これは
八戸高専地域文化研究センターの「地域文化研究」第10号の原稿です。

1ページ 33行 35字(文字間3.8mm) 上下とも20mmあける。
枚数17〜20枚程度

まえがき
1981年から1年間フンボルト財団研究員としてダルム
シュタット工科大学で1年間研究したことがある。
そのとき、町の行事でイギリスのエリザベス女王夫妻が来賓として来られていた。
町の人に聞くと、女王がこの町の大公一族の縁者であると言う人や、女王の夫エジンバラ
公が大公一族の縁者であると言う人などがいて、本当のことを知りたいと思った。
それから、町の中央にアール・ヌーボーの建物などが沢山建てられてあり、その中で
ロシア教会が目についた。これはこの町の大公一族から、ロシア最後の皇帝に嫁いだ
娘がいて、兄の大公が里帰りのために建設したという。
それらのことがきっかけで、ダルムシュタットの発展の歴史を調べたことがある。
このダルムシュタットの町の歴史が、外国の国王などと縁戚関係を通じて、世界の歴史
に関わっていることを具体的な資料を示しながら明らかにしていきたい。

ダルムシュタットの町の概要
ダルムシュタットは,その位置の示すように近代的都市フランクフルトと
ロマンの町ハイデルベルクの中間的な印象を受ける。

ダルムシュタットの名が初めて知られたのは11世紀のことで,1479年に
ヘツセン州に属することになる。

町の名の由来は町の人に聞いたが不明で,腸(Darm[ダルム])のような小川が
郊外の大学のそばを流れていて,この川から来ているという説もある。

第2次世界大戦の1944年l2月11日,イギリス空軍の爆撃をうけ
市街の80%が破壊され,戦後復興されましたが,歴史的な市街地は
失われてしまった。

今日のダルムシュタットの歴史は,ヘッセン州を支配していた
フィリップ方伯(Landgraf[ラントグラーフ])が1567年に自分の領地を
子供たちに分け,4男にヘッセンーダルムシュタットを与えた時から
本格的に始まる。

その子孫はナポレオンにより位を方伯から大公(Groβherzog[グロースヘルツォ‐ク])
と改めた。それが町の中心の広場ルイーゼンプラッツ(Luisenplatz)に
建てられた長い柱の上から町中を見守っているルーデヴィヒ1世(Ludewig I)である。
ちなみに広場の名前は彼の妻ルイーゼからとっている。

この一族には,イギリスのヴィクトリア女王の次女も嫁いできた。
またルートヴィヒ4世の娘は,ダルムシュタットからロシアヘ嫁いで
ニコライ2世の皇后となったが,ロシア革命の時家族は処刑されてしまった。

マティルデンヘーエ(Mathildenhoehe)の丘に”Kuenstlerkolonie
[キュンストラーコロニー]“(芸術村)としてこの町の宝というべき貴重な
建物や記念物が作られているが,その中にロシア正教の教会がある。
これは上記ロシア皇后となった妹アレクサンドラ(Alexandra)の里帰りの時にも,
夫の宗教のロシア正教の礼拝ができるようにと,兄が作ったものである。

イギリスのヴィクトリア女王の次女アリスが嫁いできたとき、実は彼女は血友病の遺伝子を
保有していた。だから、子孫にその病気が現れた。そして、この血友病の遺伝子を
もっていたアレクサンドラがロシアの最後の皇帝に嫁いだため、その長男は血友病になり、
カイソウラスプーチンが登場しロシア革命にいたる有名なドラマが起こったのである。
この血友病の遺伝子の家系図は、生物学の教科書によく扱われている。

はじめに書いた著者の疑問については、ヴィクトリア女王の次女アリスの孫娘がギリシア
の皇太子と結婚して生まれたのがエジンバラ公であるから、エジンバラ公はダルムシュタ
ットの大公の血筋をひくことは理解できる。一方、ヴィクトリア女王の次女アリスの兄
エドワード7世の孫のジョージ6世がエリザベス女王なのであるから、エリザベス女王は
ダルムシュタットの大公の血筋はひいていないが、ヴィクトリア女王の血を受け継いでい
る点ではダルムシュタットの大公一族の縁者であると言うことができるのである。
そもそもヴィクトリア女王の先祖はドイツのハノーバーから来た(ハノーファー選帝侯)。
したがって、ヴィクトリア女王も夫アルバートもドイツ系なので、イギリス王家においてもドイツ
の家系の影響が大きいのである。ヨーロッパの王族の家系は興味が尽きない。

