社会
の調和・発展がもたらされるという近代
の経済的自由主義の形而上学的表現とも
見ることができます。

ただ、上に挿入した原語がフランス語
であることで知られるように、ライプニ
ッツの著述はほとんどフランス語かラテ
ン語によるものでした。ドイツ語はいま
だ学術用語として通用するものになって
いなかったのです。イギリスやフランス
の学界に対抗すべく1700年に「ベルリン
・アカデミー」がかれの努力でつくられ、
初代の院長にもなりましたが、その努力
はむくわれず、かれの死を悼んで功績を
たたえたのはパリの「科学アカデミー」
だけでした。「世界に光を、ドイツに栄
光をもたらした人」と、フォントネルは
ライプニッツをたたえています。しかし、
対立の争乱に明け暮れた新・旧教会を統
合する「普遍教会」の主張のゆえにこの
双方から「無信仰者」の疑いを受け、野
辺の送りに立ち会ったのは数人の友人だ
けだったといいます。あまりに時代に先
行しすぎた天才の悲劇をそこに見ること
ができましょう。
  (7月号)

      

ふろの話
           信岡資生

十返舎一九の「浮世道中膝栗毛」の中に
は、主人公の喜多八が、旅籠の慣れない
上方風のふろに下駄ばきで入り、底を踏
み抜いて火傷を負う、有名な場面があり
ますが、旅とふろは、昔から深い縁があ
るものと思えます。あごまでどっぷりと
湯に浸り、手ぬぐいを頭にのっけて民謡
の一つもうなり,一日の疲れを汗と共に
流してさっぱりして、どてら姿で夕餉
(ゆうげ)の膳に向かう気分は、旅先でな
くったって何ともいえず快いものです。
わたしは、国内を旅行するときでも、洋式
ホテルのバスにはあまり好感が持てず、
むしろ町の銭湯に行きたいくらいですか
ら、ヨーロッパで暮らした間は、ふろに
はずいぶん余計な神経を使わされました。

南独のフライブルク(Freiburg im 
Breisgau [フライブルク イム 
ブライスガオ]) で借りて住んだ部屋は、
バス(Bad [バート] n ) 付きでは
なかったので、ふろ屋を利用しなければ
なりませんでした。シャワー(Dusche
[ドゥーシェ] f ) というやつは、あやまって
川に落ちたあとと同じ気分で、どうも好き
になれません。大学の近くで、町を貫流
する Dreisam [ドライザーム] 川に沿った
ところに、 Marienbad [マリーエンバート]
というふろ屋があり、大学からの帰途に
よく立ち寄りました。細長く仕切った個室
に入ると、床に粗末なマットを敷いて
浴槽 (Wanne [ヴァンネ] f ) があり、
湯を外へ流すわけにはいかないこと
くらいは予め承知していたにしても、
柱にタイムスイッチが備えつけてあって、
入浴中でも規定の30分が経過すると、ジリ
ジリジリ...とけたたましい音が鳴り
響いて,扉がノックされるのには閉口し
ました。冬など、マフラー、外套、くつ、
くつ下から脱いでいって、裸になるだけ
でもかなりの時間をとられ、カチカチと
秒を刻む時計とにらめっこしながら、そ
そくさと身体を洗い、湯気の立ちこめる
狭い部屋の中で、じゅうぶんに拭い切ら
ぬ肌に衣類をまとって、粉雪の舞う戸外
へ追い出されて行くのでは、「いい湯だ
ナ」という気分とはおよそかけ離れた
心地です。もっとも、タイムスイッチの
針を逆にねじて廻すだけで、いとも簡単
に時間の延長をはかれることを知って、
悩みはいくぶん解消しましたけれど。

やがて、下宿の近くに、 Volksbad 
[フォルクスバート] という、もっと低料
金のふろ屋があることを知りました。
こちらはコンクリートのたたきにマット
すら敷いてないのですが、タイムスイッチ
が見当たらないのを幸いに、ゆっくり時間
をかけて入り、浴槽の湯も2度、3度と入
れ替えて、ふんどしの洗濯までしていた
ら、あるとき,切符売りのおやじさん
からすごい見幕で文句を言われました。
20分で出ろ,浴槽の湯のおかわりは許さ
ん、などと言うのです。入場するとき、
おかみさんにいくらかのチップを渡して、
そうしたことを大目に見てもらう才覚が
できたのは、ずっとあとのことです。

下宿の主婦は,毎日のようにふろ屋へ行
くわたしに、どうしてそんなに足繁く
Bad へ行くのか不審げでした。これは
日本人の美徳の一つだと言うと、お国で
は水が安いからだろうとひとりでうなず
いていました。この Volksbad も、一般
商店と同じく夕方6時半には閉店、土曜は
昼まで、日曜は休み。夏と冬には長期の
休業をするしまつです。

フライブルクで知り合ったY先生のお伴
をして,ドイツ国内ばかりかスイス、オ
ーストリア、イギリス、フランスまでも
旅行しました。Y先生もおふろが好きら
しく、投宿すると二人ともすぐバスを使
いたがりました。スイスの、ヴィルヘル
ム・テル (Wilhelm Tell) の伝説で名高
い Vierwaldstaetter See [フィーアヴァ
ルトシュテッター・ゼー] のほとりの 
Cham [カーム] という静かな町で、
Hotel Bahnhof [ホテル・バーンホーフ]
に泊まったときのこと、Y先生のあとで
バスを使おうと,裸になって湯栓をひね
ったら、湯が出ない。Y先生が浴槽の湯
のおかわりをなさったために、タンクの
湯が切れたのです。このときのなさけな
い思いは忘れられません。それなのに、
これと全く同じ目に、オーストリアの
避暑地 Zillertal [ツィラータール] の
Mayrhofen [マイアーホーフェン] の
Pension [ペンズィオーン] でも再び会
いました。最初にあてがわれた部屋は
バス付きでなく、主人の好意で、家族の
使っているバスを使わせてもらうことに
しました。中に入ってみたとき、浴槽の
ふちに、おかみさんが使うのか、娘さん
が使うのか知りませんが、無慮数十本の
色とりどりの化粧水・香水のびん(あき
びんではないのです!)が並んでいるのに
は、どぎもを抜かれました。このこと
だけでも、外人の女と結婚しなくてよか
ったと思いました。2,3日後、バス付き
の部屋に変えてもらえて安心したところ、
例によってY先生のご入浴のあと、浴槽
に湯を張ろうとしたら、またしても湯が
出ない。主人は,一人がそんなに湯を使
ったのでは無くなるのはあたりまえだと
ばかり、わたしのあわれな抗議には耳を
かそうとしてくれませんでした。
  (7月号)

             

 

 

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