私のドイツ研修旅行(フンボルト奨学生)
Schloss Linderhof

1982年5月8日 ケンプテン滞在

     5月9日 ケンプテン→オーバーアマガウ

     5月10日 オーバーアマガウ→ミュンヘン

ロマンの王様の城
リンダーホーフ城

前の日に、ホーエンシュヴァンガウ城とノイシュヴァンシュタイン城を見て、
さあ今度はこの王様ルートヴィッヒ2世が腕によりをかけて造ったリンダーホーフ城を
見学に行くのです。

フュッセンから、近道ルートのオーストリア経由で行くことにしたのです。 
ところが一行の中にドイツを出られないパスポートの人がいた。日本人なら考え
られないが、国によっては入国できる相手国がある外国人がいる。彼のために、
急遽ルート変更。オーストリア入管の手前で引き返し、我々のバスは田舎道を
走りに走ったのでした。 
運転手の腕は確かで、なんとか間に合って、リンダーホーフ城の庭に到着する
ことができました。 

リンダーホーフ城は、美しい Rokokoschloss でした。城の前庭にある
Wasserfaelle の水の芸術を楽しんで、いい所に連れてきてもらったと思いました。 
なんにしても、この城の写真はよく見る写真です。本当に美しい城です。 こんな山奥
に立派な城を造るなんて、工事関係者は苦労したんだろうなと思いました。

これで終わりかと思ったら、城のうしろの裏山に案内されました。案内板には Kiosk
と書いてあります。
なんでこんな山の中に売店があるのだ、と勉強不足の私は思ったのでした。
ヨーロッパ中にあるキオスク、日本の駅にもありますけどね。
でも、ここの Kiosk は 「あずまや」と訳されます。内部はトルコ風の装飾で
エキゾチック。ルートヴィッヒ2世の好みだったのでしょう。 

そしていよいよ Grotte (洞窟)

これは見て思わず笑ってしまった。見ない方がよかった。 日本三大がっかり、
というものがあるらしいのです。評判だけで実物を見たらがっかりするもの。見ない方
がかえってよかったというもの。 

二見ケ浦(三重県)、夫婦岩にかけられたしめ縄、日本のシンボルですね。これを
わざわざ苦労して現地に行って見た私はがっかりしたものでした。見ないほうが
よかった。長崎の思案橋。歌で有名だからと行って、そこに行ったら橋がない。川がない。
欄干だけ少し残っていた。よさこい節のはりまや橋もこんなものだといいます。
あと1つがっかりしたのは札幌時計台。行って探してもどこにも見つからない。ビルの
谷間に隠れて注意して探さないと見つからないのです。皆さんのがっかりしたものは
何ですか。 

鉄の扉を開けて入った洞窟の中には、苦労して作ったと思われる人工鍾乳洞がありました。
岩手には石灰岩が多いせいか、天然の大きな鍾乳洞がいっぱいあります。
そんな本物を見てきた私にとって、技術者が苦労して作った人工鍾乳洞はがっかりの
対象だったのでした。

鍾乳洞の中に池があって、ごていねいに池には船が浮かべてありました。
この船に乗って王様がものおもいにふける姿を連想すると、さすがに
私もついていけないという気持ちです。美的感覚の違いか。

この城を建設したのはルートヴィヒ2世です。 フランスのルイ14世太陽王にあこがれ、
ロマンチックに城作りにあけくれ、バイエルン王国の財政がピンチになって、
とうとう退位させられてしまった王様。 

鉄血宰相ビスマルクの政治力でプロイセンを中心としたドイツ帝国ができようと
していたとき、このルートヴィッヒ2世がバイエルン王であった。
本来はバイエルン王国は、プロイセン、オーストリア両強国の間にあって中小諸邦を
第三勢力として結集すべきであったが、かんじんの王様が政治嫌いで城作りと
ワーグナーのパトロンにあけくれていた。 

あの王さえしっかりしてくれていたら、なにもベルリンの下になることもなかったのに、
と今でもバイエルン人はルートヴィッヒ2世のことをあまりよくは言わない。 

王は政治のむなしさを知って芸術とロマンの世界を選んだのだ。私にはそう思える。
どこか狂っていたゆえ鋭い予見力があって、たとえドイツ皇帝になっても
その先のドイツの敗戦(第一次世界大戦)が待っていることを予言したのではないか、
と私には思えるのです。

毎年世界中から多くの人が、王の追い求めたロマンチックな城を見に
ドイツにやってくる。だから、王は今も人々に愛されているのだと思いたい。 

歴史的にはビスマルクに城の建設資金を出してもらうのと引き替えに、ドイツ皇帝と
してプロイセン王を推薦する役割をあてられてしまった王ということになっている。 

なぜ王は結婚しなかったのか?と私はリンダーホーフ見学を終えるとき現地のガイドに
質問した。Warum そのドイツ人女性ガイドはにこりともしないで (私をにらみ
つけるように)説明した。王には婚約者ゾフィがいたが、ゾフィよりもその姉の
エリザベトが好きだったのだ。エリザベトはしかし、オーストリアのフランツ・
ヨーゼフ皇帝と結婚しているからかなわぬ夢だったのだ。 

実はこれは公式な説明であり私が知らなかったのでした。 

帰り道、ドイツの3週間にわたる研修旅行のガイドの女性(リンダーホーフ城のガイド
とは別人)がバスに乗るまでの途中で私に補足説明してくれました。でも、
それは第一の説である。ドイツには第二の説がある、と。 

王は女性よりも男性が好きなのだ。これを聞くと回りの留学生たちはどっと笑いました。
ホモだったのさ、と言うものもいました。婚約しても結婚まですすまなかったのは、
王が熱心ではなかったからでしょうか。 

歴史上悲劇の皇妃されるエリザベトですが、フランツ・ヨーゼフ皇帝の相手として、
皇帝の母親が考えていたのは、姉のヘレナだったのです。
しかし、見合いの席で、若いヨーゼフは慎み深い姉のヘレナより、活発な妹エリザベト
にひとめぼれをしてしまったのです。 エリザベト16歳のとき。 

ルートヴィッヒ2世とオーストリア皇后エリザベトは親戚で、どちらも夢みるロマン
チストであったから生前たがいのよき理解者であったようです。しかし、エリザベト
より8歳年下のルートヴィッヒ2世は、彼女が結婚したとき8歳ということになる。 
エリザベトが忘れられず結婚しなかったとは私には信じられないのだが。




                本格的なドイツ北半分の地図そうとう大きいので注意

                本格的なドイツ南半分の地図そうとう大きいので注意

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