  ハノーファー王朝家系図          ダルムシュタット大公家系図

オーデンヴァルトの伝説
ダルムシュタットは、ドイツの伝説「ニーベルンゲンの歌」の主人公の龍の血を浴びた男
ジークフリートが死んだとされるオーデンヴァルトの入口に位置する。
またローマ時代から開けていたベルク街道(Bergstraβe)はダルムシュタットから
はじまり、観光で有名な古城街道とハイデルベルクで交差して、さらに南下して
バロック宮殿で有名なブルッハザールで終わる。
私がドイツにいたとき、ドイツの青年にオーデンヴァルトはジークフリートの終焉の地と
話したら、「ばかばかしい」の言葉が返ってきたが、このジークフリート伝説は北欧にもある
という。つまりゲンマン系民族の昔からの伝説であり、このオーデンヴァルトの地名が物語
の中に語られていることや、ローマ時代からあったというベルク街道のことを考えるなら、
ダルムシュタットはゲンマン人が遠い昔からローマ帝国との戦いの歴史を続けていた時
から、ドイツ人の古里として知られていたことが推察されるのである。

フランケンシュタイン伝説
アメリカ映画で有名になったが、イギリス人作家メアリ・シェリーによって書かれた
人造人間フランケンシュタインの物語である。

ダルムシュタットの郊外にフランケンシュタイン城と呼ばれるRuine(廃墟)がある。
ハイキングコースの山道を登っていくと山頂にはかつてあった砦の跡があり、レストラン
が建っている眺望の良い場所である。この城跡を調査に来た日本人研究者のことを
話してくれたのが、当時ダルムシュタットに住んでいた都市計画の春日井博士であった。

1817年5月にスイスで、メアリはフランケンシュタインの物語を書き上げたわけで
あるが、それは全くの彼女の創作と言われている。しかし、文献によれば、
18世紀後半にフランケンシュタインの亡命家族がジュネーブに実在したという。
フランケンシュタイン家は15世紀まで、バイエルンの北部(フランケン地方)に、
かなりの領地を所有していたらしい。しかしルター派に属していた一族は、反宗教改革の
勢力によって同地を追われ、ジュネーヴを拠点に新たな生活を始めることになった。
フランケンシュタイン家の子孫は、特にジュネーヴの法曹界で頭角を現し、
法学者、弁護士、判事を輩出した。

フランケンシュタインの日記(ヒューバート・ヴェナブルス著、大瀧啓裕訳、学習研究社)
という翻訳書が日本で出版された。この日記を書いたヴィクトール・フランケンシュタインは
並外れた神童であった。彼は17歳でバイエルンのインゴルシュタット大学に入学し、
解剖学と生理学を専攻した。彼の才能に注目した著名な化学者ヴァルドマン教授の指導の
もとにヴィクトールは長足の進歩をとげ、入学後2年間で、もはや大学から学ぶべきこと
は何もないまでになった。
このフランケンシュタインの、異常なまでの電気刺激による生命蘇生の実験
とその失敗を記録した日記の翻訳が上記の書である。そして、このフランケンシュタインの
人間の蘇生実験を行ったことが彼女の小説のヒントになったのであろうか。

さて、このフランケンシュタインという言葉についての語源であるが、
Frankensteinとは、Franken(フランケン族 ドイツ民族の一派)の石で造った城(Stein)
ということである。
フランケン族の領主は石の城に住んでいたので、Frankenstein と名乗ったのかも
しれない。
なお周知のことであるが、FrankfurtとはFrank (フランケン族)が歩いて渡ったという
furt(浅瀬)からその名前がきている。

