ハイネ生誕200年祭

ハインリヒ・ハイネ

1997年はドイツでハイネの生誕200年祭が行われる。
ハイネの評価はさまざまである。
彼はアウトサイダーである。
ハイネは一カ所に定住しないフリーの作家として、当時のドイツの
社会にほとんど帰属していなかったし、その上彼はユダヤ人だった。
ハイネ像が分裂しているのは、ハイネ自身の中に分裂があったからである。

ハイネは、すでに子どもの頃から、ユダヤ教の中によそ者としての
根っこを認めていた。
1797年に彼がデュツセルドルフで生まれた時、この街のユダヤ人
たちは、フランクフルトのユダヤ人のようにゲットー(ユダヤ人
居住区)には住んでいなかった。しかし彼らもまた、1811年11月3日
のナポレオン軍の進駐を解放として感じとっていた。
ナポレオンの改革によってライン地区のユダヤ人の生活基盤も多少改善された。
しかし、これはハイネの家族にはあてはまらず、1819年に父の会社は
破産した。一家はそれから事業に成功して裕福だったハンブルクの叔父の
庇護を受けることになる。ハイネは20歳のとき、叔父と同じように事業家に
なるための道を歩み始めた。

ところがハイネは商業にはまったく関心をもたず詩を書いていた。
このころのハイネはまだ詩人と呼べるものではない。
功名心の強い母親は、息子をボンの大学へ送って法律の勉強をさせた。
しかし息子は法律にも興味がわかず次第に文学や哲学や歴史に傾倒していった

1年後にゲッティンゲン大学に移るが、そこでもまた、よそ者としての
わが身を痛感する羽目になる。ボンにいた頃、愛国的思想と君主制反対で
ハイネを感激させ、彼の初期の祖国愛をうたった詩や叙情詩に霊感を
与えたこともある大学組合が、ユダヤ人組合員の追い出しに熱を入れる
ようになってきたからである。

そうしている間、解放戦争後のドイツでは、メッテルニヒの王政復古政策が
のさばり出す。ハイネはベルリンの大学に移り、ここでヘーゲルの観念論
哲学と出会う。ヘーゲル哲学は、長い間ハイネに影響を与え、のちの彼の
宗教批判や哲学批判の基盤ともなり尺度ともなっている。

ベルリンでハイネは、すぐに文学者たちの集まるサロンに出入りするように
なる。こうしたサロンは多くの場合、裕福なユダヤ人女性たちによって
開かれていた。なかでもラーヘル・ヴァルンハーゲンのサロンにハイネは
必ず姿を見せて、ここでアレキサンダー・フォン・フンボルト、
フリードリヒ・シュライエルマハー、アーダルベルト・フォン・シャミソーや、
メンデルスゾーン家の人々を知ることになる。ハイネが1822年に
最初の詩集を出版できたのも、ラーヘル・ヴァルンハーゲンのおかげだった。
しかし、職を得て社会に地歩を築くという試みも結局は不成功に終わり、
ハイネはここでもまたアウトサイダーであることを思い知らされる。

ハイネはゲッティンゲンで博士号を取得し、キリスト教に改宗する。
しかし、洗礼を受け新教へ宗旨がえしたことは秘密にしておいた。
すでに27歳のハイネにとって将来の生計の職をもつことは愁眉の問題と
なっていた。

ハリー・ハイネはハインリヒ・ハイネに変身した。しかし彼は、
このことをすぐに後悔する。洗礼を受けても、自動的にドイツの社会に
受け入れてもらえるわけではないと分かったのである。「今や私は、
キリスト教徒にも、ユダヤ教徒からも、憎まれている」とハイネは
ある友だちに書いている。

「忘れてならないのは、ハインリヒ・ハイネはゲットーから逃れ出た
最初の世代に属している、ということだ。ドイツ語は彼の母国語だった。
しかし彼の母の言葉ではなかった。彼の母の使っていた特殊な言葉は、
ヘブライ文字で書かれたユダヤ・ドイツ語であり、ゲットーが取り壊され
るとたちまち死滅してしまった言葉なのである。当時の『公民権における
差別からの解放』は、単なる書類上の指令にすぎない。一般市民はもとより、
官庁やキリスト教会さえもその実施を等しく拒否していることを、この
ゲットー後の第一世代は痛切に思い知らされた」と、優れた文学批評家で
ハイネに詳しいマルセル・ライヒ・ラニツキィは書いている。

文学的才能に恵まれ、帰属するところのない者という思いをたえず味わわ
された若者が、結局はフリーの文筆家という「アウトサイダー的な職業」
につくようになるのは、当然の理だろう。ドイツの出版業界が、文筆でも
食べていける可能性を提供したのは、ようやくこの頃のことだ。ハイネは
こうした可能性にあずかれることになった最初の人たちの一人だった。

1826年に「旅の絵」の第1巻が、ホフマン&カンペ社から出版された。
この本は、またたく間にハイネをドイツばかりでなくフランスでも
有名にする。卓越したエッセイストとしての文体、当時としては
めずらしい、異なった要素の混沌、ロマンチックな気分を繰り返し拭い去って
いく独特の嘲弄と皮肉は、ハイネを新しい散文の先駆者に仕立て上げた。
そこには、この時代のあらゆる分裂的要素と社会的変動とが反映していた
のである。「旅の絵」は時代の嗜好にあっていた。それは、変革と新しい
出発、個人の活動と越境と解放を支持するものであり、フランス大革命と
その理念に対する隠れた信奉であった。

1831年5月に政治的に自由なフランスに亡命する。
ここで、ハイネの第2の人生、第2の創作期が始まる。

1856年2月17日、ハイネは亡くなった。彼の作品が、ドイツと
そしてフランスでも今なお生き続けている何よりの素晴らしい証拠は
パリのモンマルトルにある彼の墓がいつまでも新しい花で飾られている
こと、そして生まれ故郷の町デュッセルドルフが展覧会、国際会議、
シンポジウムを開いて、生誕200年祭を祝っていることにみることが
できよう。

ハインリヒ・ハイネは、ドイツとフランスの2つの国で生きた。
「ハイネは、この両方の国において、特殊な一匹狼であり、風変わりな
アウトサイダーだった。要するにどこにいても異邦人だったのだ。
ドイツ人の間ではユダヤ人、フランス人の間ではドイツ人、ドイツでは
排斥された者、フランスでは外国人だったのである」と、
マルセル・ライヒ・ラニツキィは結んでいる。
    (Zeitschrift Deutschland ドイチュラント 4/97)

ハイネはローレライの詩を書いた。
キリスト教徒に改宗したからにはハイネはユダヤ人とはいえないのに
ドイツでは彼はユダヤ人の扱いを受けてきた。
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