キルギスタン〜新疆ウイグル自治区、文化交流及び親善訪問の旅

7/17  ビシュケク−イシク・クル湖

ビシュケクのホテルの浴槽はまずまず。温水シャワーも出る。しかし、通常ついている
カーテンが無い。
部屋に冷房設備はなし。暑いから窓を開ける。
メモを書くにも、同室のO氏は睡眠中なので、明かりをつけず、トイレ(風呂と同室)で書く。
日本時間朝の8:00 現地時間なら時差を考慮して4:00だろうか。
しかし、夏時間を実施しているらしく、キルギス時間は日本時間より3時間遅い。

日本時間8:30 O氏が起きてシャワーを使いたいというので、ベランダに出る。
外はもう明るい。ポプラ、高い煙突、灰色アパートの建ち並ぶ光景は、
昔の札幌の北24条の大学村を思い出す風景だった。遠くに山が見えるので、藻岩山
や手稲山を思い出した。
このホテルの左手の奥に巨大な衛星放送のパラボラアンテナが2つ小画像)見えた。
これでは衛星放送も写るわけだ。

日本時間8:45ちょうど日の出が見えてきた。3分から5分で太陽が全部姿を
現した。日本でもあまり見たことがない日の出を、中央アジア見ることができた。
     木立ごしに山のはから出る朝日小画像
(肉眼では町の建物など見えるのだが、幻想的な写真になってしまった)
  比較のため昼間の風景小画像)と較べてみてください。

朝にホテル前で散歩、花壇の写真を撮る。白タクがホテル前にたくさん止まっていて、
我々の顔を見ると、タクシーと呼びかける。白タクで現金を稼ぎたいのだろう。
  花壇小画像)  花壇小画像)  花壇小画像

日本時間11:00 ホテルの食堂で朝食。パン、甘い菓子パン、ジャガイモ、
ハム、ソーセージ、白チーズ、ジャム、目玉焼き。団長のS氏がもらいものの
陪(さんずい)陵搾菜(ザーサイ)をみんなに渡してくれた。
若いK氏は夕べはビシュケクの夜を元気楽しんで、泊めてくれたサッカー選手
(スルガック)を連れてきた。K氏は将来この町の日本センターに勤務することを
希望しているようだ。
     ホテルの朝食小画像

  ホテルの旅行サービス(画像データ大) 市内観光、タシケント旅行、なんとインターネットまである。

午前中は買い物ということで、食事がすんだらすぐ出発。
この町に1つしかない郵便局小画像)に行って、日本までの航空便を出す。はたして届くだろうか。
郵便局で切手を買う。郵便局の中で、ロシアやポーランドなど世界の記念切手を
売っているおじさんたちがいた。

このハガキは約2週間後、8月2日に自宅に届いた。
なんとカシュガルから出したハガキも同時に。カシュガルはキルギス郵便局の
3日後の7月20日にホテルに頼んだのに(消印を見ると28日に投函されていた)。
キルギスの郵便はあんがい早かった。

     日向のタバコの露天商小画像

日本時間12:30 フルンゼ記念館を見学。フルンゼとは、この町で生まれた、
赤衛軍の将軍で、レーニンやスターリンと同時代の人。フルンゼの父親は、この地で
医師として地域の医療につくした。成績優秀でモスクワの大学に進んで、ロシア革命に
若者らしく時代を生きた人物。残念ながら40代で亡くなった。キルギス人のことも
配慮していた民主的な人物だったので、もし生きていれば、
スターリン時代は大分変わっていたのではないか、とは団長S氏の言葉。
 ガイドの説明小画像)を聞く。

彼の功績はあまりにも偉大で、いくつかの学校に記念に彼の名前が残されている。
なかでも、モスクワのフルンゼ陸軍大学は、1918年レーニンの指示で設立され、
ソ連軍の統合教育の最高学府として有名である。

記念館は彼の生家の場所に建てられたもので、 茅葺き屋根の生家小画像)は
そのまま記念館の中に保存されている。
ソ連時代、しばらくこの町はフルンゼと呼ばれていたので、10年前の地図には
フルンゼと出ている。現在は昔のようにビシュケクの名前に戻された。
   フルンゼの巨大像     記念館の奥にあったレーニンに説明する場面の絵。小画像

