基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

バッハ
                         山根銀二

シュッツのちょうど100年あとの1685年にヨーハン・セバスティアン・バッハ Johann Sebastian
Bach (1685-1750) がアイゼナッハに生まれました。二人の間にはさまる一世紀はドイツ音楽が
内面を充実させて将来の飛躍にそなえるための蓄積の時期だったと思われます。プロテスタント
音楽の充実はコラールを中心としたいろいろの声楽曲ばかりでなく、それの伴奏楽器から独立
したオルゲル音楽の隆盛をもたらしてゆき、礼拝に直接関係のない教会ソナタなどに立派なもの
が書かれるようになりました。またそのような教会音楽と併行してクラヴィアや絃楽器の独奏
あるいは合奏のための娯楽の音楽が教会の外部で、つまり富裕な市民や貴族、君侯たちの邸宅
で、たのしみのため催される音楽が盛んになってゆきました。これがムジカ・ダ・カメラ
musica da camera, Kammermusik です。訳して室内楽といいますが、そのときの「室」はけっ
して私たちの住んでいる四畳半的な小さな部屋ではなく、宮殿の大会堂ないしはそれに近い
大邸宅のことであり、カンマームジークとはそこで行われる舞曲、食卓音楽、組曲などを指した
ものだったのです。それが教会でおこなわれる音楽と対照的に成長していったわけです。そして
この二つとも、たえずイタリア、フランスなどからの影響、流入をうけて育ってゆき、根本の線
ではますますドイツ的になりつつ、また融合の方向を辿ってゆきます。そしてバッハ以後の時代
に統一され、交響曲や古典ソナタを生むことになります。またオペラもその影響を発祥地の
フィレンツェやヴェネツィアと関係のふかいハンブルクなどに侵透させることで、やがてバッハ
の時期にいたると,ドイツ人の手によるオペラの仕事がはじめられ、ヘンデルがそれにむすび
つくことになります。

こういう状況のもとにセバスティアン・バッハが現われたのです。彼は中世の秋におけるその
ような音楽の成果を、オペラを除いて,一身に体現する形で音楽をつくりました。バッハは
「小川ではなく、大海と名づけらるべきだった」
Nicht Bach ! Meer sollte er heissen ! とは
ベートーヴェンの言葉として伝えられている
ものですが、それはバッハがそれまでの時代の
総括であると同時に新しい時代の誕生をうながし、
そのための要素を内包している巨大な存在である
ことを意味しています。しかしそれは彼が偶然
そういう時期に出会ったからそうなったわけでは
ありません。彼の前をいく多くのバッハ一族が
おり、そのいちばん古い祖先で今わかっている
のが16世紀にさかのぼるヴェヒマルのハンスで
あり、その次の粉屋のファイトが音楽にいれ
あげ、その息子のヨハネス(1626年没)から音楽
家としてのバッハ家の歴史がはじまったのでした。
このヨハネスの次男のクリストフのまた次男の
アンブロジウス(1645-1695)がセバスティアンの
父親です。そんなわけで当時バッハ家はドイツ
中心地域のいろいろな都市にそれぞれ一家をかま
えた大音楽家族として発展しつつ、シュッツの
生きぬいた条件と同じドイツの苦難の時期を貫い
て闘い、その頂点にヨーハン・セバスティアンを
生み出した、というわけですから、それは当然
シュッツのきりひらいた線をいっそう向上発展
させ、音楽の中にドイツ民族を、そしてそれを
プロテスタントの信仰に裏打ちされた人生論と
しての音楽として確立することになったのです。

バッハの作品は多岐にわたっています。いちばん
数も多く重要な役割を果したのがカンタータ
です。主として教会カンタータですが、宗教的な
テーマでない日常生活面に関係した世俗物もあり、
その中にはコーヒー・カンタータのような、娘が
当時はやってきたコーヒーに陶酔するのを、おや
じがとめる内容の愉快なものなどもあります。
宗教音楽ではそのほかにクリスマス・オラトリオ
やキリストの受難をえがいたマタイ受難曲、
ヨハネ受難曲、それからまたカトリックの音楽で
あるミサ曲もバッハはつくっております。その他
モテットやマグニフィカトなどもあります。一方、
純器楽曲も沢山かきのこしました。まずオルゲル
の曲ですが、コラールを主題にしたコラールフォ
アシュピール、コラール幻想曲など、また前奏曲
やパッサカリア、フーガなどのオレゲル曲のほか
はクラヴィア(ピアノ)曲や絃楽器のための作品
にもいろいろ傑作があります。例えば平均律クラ
ヴィア曲集二巻やゴルトベルク変奏曲などです。
それから独奏ヴァイオリンのためのソナタとパル
ティータ,同じく独奏チェロのためのパルティー
タ。また合奏曲には管絃楽組曲、ブランデンブル
ク協奏曲、音楽の捧げ物、フーガの技法などとい
った稀世(きせい)の傑作があります。
     (6月号)