フランクフルトはヘッセン州であるが、フランクフルトの近くにロマンチック街道で
有名なヴュルツブルクの町がある。ヴュルツブルクはバイエルン州に属して、
フランケン地方の中心地であるが、もともとここはカトリックの強いところであった。
山の上にマリエンベルク要塞があって大司教の別荘であった。ドイツ農民戦争が
1525年に始まってヴュルツブルクの町でも、民主的農民軍がこのマリエンベルクの砦
を囲んだのだが、砦は堅固でなかなか攻め落ちない。そのうちに司教の援軍が来て
農民軍はみな捕まり厳しく弾圧されることになる。

マリエンベルク要塞は観光名所になっているが、城の中に深い井戸があったりして
長期間、たてこもられるような設備があった。

このヴュルツブルクの生んだドイツの芸術家リーメンシュナイダーという彫刻家がいるが、
彼は町の市長もした人格者だったのに、このドイツ農民戦争で農民の側についたから、
司教から後にひどい扱いをうけ、塔の中に閉じこめられ芸術家生命を抹殺されるような
拷問を受け、手を使えなくされた(肉体的に傷つけられた)という。

しかも、町の歴史から記録を抹殺されドイツの歴史からも消された。最近になって
研究者がリーメンシュナイダーの資料をぼつぼつ発見して、この芸術家の再評価がなされた。

だから、フランケンシュタイン家の先祖がフランケンの地を離れてスイスへ逃げのびた
というのは理解できることである。

ダルムシュタットの町のガイドブックには、17世紀から18世紀にかけてフランケンシュタイン
城の麓に、貧しい男の息子で天才的な錬金術師がいたことが書かれている。そして、
彼は研究した生物化学の知識によって人造人間を作ることを考えたが、実現せぬうちに死んでしまった。
この伝説がいつしかスイスのメアリ・シェリー夫人に知られ、彼女があの小説を書く
ことになったのではないかと紹介されている。


ダルムシュタット工科大学
1877年10月に、ヘッセン大公ルートヴッヒ4世がそれまでの専門学校を整備して、
ダルムシュタット工科大学(Technische Hochschule zu Darmstadt)を創設する。したがって、
この大学入学するにはアビトゥーア合格資格が必要となった。
1899年にはダルムシュタット工科大学(TH Darmstadt)も学位授与権を獲得した。

まず 1836年に実業学校として始まった。1844年に自前の建物を有し、1864年に工業学校と
なり、1868年にヘッセン大公高等工芸学校となった。1877年に大学に昇格したが、
学生がなかなか増えず、1881年から1882年にかけて大学を閉校にするかどうか議論が続いた。
そこで州政府と大学は、電気工学の講座を設置した。こうして第6番目の学科として
電気工学科ができたが、それは他の工科大学には電気工学科がなく目新しいものであった。
この将来を見通しした高等工業教育は、ダルムシュタット工科大学が電気工学の分野で
指導的地位を占める足がかりとなって、どんどん学生は増加した。その結果、
ダルムシュタット工科大学が廃校になる恐れはなくなった。

1895年に町の中心部のHochschulstraβeに大学の新しい建物が建てられた。第一次大戦前の
20年間は、大学の全ての分野が多様化し発展していった。製紙セルローセ化学のような
新しい学科が提案され、1913年に航空工学の講座が設置された。

しかしながら、当時の政治的環境は厳しくなり、ダルムシュタットの大学の留学生を
めぐって政治的な対立が大きくなった。当時のダルムシュタット工科大学には多数の
留学生がいた。たとえば1906年には電気工学科の学生の3/4は外国人留学生であった。
それらは東欧からの留学生が多数を占めていた。このような情勢は民族主義者の発言に
力を与えるものであった。

第一次大戦の後には、現代工業社会の要求に応えるべく、大学教育システムの改革が
さしせまって必要であった。技術者が社会における指導的な立場につくために工学教育
を越えたカリキュラムを発展させるべく熱心な議論がなされた。具体的には1924年に
工学ではない教養教育が数学自然科学と人文社会科学に分かれた。さらに狭い専門分野
の他に、学生は経済学や政治学や技術と社会の歴史を学ぶことになった。