日本時間13:00 フルンゼ記念館から近くのキルギス国立博物館の見学。
博物館前には巨大なレーニン像小画像)が建っていた。ソ連時代あちこちにあった
レーニン像は、いまどことどこに残っているだろうか。
レーニン像は博物館の前に配置されているがそこまで走っていくのに時間がかかる。
大陸は広いと思った。博物館前の雄大な配置。小画像

ここの歴史資料はなかなか興味深いものだった。館長は女性で、ロシア語の説明を
通訳のアリム氏が日本語で説明してくれた。
(ものの本によると、ベテルスブルクのエルミタージュ博物館に、この地の貴重な
遺跡出土品が展示されているそうである)

キルギス国立博物館では、遺跡によるキルギス民族の変遷の興味ある説明があったが、
専門すぎて、やはり印刷された資料がほしいところだった。そういう資料も博物館
の売店に売られていたが、ロシア語なので読めなく買ってこなかった。
NHKのシルクロードの番組で、天山山脈に中国側では絶滅した「雪ヒョウ」の剥製が
この博物館に展示されていて、天山山脈のキルギス前にはまだ棲息するとの説明
があった。NHKもここまで調査に来なかったのだろう。

キルギス国立博物館の最後の展示は、この国を代表する作家アイトマートフ
に関するものであった。

日本時間17:00 アリム氏は我々のために、野菜不足を補う意味で中華レストラン
に案内してくれた。やはり、日本人を案内する仕事をしていて、よくリクエストが
あるらしい。一般客に出すのではなく、特別に野菜の多い料理を注文してくれた。
ビシュケクの町でも珍しい中華料理のレストラン小画像)であった。РЕСТОРАН RESTAURANT
ロシア娘2人がウェイトレスだった。この町では半数以上がロシア人なのである。
  レストラン風景小画像)     レストラン風景小画像

食事の後、この町にある宝石店に案内され、何人か買い物をした。
トルコ石とか金細工などあって、目利きの人には掘り出し物があるかもしれない。
昼食のあたりから、地質鉱物資源庁カディルベック局長が車に乗って
案内してくれた。キルギス人であるが時々英語で説明してくれた。
彼はキルギス出国まで世話になった。

カディルベック局長の案内で、いよいよイシク・クル湖に向かう。道中は長い。
まっすぐな道路、ロシア風な民家(ロシア人もキルギス人もそういう家に住んで
いるらしい)が続く。車は80〜85kmでとばす。

日本時間18:15 左手のチュイ川のところが、カザフスタンとの国境小画像)で、
川を渡る牛がいた。川向こうのカザフスタンとこちら側のキルギスを行ったり来たり
する牛らしい。牛や鳥に国境はない。
男が馬に乗って牛や羊の群を誘導していた。ここでは子どもも大人と同じ
ように働いている。
  牛と羊の群小画像

日本時間19:00 果物を売っている所で果物を買い、キルギス人の子どもたちと
一緒に写真を写す。一行にはウィグル語やキルギス語を片言でも話す人がいるから、
現地の人々との会話もなごやかになる。
車走り出す。しばらく走ったら、また休もうと言われた。

日本時間19:20 チェックポイントが数カ所あった。最初の地点では、
カディルベック局長も書類を見せたが、2回目からは進めの合図を見ながら車を
走らせた。ビシュケクを40km離れたら、届けないといけない決まりになって
いるから、この国はなかなか大変。ここらあたりは国境も近いし。

日本時間19:40 包(パオ)の並ぶサービスエリアがあり、シシカバブやジュース
などの飲物や食べ物を売っていた。しかし、通過するだけ。

山の中なのに、左手に大統領の出身の村へ行く道が建設されていて、記念の門小画像
が建てられていた。道は山の中にしては立派な道だった。
谷に白いアオイの花が咲いていて、局長が降りていって花を取ってくれた。
キルギスの男性は女性に親切である。

日本時間20:00 聖地イクチェルに到着。山のわき水。白い石が積まれている
その場所に冷たい水がわき出ている。親子が坐っていて、赤い服を着た女の子は
かわいかった。ほとんど日本人の女の子と言ってもまちがえるくらいだ。

