日耳曼

  地名や国名を漢字表記するのは、日本人はまず中国人から習ったと思われる。

岩倉使節団は、1871年11月12日に横浜港を出発し、欧米を視察し、 73年(明治6)9月13日に帰港。 この公式報告書「特命全権大使米欧回覧実記」にも日耳曼国のことが載っている。 第58巻「伯林府ノ記上」に日耳曼国外務宰相ビスマルク侯の談話があり、 日耳曼国は、欧州において、先進工業技術の開発においても、植民地を基盤とした貿易に よる繁栄においても、英仏両国の後塵を拝していて、これら先進諸国に追いつこうと懸命 な努力をしていた。 この点で300年の鎖国によって生じた遅れを取り戻し、先進諸国に肩を並べることを 急務としていた日本に対し、ビスマルクは共感と親近感を持っていたと思われる。 日本もそのビスマルクの助言を心から受け入れたのではないか。 以後の日本の歴史がドイツの後を追ったのは、良い面も悪い面も、今日に影響が及んで いる。 明治6(1873)年3月28日文部省が出した東京医学校予科(東大医学部教養課程) の新入生の募集の中に見える。  日耳曼学 羅甸学 数学 ドイツ語 ラテン語ということか。 その後の資料では、独逸学という表記になっている。 もちろん若すぎる森鴎外も入学した。 【今の西洋の文明は羅馬滅亡の時を初とす。紀元四百年代に至て、野蠻の種族八方より 侵入して又帝國の全權を保つ可らず。 此種族の内にて最も有力なる者を日耳曼の黨と爲す。「フランク」の種族も即ち此黨なり。 七百年代の末に「フランク」の酋長「チャーレマン」なる者、今の佛蘭西、日耳曼、 伊多里の地方を押領して一大帝國の基を立て、稍や歐羅巴の全州を一統せんとするの勢を 成したれども、帝の死後は國又分裂して歸する所なし。】  福沢諭吉:文明論之概略、1875年刊行 (途中省略)  日耳曼(German) 英語からきた表記  独逸(Deutsch)  ドイツ語からきた表記 日耳曼 ゼルマンの漢字をあてたのは中国であろうか。 英中辞典をひもとくと、GermanとGermanicの訳語に「徳国的」「日耳曼的」と 載っているそうである。 なお日本で、 気温をいうとき華氏○度とは、考案者ファーレンハイトを漢字表記したとき「華倫海」 の先頭の字が華だから、華氏というのである。 同様に、摂氏○度というときは、考案者セルシウスの名前の漢字の先頭が摂だからである。 こうしてみると、明治の時に日本語も、最初に漢字を当てた中国人の苦労を受け継いで いるのである。 当時の中国は南方からまず欧米と接触があったので、北京語の発音ではなく、広東語の ような発音で漢字を当てたらしい。 だから、現代の北京語学者が明治の漢字の発音を評価するのは困難なようである。 学研まんが「記号・単位のひみつ」ではセルシウスを「摂修」と書いていた。 よしむ氏によると現代中国では下記のように表記するそうです。  ファーレンハイト(ドイツ人 ) Fahrenheit 法倫海特  セルシウス(スウェーデン人) Celsius  摂爾(尓)胥斯 三角関数の名称も中国人がつけた。 17世紀前半に、明末期の大臣徐光啓(1562-1633)がイエズス会の伝道士マテォ・リッチの 説明を口述筆記して「幾何学原理」を著した。 徐光啓はさらにイタリアの伝道士ジャック・ローと協力して「測量全義1631年」を 著し、三角関数の正弦、余弦などの名前をつけた。 科学用語の翻訳

明治の新聞の外電記事と固有名詞の表記