      

ハイネと啄木
                         栗原万修

以前、私が啄木の妹(故人)をお訪ね
したとき、ハイネのことを考えるといつ
も兄を想い出すといっておられました
が、たしかに時代も国もちがいますが、
ハイネと啄木ほどよく似た運命をおくっ
た詩人も少ないだろうと思います。

ハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine)
は1797年にドイツのデュッセルドルフ(Duesseldorf)で、石川啄木(一[はじめ])
は1886年(明治19年)に岩手県の日戸(ひのと)村で生まれました。

ハイネがこの世を去ったのは1856年ですから、むろん彼は啄木を知るわけが
ありません。しかし啄木の方は、ハイネをある程度知っていました。高山樗牛
(ちょぎゅう)などのハイネについての文章を読んでいたからです。でも、ハイネ
の本当の姿は最後まで知らなかったと思います。ただおもしろいことに,啄木は
ハイネの詩をドイツ語で読んだことがあるのです。郷里で代用教員をしていた20
歳のとき、啄木は友人の金田一京助さんから『ジャーマンコース』と独和辞典、
それにハイネ、シラー(Fr. Schiller)、レーナオ(N. Lenau)等の詩集(注)を
もらい、ドイツ語の独修をはじめます。そのころの日記にも「アーベーツェーを
習ひ初めて未だ二十日ならざるに、予は既にハイネ、シルレルの詩を十数篇読ん
だ。今は専心ハイネの『ブック デル リーデル』を辞書片手にひもといて居る」
と書いています。啄木は、明治45年,26歳で死ぬまでおどろくほど熱心にくり
返し、くり返しドイツ語の勉強をしています。いま函館図書館に、啄木のドイツ
語勉強ノートが2冊残っています。文法事項をきれいな字で書きこんだノートで
す。しかしドイツ語そのものは、「売り売りて 手垢きたなきドイツ語の辞書の
み残る 夏の末かな」という生活でしたから、思うにまかせませんでした。上記
の『Buch der Lieder [ブーフ デァ リーダー]歌の本』も最後までは読まなか
ったようですし、日記や手紙にも、ところどころハイネのことに触れてはいます
が、啄木に対するハイネの直接の影響はなかったと思います。

ところでハイネの最初の邦訳は、明治22年に出版された訳詩集『於母影[お
もかげ〕』収録の「あまをとめ」とみてよいでしょう。森鴎外の訳といわれます
が、これは<Du schoenes Fischermaedchen なんじ、美しき漁師の娘よ>を訳した
ものです。ハイネのこの訳詩は、その後のわが国におけるハイネ像にひとつの方
向をあたえたように思えます。つまり抒情詩人(Lyriker[リューリカー])として
のハイネ像です。むろんハイネの詩が浪漫的であり、抒情的であったことはたし
かです。とくに『歌の本』などはその代表作といってよいでしょう。