細長い布きれが売られていて、それを買って、願い事を心の中で祈りながら、
木の枝に結ぶという。神社で木の枝におみくじを結んだり、七夕の短冊に願い事を
書く日本の習慣に似ている。ここでは布きれに書かない。
無事日本に帰れますように、と祈った。
     聖なる泉小画像)      聖地の売店小画像)      聖地イクチェル小画像

日本時間20:25 道はT字路にきた(バルクチュ)。ナルンに行く方向は、
2日後にキルギスから中国に行くとき、ここを通るのである。道はさらに続く。
     湖が近いから魚の干物、サクランボ小画像)(このサクランボは実を糸で結んでまとめている)
日本に来たみたい。

やがてすぐ湖が見えてきた。しかし、車の旅はまだまだ続く。
そしてチョルポンアタをすぎて車はなお走り、
日本時間23:10にようやくイシク・クル湖の畔に着く。我々のサナトリウム
には、扉があって受付で書類を出してから、ようやく扉が開き、入れてくれた。
ここは安全と思った。

ここでは、津軽三味線の演奏があり、これを聞くためわざわざ来たのであった。
ほとんど時間がなかったが、40分の間にあわただしく夕食をとり、部屋で
ネクタイ姿に着替え、演奏会場に駆けつけた。

会場にはキルギス人で半分くらい埋まっていた。実際はロシア人が多数で、その間
をアジア系のキルギス人が何人か坐っていた。我々は真ん中ほどの席に一列に並んで
聞いた。
通訳は若い女性で、やはりビシュケクで日本語を勉強しているのだろうか。
ゆっくり丁寧に通訳していた。
     三味線演奏者の紹介小画像

演奏になったら、突然電気が消えてしまった。おやおやと思っていると、ローソクの
明かりや蛍光スタンドのような照明器具が舞台に持ち込まれた。
なんとか演奏会が始まった。これも演出かと思ったら、後で聞くと落雷により
どこかのヒューズがとんだらしい。(のちほど照明は回復した)

津軽三味線と同じような3本の弦の楽器がキルギスにもあり、お互いの楽器の演奏
を通じて文化交流することが数年続けられている。今年はこの交流演奏会に
シルクロード倶楽部も日本から駆けつけたわけである。

わざわざ日本から演奏に行ったから、本格的な津軽三味線の演奏はすばらしかったが、
日本音楽が西洋音楽やシルクロード音楽と違うため、はたして観客が理解できたか
とふと思った。
ロシア人にも聞いてもらおうと、津軽三味線でカシューチャの一節を演奏したり、
キルギスの若者が現代風のキルギス音楽を演奏したりして、だいぶ風変わりな
演奏会であった。
     熱演小画像)      キルギスの若者の演奏小画像

わざわざ日本から聞きに行ったので、舞台の上で日本人だけ記念写真を写す。
この後数分で電灯が消され鍵がかけられた。かたずけはすばやかった。
     記念写真小画像

ともかくも、津軽三味線の演奏は無事すみ、我々も舞台に上がって記念写真を撮った。
そして、反省会はサナトリウムの食堂玄関前のホールで、テーブルを囲み
冷たいビール(STEINBRAEU)を飲みながらした。
忙しい1日だったが、無事一大事業を終えることができみな満足した。

この津軽三味線の演奏会は、週刊新潮8月12・19日号のグラビアに紹介されている。
残念ながら、この演奏会の陰で骨を折った関係者や我々参加者のことはふれられていない。

河北新報2001.12.20によると、JR弘前駅そばの民謡ライブハウス「山唄(やまうた)」は
津軽三味線奏者の渋谷和生(しぶたにかずお)のホームグラウンドという。
31歳の彼は、中学卒業後に山唄経営者である師匠の山田千里(ちさと)の弟子となる。
入門3年目の1988年に津軽三味線全国大会B級で優勝。
1990年には一流の弾き手が技を競い合うA級で、史上最年少の19歳で優勝。
1992年から1994年に前人未踏のA級三連覇達成した。

この新聞に出ている写真に見覚えがあり、週刊新潮を読み直すと、
はたして、我々の鑑賞したあの演奏会には渋谷和生がリーダーとして演奏していたのであった。
記念写真の中央の体格のいい若者が彼である。

  サナトリウム保養所(ブズモルエ) キルギス
  所在地 ウスク・キョル(イシククル)湖畔
  TEL −21−7729
  FAX −21−2821

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