最後のロシア皇帝ニコライ2世

最後のロシア皇帝ニコライ2世80年ぶり故郷に埋葬

 【サンクトペテルブルク17日=内藤泰朗】 ロシア革命後、革命政権に銃殺された 帝政ロシア最後の皇帝二コライ2世一家の葬儀が17日、帝政ロシア時代の首都 サンクトペテルブルクで執り行われ、遺骨は処刑から80年ぶりに歴代皇帝が眠る ペトロパブロフスク大聖堂に埋葬された。  葬儀には、海外在住のロマノフ家の親類約50人のほか、当初欠席を表明していた エリツィン大統領も含め関係者が参列し、式典はロシア正教会のしきたりにのっとって 行われた。  今回埋葬されたのは、皇帝、皇后、子供、従者の9体で、まだ発見されていない三女 マリアと皇太子アレクセイの遺骨については葬儀後も探索が続けられる。  葬儀は、ソ連建国の歴史を清算する国家的儀式として行われたものの、共産党系の 政治家やロシア正教会の総主教のアレクシー2世ら有力者は欠席した。


縁戚関係にあった英王室の反応

 埋葬式に先立つ棺の搬送には、英スコットランド近衛竜騎兵連隊の代表がバグパイプを 演奏して参加した。同連隊は、1894年に時のビクトリア女工がニコライ2世を初代 隊長に任命して以来のつながりを誇る。欧州の王室の縁戚関係は複雑に絡み合っている。  現在のエリザベス女王祖父、ジョージ5世とニコライ2世はいとこ同士だ。 同2世の皇后アレクサンドラはビクトリア女王の孫に当たり、母親の死後は同女王の 下で育てられた。エリザベス女王の夫君、フィリップ殿下もまた、ビクトリア女王の 玄孫(げんそん)に当たる。  それだけに、ボルシェビキ革命政権によるニコライ2世一家の処刑が、英王室に与えた 衝撃は大きく、同王室は旧ソ連との関係を完全に断ってきた。エリザベス女王夫妻の訪問 が実現したのは94年、ソ連崩壊を受けて登場したエリツィン大統領の招きで、だった。 女王夫妻は、今回の埋葬式が行われたペトロパブロフスキ大聖堂にも立ち寄り、歴代皇帝 に墓参している。  ニコライ2世らの遺骨の真がん鑑定の結果、「99.9%」の確率で、皇帝一家のもの に間遠いないと判明したのも、フィリツプ殿下が自らのDNAのサンプルを提供する という協力があったればこそだった。  埋葬式にはエリザベス女王自身も参列を希望していたとも伝えられるが、結局ロシア側 から招待がなく、女王のいとこのマイケル殿下が出席した。タイムズ紙によれば、 「女王の賛成を得ているが、王室を代表するものではない」という。