1933年にはナチスによる政治支配が急速に大学にも及んだ。1933年には指導原理に
したがった新体制が実施されるようになった。学長は州政府から任命されるようになった。
この国家革命はダルムシュタット工科大学でも熱狂的に歓迎された。そして、大学が
上からの命令に盲従して良いのかとか、第三帝国に強調するのが良いのかなど言うことは
困難となった。
ユダヤ人の科学者はダルムシュタットからも脱出していった。ダルムシュタット工科大学
は尊敬すべき科学者を何人も追放という形で失った。たとえばそれらの中には、
ゲハルト・ヘルツベルクがいた。彼はカナダに移住してから米国に移り1971年にノーベル
化学賞を受賞した。

1944年に爆撃で、大学の大部分の建物を含む町の8割が破壊された。1945年に短期間
連合軍の命令で大学は閉鎖されたが1946年に再開された。戦後の状況の困難にも
かかわらず、ひどく破壊された建物を当座の間使用しながら、大学のスタッフと学生たち
は研究をはじめた。

1947年にダルムシュタット工科大学は工学教育の国際会議を開催した。そこでは、技術者
や科学者の政治や社会における倫理責任について議論がなされた。悲惨な戦争を起こした
という観点から参加者は、人類の平和の発展のためにのみ科学技術における教育研究を
行うことを確認した。

戦後の復興は60年代の継続的に学生を増やすという大発展計画に基づいて行われた。
町の中心部にはスペースがないから、大学の新しい建物をリヒトヴィーゼ(かつては
郊外の飛行場だった)に建てることが1963年に決定された。かくして60年代の後半から
70年代の前半にかけて、新カフェテリアを含む多数の建物が建てられ、結局そこが
大学の第二のキャンパスとなった。

1970年代の半ばに学生の急激な増加があった。しかし、スタッフの増加は追いつか
なかったので、結果的に州政府や大学からの学生入学を認めるよう強制があった。
スタッフの重労働にもかかわらず、将来の発展の布石をうっていった。それは1974年の
情報工学講座の設置であり、1987年のZIT(工学領域における学際研究センター)、
そして1989年の材料科学講座の設置であった。これらの講座は新しい研究コースとして
1996年から新しい建物で研究が行われている。

ダルムシュタット工科大学は100年以上も広い学問分野にかかわりあったばかりか、
大学として高いレベルを保ってきた。このような事情を考慮し、また大学の存在を国内外
に知らしめるために、1997年10月から大学名を Technische Hochschule Darmstadtから
Technische Universitaet Darmstadtに変えた。


ドイツの大学の歴史
なおドイツの大学の歴史を簡単にまとめると次のようになる。
ドイツ世界で最初に設立された大学は、1347年のプラハであった。
これに続いて、ハイデルベルク(1386年)、ケルン(1388年)、エアフルト
(1392年)、ヴュルツブルク(1402年)、ライプツィヒ(1409年)、
ロストック(1419年)、トリーア(1454年)、フライブルク(1456年)、
バーゼル(1460年)、インゴルシュタット(1472年)、テュービンゲン
(1477年)、マインツ(1477年)、ウィッテンベルク(1502年)と
続々大学が設立された。
絶対主義の時代には、比較的規模の大きな領邦では、官吏や技術者を養成するために、
大学と専門学校が設立された。こうして、ハレ(1694年)、ゲッティンゲン
(1737年)、エアランゲン(1743年)、ミュンスター(1773年)に
大学が新設された。そして鉱山学の専門学校として、フライベルク(1766年)、
ベルリン(1774年)などが設立された。やがて鉱山学だけでなく、広く技術者教育
を行う工学の単科大学が作られた。カールスルーエ(1825年)、そして
ダルムシュタット(1826年)、ミュンヒェン(1827年)、シュトゥットガルト
(1829年)、ハノーファー(1831年)と続いた。
これらの工科大学は教育研究体制を整え、1899年のドイツ皇帝令により、
博士の学位授与権を得るようになる。
なお、ダルムシュタット工科大学の創設の年代が、同大学の案内によるものと違うが、
ここではそのまま紹介する。
表 ドイツの主な工科大学の歴史

