7/18 イシク・クル湖滞在
このサナトリウムの部屋のトイレには、紙が置いていない。
同室のO氏も他のみんなも、T富士のティッシュを日本から持ってきて、それを
使っていた。私がトイレが詰まったら大変と言うと、それはこちらのホテルの方で
対応するのでしょうと言われた。
食事前に、広い庭を散歩した。昨日の演奏会のあった中心の建物に入ると、
ホールのベンチに夕べの津軽三味線の演奏した人が3人いた。挨拶をしてみると、
その中には仙台市に住んでいる人もいた。
記念に、津軽三味線とキルギスの三弦の写真を撮りたいと、裏庭に出て、
写真を撮った。私も写真を便乗して撮らせてもらった。津軽三味線は犬の皮を張る
とのこと。黒檀、象嵌そして津軽塗り、だから高い物になると100〜200万円
するそうである。
S氏によれば、それは趣味の世界で、楽器としての三味線の値段は3〜5万円とのこと。
朝の三味線交流会(小画像)
三味線とキルギスの三弦(小画像)
キルギスの三弦コムズ
朝食は、やや固いパン、バター、ココアミルク、茶。
それから、やわらかいソーメン、葱と肉とキャベツ煮込み、甘いオートミールも。
どうも味が薄いと思ったら、塩が別の容器に入れてあった。自分で適量をふりかける
らしい。会津から来たI氏は梅干し、キノコや貝の佃煮を出してくれ、これは
この食事にマッチした。
健康的な朝食(小画像)
朝食か夕食か不明(小画像) 記憶があてにならない
あいにくと天気は曇り空。小雨さえも降ってくる。
山の向こうはカザフスタン(小画像)
食後に湖の散歩をしたが、この天気なので、向かいの天山山脈もよく見えない。
湖は茶色の砂浜で、波がある。船もあるし、足でこぐボートも置いてあった。
天気が良くないので、水も冷たく、アリム氏だけさっとひと泳ぎする。
湖にて(小画像)
アリム氏の雄姿 (小画像)
本格的な雨になりそうで、ホテル(サナトリウム)に戻ってきた。
白樺並木や美しい花園がいたるところにあった。多くのロマンスが昔から
あった地なのだろう。
白樺の並木(小画像)
美しい花壇(小画像)
美しい花壇(小画像)
美しい花壇(小画像)
美しい花壇(小画像)
美しい花壇(小画像)
ここの白樺は葉に樹液がにじみでているようで、手でさわるとべたつく。
しかし、水で洗うとべたつきは無くなる。
参考までに、白樺の葉を1枚とってきた。
この湖は冬でも凍らないので、不思議な湖として、玄奘三蔵も記録している。
井上靖もこの湖に憧れたのだが、当時はソ連が外国人の立入禁止をしていたから、
誰も湖に来れなかった。ソ連の崩壊により、我々も来られたのである。
どうも、不凍湖なので、ソ連の軍事研究施設があったため、立入禁止にしたらしい。
湖の水深は約600m(小画像)
キルギス語ではウスク・キョル湖(暖かい湖)、ロシア語ではイシク・クル湖
という。東西170km、南北70km、湖面標高は約1600mである。
日本時間15:30〜17:45 近くに地質鉱物資源庁長官の夫人の実家があり、
そこに行って、羊料理を食べさせてもらえることになった。雨の中車で行く。
いつしか雨もやみ、日もさしてきた。ここらは山が近いせいか天気が変わりやすいようだ。
そこの家の庭からちょうど湖が見え、なかなか景色の良い所だった。
夫人の好意で家畜小屋や畑を見せてもらった。裏のトイレも貸してもらった。
私の子どもの頃は、日本の田舎でもこんな生活だった。まさに日本的風景だった。
おそらく、夫人は来客にご馳走する羊の姿を見せたかったのだろう。
包(パオ)の中で食事をするのだと思ったら、家の座敷に案内され、豪華な絨毯
がいくつも壁にかけられた部屋で、大変豪華な羊料理を食べさせてもらった。
まず案内された部屋では、西瓜や果物そしてお茶などの軽食。
まずお茶と果物を(小画像) サラダも(小画像) 食事
簡単な紹介があり、おしゃべりをしているうちに別室に用意が調い、みんな移動する
という風に進んでいく。たただ、我々の場合は部屋の移動の間に外に出て、
庭や畑を見せてもらったり、家畜小屋も見せてもらったのだ。
食事の前に若い男の子の世話で手を洗う(小画像)
手を洗った後に(水切りのために日本人のする)手を振ってはいけないそうです。
それからおもむろに、羊料理用の別室の席に案内された。
羊1頭が全部料理されてきた。頭部は客の中で一番若い人に与えられ、彼から好きな
部分を取って食べるのだという。目を食べると目が良くなり、耳を食べると耳が
よく聞こえるようになると説明された。
この部屋の壁に豪華な絨毯が(小画像)
食事(小画像)
食事(小画像)
食事(小画像)
腰の骨肉は、一番の年輩者(我々一行には80歳の人が二人参加していた)に