政権への不信感増大
歴史清算の儀式強行 大統領に強い批判

 「血ぬられた過去を清算しなければならない」 「いや、そんな無駄遣いはやめて ソ連崩壊前後から悪化した国民の経済をまず立て直すべきだ」 「世論を無視して埋葬を 強行したのは間違い」 「遺骨が今後政治的に利用されないように、焼いて遺灰をネバ川 に流してしまった方がいい」・・。  埋葬が行われた帝政ロシア時代の首都サンクトペテルブルクで市民の声を聞くと、 埋葬に対する反応は実にさまざまだが、共通するのは市民の政権に対する言いようのない 不信感だ。  帝政、ソ連、そして現代の三つの政治体制を生き抜いたソ連軍の退役軍人パーベル・ リーピン氏(89)=サンクトペテルブルク在住=は、「80年前の罪は償わなければ ならないが、ロシア社会の秩序が混乱している現状で埋葬を行うことは、国民に複雑な 苦しみをもたらしている」と述べた。  経済的な混乱期にあるロシアでは、民族主義や復古主義などを含めた愛国的動きが 活発になっているほか、超大国だったソ連時代への回帰を夢見る国民も少なくない。 単純に「歴史を清算する」では済まされない複雑な現実があるという。  エリツィン政権は、ニコライ2世がロシア革命後、革命政権に処刑されて80周年に あたる17日に、歴代皇帝が眠るサンクトペテルブルクで遺骨の埋葬を行い、過去の 「蛮行」に終止符を打ち、政権浮揚の材料にするつもりでいた。  しかし、その後、ウラル地方のエカテリンブルクで発見された遺骨が皇帝のもので ない可能性があるとの指摘が相次ぎ、埋葬反対議論がここにきて沸騰。ロシア正教会の 総主教アレクシー2世ら有力者も埋葬反対の立場に回り、大統領も、葬儀は実施するが 参列はしないとの立場に転じ、「世紀のイベント」は半ば、腰砕け状態に陥っていた。  大統領が最終的に葬儀に出席したことで、葬儀はようやく国家行事としての体裁を 整えることができ、最近とみに影響力の低下が著しい大統領としても、現代の”皇帝” を演じることでその存在感を示した形だ。  実際、ロシアの有力政治家の多くが葬儀欠席を決めていた中で、上院は16日になって、 大統領の葬儀参の決定を受け、上院の代表団を急遽葬儀に派遣することを決めたほどだ。  改革派日刊紙「イズベスチア」のプルトニク編集委員(社会問題担当)は、 「大統領は今回、自分がロシアの『ハジャイン』(主人)として、『ツァーリ』(皇帝) として、『世紀のイベント』を実現したとの印象を強く国民に与えた。同時に、一般国民 と全体主義的なにおいを残す政権との間に、大きな溝が存在することを浮き彫りにした のもまた事実」と指摘する。  大統領は17日、葬儀が行われたペトロパブロフスク大聖堂で、「皐帝の処刑は口シア の歴史の中で最も恥ずかしい事件で、ロシア社会を80年間にわたり二つに分断した。 血ぬられた無法の世紀を終え、自らの罪を認め、和解していかなければならない」と 述ベた。  しかし、ロシア社会の現実はまだ、大統領の言葉をそのまますんなり受け入れて、 「和解」を実現していける雰囲気にはない。


悲劇の皇帝は日本嫌い
訪日時に切られ頭に大けが 大津事件

 【サンクトペテルブルク17日=内藤泰朗】80年の長い年月を経て、ようやく埋葬 された帝政ロシア最後の皇帝(ツァーリ)二コライ2世は、激動の時代にあった帝政 ロシアをかじ取りするにはあまりに弱い性格だったといわれる。  ロマノフ朝18代目にあたり、約300年の帝政時代に幕を下ろした二コライ2世は、 皇太子時代の1891年の日本訪問の際に、巡査に刀で切りつけられて頭部に大けがを した。「大津事件」である。以来、大の日本嫌いになった。  1894年に26歳で即位してからも、その日本嫌いは変わらない。皇帝は日本人の ことを「マカーキ」(ロシア語で、「猿」の意味)と、たびたびののしっていたという。  治世の初めには、父アレクサンドル3世の政策を継承したが、その後、側近の入れ替え を度々行い、政策が大きく揺らいだ。極東方面でも、これまでの方針を一変し、シベリア 鉄道を建設して同地域への勢力拡大を図る日英などの勢力と対抗する姿勢に転じた。  だが、極東では、日露戦争に敗北、欧州部でも、第一次世界大戦で対独宣戦に踏み 切ったものの、ドイツ軍を前に大退却を行い失態をさらした。こうした不満を背景に革命 が起き、内戦へと突き進んでいったが、この時点で皇帝の権威はすでに地に落ちていた。   ニコライ2世は、1917年の二月革命後に退位したが、十月革命から一年にも満 たない18年7月、幽閉先のエカテリンブルクで反革命軍の奪還を恐れた革命政権に、 皇后や五人の子供たち、従者らとともに銃殺され非業の死を遂げた。  ソビエト政権が残した資料によると、処刑した遺体はその後、「硫酸とガソリンをかけ て焼かれ、森に埋められた」。79年になって、科学者グループがエ力テリンブルク 郊外で、皇帝とみられる遺骨を発見。ソ連政府の没収を恐れて発見を極秘にし、 91年になってようやく発表した。  その後、諸外国でDNA(デオキシリボ核酸)鑑定を行った結果、遺骨は「99.9%」 の確率で、ニコライ2世一家のものであることが確認された。  ロシアでは「悲劇の皇帝」の生涯にスポットを当て、家族とともに時間を過ごす ニコライ2世の人間模様を描いた写真展やドキユメンタリー番組が作られ、展示、放映 されるなど、今回の葬儀をきっかけに、負の印象が強い皇帝像の見直しも行われている。

(産経新聞 1998年7月18日)

皇帝ニコライ2世の家系図    これに関する著者の論文    1891年の日本訪問の理由