しかし本当のハイネは、決して感傷的な詩人というだけではありませんでし
た。多くの矛盾をはらみながらも、彼は祖国ドイツを改革し、封建制度をうち破
ろうと努力した革命的詩人でもあったのです。フランスの七月革命(1830年)に
狂喜し、また危険人物として祖国を追われました。七月革命は、ヨーロッパにい
ろいろな変動をもたらしましたが、ドイツにはあまり大きな影響はあたえません
でした。当時のドイツは36人の君主によって分割された連邦制で、専制主義的
な政治がおこなわれていました。当然、思想の自由などというものはありません
でした。ハイネは、あらゆる自由に敵対するものをにくみ、権力者たちに対して
もさまざまな批判や嘲弄の言葉をつきつけては、彼らの怒りをかっていました。
そして結局、国外へ去ることを余儀なくされたのです。でも彼自身はこういって
います、「人々が私の歌を称賛しようと非
難しようと、私はあまり意に介さない。し
かし、君たちは私の棺の上に剣をおかねば
いけない。なぜなら、私は人類解放戦の勇
敢な兵士であったのだから」と。ハイネは
後に亡命先のパリで,あの有名な社会主義
者マルクス(K.Marx)やエンゲルス(Fr.
Engels)たちとも親しく交わり、叙事詩
『ドイツ・冬物語 Deutschland.Ein Win-
termaerchen』や、時事詩「シュレージェ
ンの織工たち Die schlesischen Weber』
等、すぐれた社会主義的な詩や評論を書い
ています。

ハイネと同様に、啄木もわが国では感傷
的詩人と受け取られています。たしかに彼
もロマンチスト(Romantiker[ロマンティ
カー])でした。処女詩集『あこがれ』はその代表作ですし、歌集『一握の砂』な
どもそういえるでしょう。しかし彼も、それだけではありませんでした。学童の
ストライキを扇動したと代用教員を罷免されて,<石をもて追はるるごとく>ふる
さと渋民村を去った啄木は、その後二度と故郷の土をふむことができませんでし
た。職を求めて北海道をさすらい、最後にまた東京へ出てきます。そして小説家
になろうと窮乏の生活をつづけましたが、社会の実体を身をもって知るにつれ、
当時の明治という専制的な資本主義社会に疑問を感じるようになります。そんな
とき、啄木を、そして日本を震憾させるような事件がおこります。明治天皇の暗
殺をはかったというあの大逆事件(明治43年)です。幸徳秋水はじめ多数の社会
主義者が捕えられ、死刑にされました。啄木はその大逆事件の弁護士であった友
人から、実はそれが大部分、社会主義者を弾圧するためのでっち上げであったこ
とを知り、大きな衝撃をうけます。啄木は、発禁になっていた多くの社会主義関
係の書物を熱心に読みあさり、だんだん社会と文学に対する考え方が変ってきま
す。「長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇し
ない」と彼は手紙で断言し、「友も、妻も、かなしと思ふらし―― 病みても猶、
革命のこと口を絶たねば」(「悲しき玩具」)と歌います。そして「時代閉塞の現状」
等、今日でもりっぱに通用する評論を書き残しています。

しかし生前のハイネがそうであったように、啄木の考えも当時の専制社会にあ
ってはきわめて危険なものと思われました。それは啄木自身よくわかっていまし
た。彼は自己の思想と現実のなかで苦しみ、いっそう祖国日本に絶望し、文学に
対するむなしさを感じていきます。しかもなお、その文学というものを棄てるこ
とのできない自分の悲しさ、彼にはその思いを自嘲的に歌のなかで昇華させる以
外にすべはありませんでした。「歌は私の悲しい玩具である」といったのは、そう
いう気持ちを表現したものです。その思いはハイネの場合も同じだったようです。
偶然のようにハイネもまた、「詩は私にとって神聖な玩具(heiliges Spielzeug)
にすぎなかった」といっています。

情熱的で激しく、熱中するとすべてを忘れて没頭する性格、人の心の琴線にふ
れる甘美な詩文、他人の金銭的援助なしにはすごせなかった経済観念の欠如、自
由と社会主義への志向、そして終生ふるさとへ憧れつつ病いにたおれ異郷でさび
しくむかえた死等々……ハイネと啄木は、まるで申しあわせたように、同じよう
な人生をあゆみます。彼らは結局政治家にも、革命家にもなりえませんでした。
そうなるには二人とも、あまりにも<詩人>でありすぎました。しかし彼らハイネ
と啄木は、たんに文学だけではなく、その思想においても時代の先駆者であり、
いまなお多くの人々に新しい時代への息吹きをあたえつづけていると思います。
  (注 故金田一博士のご教示によれば、詩集は啄木の選書ではなく、
     博士が適当に選んだものでマイヤーの袖珍版だった由です。)
     (6月号)

栗原先生から掲載承諾の手紙をいただきました。先生の添削により修正しました。
(イメージスキャナー読み取り誤りあり)

             

 

 

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