阿部謹也先生の文献から

中世ドイツ史の権威阿部謹也先生の本には 橋のことがいろいろ書いてあります。 橋の文化史の記述と多少違う点もありますが、研究資料として紹介します。 レーゲンスブルクの石橋ができたおかげで 北フランスからドナウ諸国への商品の流通は ヴュルツブルク−ニュルンベルク−レーゲンスブルクの街道に移った。 それ以前の橋のないときは、ヴォルムス−ヴィムプフェン−パッサウの街道が 使われていた。 アヴィニヨンの橋の伝説 聖ベネゼ(ベネディクト)が12歳の少年のとき 神のお告げがあり「アウィニヨンに行って、ローヌ河に架けよ」 という声を聞いて 1177年9月13日 アヴィニヨンに出かけ人々に呼びかけた。 最初は相手にされなかったが、彼が30人の男がようやく持ち上げられる ような石を河に投げ込んだので、この奇跡ゆえ人々が橋建設に協力した。 橋の建設には11年かかった。 その後も橋建設兄弟団の手で橋の建設や管理がすすめられた。 これは半俗の兄弟団で橋の建設のための資材を購入したり、保管するための 組織であった。この兄弟団は1189年教皇クレメンス3世に承認され ヨーロッパ中に広がっていった。  ベネディクト会修道院の組織者ベネディクトは750−821とされ、別人。 橋の建設や維持管理には莫大な費用がかかったので、資金調達のため しばしば贖宥符が使用された。1286年にエスリンゲンで橋を架けたときは 数人の司教が共同で一通の証書を作成し、橋のために寄進したり労力を提供する 者に各司教が40日間の贖宥を与えている。贖宥符の作成者の数が多ければ 多いほど、その贖宥符の価値は高い。 贖宥符とは教会の権威により、祈りや喜捨、教会礼拝をする者に軽い罪の赦しを 与えるものである。たとえば40日間の贖宥とは40日間の罪の赦しを意味する。 他の似た橋建設資金調達方法 トールガウで1491年選帝侯フリードリッヒは教皇インノケンティウス8世 に斎日の特別許可をうけ、バターとミルクの使用を禁止した。どうしても バターやミルクをとりたい者は、毎年10分の1グルデンを橋に付属する小聖堂 に寄付すれば、この禁止は免除された。はじめ10年という期限だったが 20年に延長された。この橋建設の特別税ともいえるものは、キリスト教的 禁欲を守るものは納めなくてもよい税金であるのがおもしろい。 法人格をもった橋 橋には耕地、家、森、水車、浴場などが寄進されることもあった。 農民が橋に賃租を納め、それが橋管理者の手で管理され橋の修理にあてられる こともあった。レーゲンスブルクやコンスタンツの橋は美しい印章をもっていた。 橋は来世を想う人々のこの世における善行のシンボルとして多くの寄進の対象 となった。豊かな未亡人は橋を渡る貧民にワインやパンを寄進した。 これらの寄進物を管理し、橋の修理する団体として看護兄弟団がたいてい 橋のたもとに建物をもっていた。これは橋建設兄弟団と似た組織で、法人格を もち、財産と印章をもって、病人、貧者の看護をしたり橋の維持にあたった。 橋は他の土地とは異質な空間を構成するため、裁判集会の場となり、刑場 ともなった。バーゼルでは子ども殺しの女が手足を縛られて橋から川に 投げ込まれた。橋の上で耳そぎの刑も執行された。今でも大きな橋の上に 十字架が建てられていることがあるが、これは刑場であったことの名残である。 橋はときには避難所(アジール)の機能ももつことがあった。   (阿部謹也:中世を旅する人びと、平凡社)