イエズス会

イエズス会は中国や日本に西洋文明をもたらした。 イエズス会はカトリック教会内の司祭修道会の一つ。 16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された。 イグナティウスはマンレサの神体験後、パリ大学で出会った6人の同志 ファーブル、ザビエル、ライネス、ボバディリャ、サルメロン、ロドリゲスとともに、 1534年8月15日パリのモンマルトルにおいて(貞潔・清貧・エルサレム巡礼)の悲願をたてた。 1539年9月3日彼らは「会掟草案」を教皇パウルス3世に提出し、 教皇は1540年9月27日これを「イエズス会創立勅書」をもって正式に認可した。 1541年4月8日イグナティウスが初代総長に選ばれた。 しかし18世紀末の反教会的時代背景の中でポルトガル(1759)、フランス(1764)、 スペインやナポリ(1767)、その他の国における同会の禁止と追放が断行された。 ついに教皇クレメンス14世は1773年7月21日にイエズス会解散を命じた。 しかし同会はロシアのエカチェリナ2世の下に合法的に生命を保った。 ナポレオンの失脚後、教皇ピウス7世はフランス幽閉からローマへ帰還して イエズス会再興を宣言した。 一方1720年ロシアは一転して全国土から会士を追放した。 このように多くの盛衰を体験したが、イエズス会は創立当初の生命力を保持し、 現在も国際的奉仕活動を続けている。 【東アジア・インドにおける活動】 大航海時代ポルトガルの進出に伴い、教団はゴアに本拠を置き、 東南アジア、中国、日本を含む広大な(インド管区)を布教地域とした。 1549年ゴアから東南アジアを経て鹿児島に上陸したザビエルによって 日本での布教が始められた。 織田信長の保護もあり、17世紀初めには、日本全国の信徒は約20万人にのぼった。 その中から、大村純忠、大友宗麟、有馬晴信らのキリシタン大名もあらわれ、 天正遣欧使節も派遣された。 しかし、1687年豊臣秀吉によるバテレン追放令、1612年徳川幕府による キリシタン禁教令によって教団は厳しい弾圧を受けた。 中国では、リッチが1583年に広東に布教活動の第一歩をしるした。 教団は皇帝や中央地方の指導層と接触し、彼らの改宗を心がけた。 瞿太素、徐光啓、李之藻らの士大夫信徒は暦学・数学・地理学の科学知識を習得し、 イエズス会士とともにその普及に力を尽くした。 イエズス会は、中国の伝統的慣習を受容する布教方針をとり、 それはキリスト教の他教団との意見対立をもたらした。