ダルムシュタットのマドンナ
ホルバイン筆「ダルムシュタットのマドンナ」 
ダルムシュタット宮廷美術館にある。 
私も見たはず。そのときは、なぜこの絵が町の宝だかわからなかった。 

ホルバインはアウクスブルクに生まれた画家で、父もホルバインという。 
彼はスイスのバーゼルでマイヤー市長から依託されて、1526年に 
「市長ヤコブ・マイヤーのマドンナ」あるいは「ダルムシュタットのマドンナ」 
を描いた。 

この絵は、「聖母子と市長マイヤーの家族」とも言われる。
中央にキリストを抱くマドンナ が立っていて、両側に市長の家族がかがんでいる。 

この絵のマドンナのモデルはホルバインの愛人と言われる。 
この絵の題名は「ライス嬢」で、ホルバインは、古代ギリシアの大画家アペレスの 
愛人ライスを念頭においたのだろう。自分もアペレスのようになることを夢見て。 

マイヤーの死後、この絵は子孫に相続されたが、やがて売りに出され、 
1606年にバーゼルの有力者イーリゼンの手に渡った。 
イーリゼンが死亡してから、この絵はオランダの画商ル・ブロンのものとなった。 

ル・ブロンは1633年から1638年まで手元に置いて、高く売る策謀を練った。 
彼はこの絵に二人の買い手が名乗りを上げたのをみて、宮廷画家に偽作を描かせた。 
偽作の方は、フランス国王アンリー4世の未亡人(メディチ家)マリーに売られた。 
一方、真筆の方はアムステルダムの書籍商人レエッセルトによって高い値段で買われた。 
マリー皇太后に買われた偽作は、回り回って1743年にドレスデンの 
宮廷美術館所蔵のものとなった。そしていつのまにか、偽作は真筆となっていた。 

一方、真筆の方は1822年にパリの画商ドラオートが所有することがわかった。 
ドイツの誇る画家ホルバインの真筆がフランスにあって、ドレスデンの絵が 
偽物であるというのは、国辱ものであるということになった。 

そういうわけで。時のプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世の弟 
ラインとヴェストファーレン地方の総督ヴィルヘルム・フォン・プロイセン公爵 
が私財で、この聖母像を購入した。その公爵夫人マリアンネはヘッセン・ホンブルク 
の王女であり、公爵は夫人のために1822年に買ったシュレジア地方の 
フィッシュバッハ城に納めた。 

マリアンネ公爵夫人とプロイセン公爵が亡くなってから 
ダルムシュタット大公に嫁していた皇女エリザベスが絵を受け継いだ。 
そして絵は、フィッシュバッハ城からベルリンの若夫婦の邸宅に移された。 

エリザベス大公夫人の死後、その子ヘッセン大公ルートヴィッヒ4世に絵は 
引き継がれ、ダルムシュタット城に移されたのである。 

その後、ドレスデンの絵とダルムシュタットの絵と、どちらが本物か確認すべきだ 
ということになり、ザクセン王とダルムシュタット大公も同意して、2つの絵は 
1871年にドレスデンで比較され、評定委員会は、ダルムシュタットの方が 
真筆であることを確認した。 

第二次大戦のとき、この絵はシュレジアのフィッシュバッハ城に疎開されたが、 
東部戦線が不利になり、1945年1月20日シュレジア中心都市ブレスラウ 
から、進撃するソ連軍を避けて、グルントマン教授が大変骨を折って 
この名画を東西ドイツ国境のホーフまで運び、米軍の攻撃の中 
コーブルク城の地下倉庫に保管し、終戦とともにダルムシュタットにもどされたという。

ルイーゼンプラッツ
ダルムシュタットの町の中心部にはルイーゼンプラッツと呼ばれる広場のあることを
最初に紹介したが、町の中心の商店街でゆっくりと買い物などができる。ここは都会の
わりには大変静かでかつ安全であるという印象を受けた。原則として市営バスや市営電車
しか乗り入れられないことになっている。町の中心部にマイカーで乗り入れることを
禁止していたのは、私がダルムシュタットの留学生活を送る前の2ヶ月、ドイツ語の
研修を受けたとき生活した南独のフライブルクの町でもそうであった。
このように町の中心部では原則としてマイカーを閉め出す方式は、ドイツには多く
見られる方式である。そのために各都市はその町の歴史に環境にあったさまざまな工夫をしている。