ふるまわれた。あとは各自にしきたりによって、適当な部分が与えられた。
自分の与えられた部分を全部食べなくてもよく、一部を食べたら中央に戻して、
それを他の客が取って食べるのだという。羊は黒い羊の数が少なくて、
黒い羊の方が白い羊より高級品だと聞かされた。
おそらく日本人に気を使ってくれたのだろう。野菜料理もたくさん出された。
果物も並べられた。酒は白酒やウォッカ、彼らは酒が強そうだ。
夏には羊を太らせるため山へ連れていき、冬になったら乾し草を与えながら
ふもとで生活するわけである。これが遊牧民の生活であったが、ソ連時代は
遊牧民を移動させないようにしたという。だんだん、山に放牧するという
遊牧民の伝統が少なくなってきたそうである。
食事の後には、アラーの神へ感謝の祈りをささげるのである。
アーミンというのが一般のイスラム教徒の祈りであるが、この地では
オーミンと祈るという。で我々もオーミン。
家の前で記念写真(小画像)
この後日本に留学したキルギス人(小画像)
サナトリウムに戻って、日本時間21:30に今度は食事前にビールを飲みたいと
いうわけで、食堂1階のバーに入って飲物を注文しようとした。
しかし、寒くて上着が欲しいくらいで、ビールよりウォッカにする人が多かった。
私なら熱燗が飲みたいところだが、あいにくとそれはできない相談。
そろそろ疲れてきたのか、ハイテンションな発言も聞かれるようになった。
局長さんがしてくれたキルギス人の結婚の話。
伝統的な見合い結婚と若い二人の恋愛結婚がある。
日本式の結納のように、男性(婿)側の両親が女性(嫁)側の家を訪問する。
女性側の親族が集まっていて、みんなで飲食し、踊ったり歌ったりして1日続く。
婿側では、贈り物やお金を持っていく。嫁側の両親、親族の全員に、洋服や要求された
品物を持って行くから、結婚する前に大金を用意しておかないといけないわけである。
翌日には、花嫁になる女性を連れて花婿側の家に戻り、そこには親族が集まっていて、
花婿側の家でまた盛大な宴会がくりひろげられる。
花嫁を送り出した方では、全員が泣いて悲しむ。
花嫁の両親は嫁入り道具を持って、花婿の家に行き、また盛大な宴会がくり
ひろげられる。なんと3日連続続くという。それから嫁の両親は帰り、嫁は正式に
入籍される。系図としては、娘は家系に入れず、息子だけ家系に入れるという。
若い二人の恋愛も親が認めれば、正式の日本式結納の手続きで行われることもある。
贈り物や宴会に金をかけられない貧乏人の場合、略奪結婚という方法がある。
これも当人同士の合意があって、両親も認めて、なんとかおさまるよう
男性側の両親(あるいは親族)が女性側の家に謝りに行くという。花嫁は反対では
ないから、なにとぞお許しくださいというわけである。
始めは親戚一同怒り出すが、相手が謝ったり、お金など出すと、だんだん許す
態度を示し、やがて(せっかく来たのだからと)羊が殺されご馳走が並べられる。
そして、結婚式の詳しい打ち合わせがはじまる。その後改めて結婚式の打ち合わせ
に男性側の親族が行く。この場合、女性側では費用をいっさい使わず、男性側が
費用を持つという。最近では、略奪の際に馬を使わず、車を使うという。
略奪するといっても、女性の合意が必要で(そうでないと誘拐になる)、
男性は、その目当ての女性にマフラーをつける。女性が yes のときは、されるままに
なっている。 no のときは、そのマフラーを捨てる。それで、女性の気持ちを
確認するのである。
もし、日本人の男性が、キルギス女性に恋したら、この作法にしたがって
マフラーをつけさせてから、その女性を局長さんの家に連れていれば、局長さん夫妻
が保証人になってくれるから大丈夫と言われた。
ソ連時代はイスラム教が禁止され、結婚は市役所に登録すればいいだけであった。
キルギスが独立すると、以前のように聖職者立ち会いのもと、伝統的結婚式が
行われ、それから市役所に届けるという。
局長さんの話のあと、質問がないかと聞かれた。
離婚は認められるかという質問に対して、離婚は簡単にできるということである。
その場合、慰謝料はなし。嫁入り道具を持ち帰ることはできる。
もし、子どもが生まれた場合、娘だけしか生まれない家はどうなるのかという質問
が出た。ムスリム世界では、男を作らない男は男ではない。
夫で息子ができない夫は一人前の夫ではない。奴隷である。
S氏の解説。遊牧民は男の仕事で成り立つ社会だから、男の子がいないと困るのだろう。
サナトリウムで記念写真(小画像)
サナトリウム保養所(ブズモルエ) キルギス
所在地 ウスク・キョル(イシククル)湖畔
TEL −21−7729
FAX −21−2821