エリザベトは父マクシミリアン公爵、母ルートヴィカの娘として生まれた。
父マクシミリアンはバイエルン王マクシミリアン2世と親戚である。
母ルートヴィカもナポレオンの力ぞえでバイエルン初代王になった
マクシミリアン1世の王女として生まれた。
したがって、そもそも両親は親戚どうしである。
母ルートヴィカは公爵夫人であったが、母の姉妹たちは王族たちと婚姻をしていた。
その華麗なる結婚は次のとおりである。
フランツ2世と結婚して後にオーストリア皇后となったカロリーネ・アウグスタ、
それぞれザクセン王妃となったマリアとメリー、
エリザベトはプロイセン王妃、ゾフィはフルディナント皇帝の弟フランツ・カール
と結婚して、オーストリア大公妃となった。
こうした華々しい婚姻関係の中では、ルートヴィカは姉妹の中で最も低い地位に
あった。
一方、多民族国家であるオーストリア帝国は分裂の危機がせまっていた。
皇位継承者が自分の息子フランツ・ヨーゼフに回ってきたとき、母である
ゾフィ大公妃はハプスブルク帝国の栄光を一身に背負っていた。
こうして1848年の革命はルートヴィカとゾフィの姉妹を接近させた。
1853年8月、南バイエルンからオーストリアの小都市イシュルに
向かう塩の道を走る馬車に母ルートヴィカとヘレナとエリザベトの姿があった。
ゾフィ大公妃は妹ルートビィカと相談して、オーストリア帝国フランツ・ヨーゼフ
の妃として、ヘレナを考えていたのだ。
ところが、若いフランツ・ヨーゼフは慎み深い姉のヘレナより、活発な
妹エリザベトにひとめぼれをしてしまった。
恋愛の末の結婚ではあったが、この縁組みに(近親結婚を避けるための)
宗教上の問題をクリアしなければならなかった。
エリザベトとフランツ・ヨーゼフは、母方については母どうしが姉妹であり、
父方についても4親等になるからであった。
通常ではなかなかゆるされない婚姻も、ヴァチカン法王庁のピオ9世が
例外的に認めた。
エリザベトは結局4人の子どもを生んだが、最初の娘ゾフィは夭逝し、
次女ジゼル、長男ルドルフは、ゾフィ大公妃によって育てられたので、
三女マリア・ヴァレリーはゾフィ大公妃の影響を排除して育てた。
フランツ・ヨーゼフが自分の意向にしたがわず若いエリザベトを選んだときから
姑ゾフィは、この姪エリザベトが気に入らなかった。そのためもあって
ウィーンの宮廷でのしきたりを嫁に押しつけ、孫の育児も教育も、母エリザベト
からとりあげた。
もともと宮廷生活よりも自由な生活にあこがれたエリザベトは心の傷をいやすため
旅に出てヨーロッパ中を回った。
そうしているうちに、息子ルドルフが気にそまぬ結婚から、恋人と自殺をとげて
しまい、これがもとでエリザベトは生きる意欲を失い、旅の途中ジュネーブの
レマン湖畔でイタリア人の無政府主義者によって殺されてしまう。
皇太子ルドルフは母エリザベトの影響を受けて、知性にすぐれ、進歩的な思想の
持ち主であった。当時の内政外交をめぐって保守的な父親と対立していた。
エリザベトはハンガリー語をよく学び、ハンガリーからも慕われたという。
ノイシュヴァンシュタイン城などバイエルンの城づくりにあけくれた
ルートヴィヒ2世は、エリザベトより8歳年下であったが、二人は気があった
せいか、長い友人関係を続けた。
ルートヴィヒ2世はエリザベトの妹ゾフィと婚約したが、結婚には至らなかった。
ちょっと大きくなりましたがエリザベトをめぐる系図 です。
フランツ・ヨーゼフ皇帝が姉ヘレナではなく、妹エリザベトを選んだり、
あのバイエルンのロマンティックな王ルートヴィヒ2世がエリザベトの面影が
忘れられず、その妹ゾフィと婚約したが結婚しなかったことなどを考える資料となります。
参考文献は「ジャン・デ・カール、三保元訳:麗しの皇妃エリザベト、中央公論社(1984)」でした。