ドイツにおいても、郊外に大型店舗がしばしば見られるようになった。家具やじゅうたん
や家庭電気製品などの大型店が広い駐車場つきで作られるのはヨーロッパ中の傾向で
あろう。日本においてはこの郊外発展傾向がドイツより強いという専門家の指摘がある。
郊外に発展する靴屋、洋服店、球技場、レストラン、スーパーマーケット、書店など、
全国の都市の周辺のバイパスなどに見かける風景は、その町の特性を少なくして
全国共通の風景を作っている。その結果、駐車場に恵まれない旧市街の商店街はさびれ
閉店の店舗が増えていくという傾向がある。

ダルムシュタットの場合、郊外のアウトバーンのインターチェンジの近くに大商業
センター建設の話がもちあがった。その売場面積が6万5千平方メートルという非常に
大きなものであった。当時のダルムシュタットの中心部には中型のデパートが4つ
あったが、全部の売り場面積を合計してもこの規模には満たなかった。この外部資本の
超大型ショッピングセンターができれば客は郊外に流れ、市内の商店街の衰退は明らか
となる。市の都市計画局は市議会の協力のもとに、未整備であった都心の一等地、
ルイーゼンプラッツの市有地の売却を条件に、その大型ショッピングセンターの都心への
誘致に成功した。

さらにダルムシュタットの都市計画はすぐれた道路計画を実施した。それまで
町にはアウトバーンにつながる国道が通り、南北はシティリングにつながる市道が
走っていて、それらの道路はルイーゼンプラッツで交差していた。これらの幹線道路を
トンネルで地下を走らせることにした。そして地下には大駐車場を作った。
これらの対応によって、都市部分から車が閉め出され、ルイーゼンプラッツを中心とした
都心一帯は地下駐車場のある歩行者天国となった。それまで問題であった都心部の
交通渋滞と買い物客の駐車場問題も解決されたのであった。

ダルムシュタットをはじめとして、ドイツの各都市ではそれぞれ独自の都市計画を
行い成功している例が少なくない。この点でも日本はドイツに学ぶことが多いと思われる。

あとがき
ドイツのヘッセン州の町ダルムシュタットを取り上げ、その町の歴史を作った
大公一族の家系をたどりながら、外国との血縁関係と世界の歴史にふれて、
ヨーロッパの町の他の国との縁の深いことを紹介した。また、ダルムシュタットの近くの
地理や伝説もできるだけ紹介して、その文化や経済の背景を考える手がかりとした。
そして、ドイツの工業系大学の中でのダルムシュタット工科大学の特性と歴史を述べた。
建設工学にとって重要な都市計画や技術に関する歴史を考えるとき、その町の領主の存在
が町の政治や宗教や経済や文化におよぼしたことは無視できない。
建設工学をこころざす者にとって、このように歴史や文化などの広い範囲のことをあつかう
ことは大事なことであると考える。

参考文献
宮本 裕:大学のある町 ダルムシュタット、三修社「基礎ドイツ語」第34巻第5号(1983.9)
荒木忠男:フランクフルトのほそ道、サイマル出版会(1991.8)
宮本裕他:ドイツの工科大学の歴史について、土木学会主催第15回土木史研究発表会、長崎大学(1995.6) 
春日井道彦:人と街を大切にするドイツのまちづくり、学芸出版社(1999.11)

Manfred Knodt: Die Regenten von Hessen-Darmstadt, Verlag H.L.Schlapp Darmstadt(1977)
Fritz Ebner: Darmstadt noch immer liebenswert, E. Merck Darmstadt
Britain's Monarchy, Foreign & Commonwealth Office London(1997)
 
ダルムシュタット工業大学のホームページ http://www.tu-darmstadt.de/
ダルムシュタット工業大学の歴史のホームページ http://www.tu-darmstadt.de/tud/geschichte.tud


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