行く前に数冊の本を読んでも帰国してからも別の本を読んでみた。
実際に自分の目で見たことと重ねて、シンガポールの分析をここでしたいと思う。
限られた時間だったので全部を見たわけでなく、それを補うために、
読んだ本の作者の目を借りて考えるということを
してみるわけだが、それもいいでしょう。
日本から行った人は、あの常夏の国シンガポールで寝るのは大変なこと。
それこそエアコンなしで一晩寝るのは地獄。
むかし中国から働きに来た苦力など窓もない所で寝て大変だったろうと偲ばれる。
熱帯夜にはやはりエアコンは必要。しかし、朝までエアコンは体に悪い。
そこでエアコンをかけて、羽布団で寝る。これがシンガポールで働く
ばりばりの日本人女性の生活の知恵。
実は私もそれが到達した究極の策でした。電気代がもったいない気がするが体にいい。
長くいると体が慣れてくるから、そう暑くない夜はエアコンが無くても
いいかもしれない。
旅行ガイドブックには、シンガポールでは世界のあらゆる料理が食べられる
とオーバーに書いてある。フランス料理もイタリア料理もある。
しかし、現地のシンガポール人はカジュアルダイニングが主流という。
マキシム・ド・パリは残っているが、たいていの客は日本人という。日本人が支える
フランス料理。イタリア料理や地中海料理など、あまり作法にうるさくない料理が
現地の人には人気があるらしい。
日本人は、歴史のある店とか、フランスで修業してきたシェフのいるレストラン
など肩書き部分にこだわるが、シンガポール人はそんなことはかまわない。
目の前に出された料理が美味しいかどうかしか判断基準はないという。
誰が作ろうと、美味しければそれでよし。能書きが立派でも口に合わないと
喜ばない。もちろん値段にはうるさい。当然他よりも安い店に人気が集まる。
このあたりの直情的な反応は、シンガポール人特有なものであろうか。
日本人は評論家の言葉に影響され、自分の味評価をストレートに表現しない
傾向があると思うがどうだろうか。
中国人系が多いから、もちろん中国料理が代表的なシンガポール料理の要素になる
だろう。その中で、よくガイドブックに紹介されているのは、海南チキンライス。
私も食べてみたが、チャーハンではなく、鶏ガラスープでだしをとって炊いた
ご飯に蒸した鶏肉がのっているから、味は釜飯みたいなものであった。
あと、福建麺(ホッケンミー)という焼きそば。そこれを食べたら、パリで食べた
焼きそばを思い出した。私が食べたのは、べたべたして好みではなかった。
他に、インド系の料理フィッシュヘッド・カレーやタイ料理系のパンダンリーフ
チキン(鶏肉を香葉パンダンリーフで巻き油で揚げたもの)がある。
飲茶も食べたが、香港料理の系統に近く、日本人には食べやすいものと思った。
日本を脱出してシンガポールで働きたい女性は多いようだ。
しかし、現地採用だと、それが日系企業なら、駐在員の待遇ではなく
つまり長期の臨時雇いのような待遇になるのであろう。
それでも、本人が生き甲斐を感じるならそれでよい。
給料もシンガポールで暮らすなら十分であろうから。しかし、シンガポールの
住宅費だけはとんでもなく高いらしい。一人で借りるによい手頃な広さの部屋は
少なく、たいていホームステイの形式でルームメイト募集の広告を見て探すらしい。
日本でしがらみのなかで生活するより、海外で他人の目を気にせず自由に
生活することを望む日本人女性はこれからも増えるかもしれない。
でも、なんとなく海外に行って働くというのはやめたほうがよいようだ。
海外での一人暮らしは相当厳しいらしい。自分が他にくらべてすぐれた
何か能力とか個性をもっていないと、競争の厳しい海外では埋没してしまう。
そういう意味で一人で海外で暮らしている女性は尊敬に値する。
以下は現地の日本人会の方のレポート
単身者向け住宅の現状は昔の5Bed roomぐらいの家を各部屋仕切って
それぞれに玄関作ってキッチン、トイレを作ってレンタルしていますが
お家賃が1000ドル以上になりなかなか現地採用の方にはつらい金額になって
います、しかもこれはアパートに限られます
独身の方はサービスアパートに人気が有ります
週3回掃除と、週一回のベッドシーツ取替えが付いています。
安上がりにコンドミニアムに住みたい方は
コンドミニアムの3ベッドを借りて自分はマスターベッドルームに住み
他を600〜800ドル前後で貸せばアパート1人暮らしと同じ負担額で
コンドミニアムに住め、部屋借りしている人も安価にコンドミニアムに
住む事が出来ます。
場所さえこだわらなければ1200ドルぐらいで街から離れた場所の
コンドミニアム(2〜3ベッドルーム)は借りられます
また、プールやジムなどのファシリティーがいらない人には
HDB(公団住宅)の上級クラス(エグゼクティブHDB)がお勧め
中身は安っぽいコンドミニアムよりはるかに立派です(しかも安い)
予算500ドル以下ならHDB部屋借りしかない
800ドル前後 コンドの部屋借り、アパートのマスター部屋借り
1000ドル前後 アパートユニット借り、コンドのマスターベッドルーム借り
1200 場所によりコンドのユニット借り、街中アパート一軒借り(1ベッド)
1500 街に近いコンドユニット借り(2ベッド)
3階建て、一軒屋、庭付き、イーストコースト、家賃5000ドル
コンドミニアム、5ベッドルーム、リビング50畳くらい、玄関とバルコニーに
噴水有り、アドモア、家賃10000ドル
同じコンドミニアムで同じ部屋数でもオーナーの経済的事情により
家賃が500ドルも違う事は良くあります
家賃は場所と部屋数、建物の種類、家具の状況、オーナーの事情でさまざまです。
海外で仕事をするのには、語学が上手でも、それが実際の場面で活用されないと
役には立たない。それはよく言われることだが、海外で勤務する日本人女性からも
そう書かれると驚く。きれいな発音でも、中身のない話でお茶をにごす人は
それまでなのだ。殆ど役に立たないそういう人よりは、書類に何がいいたいか
はっきり書くことのできる人の方が仕事をこなせるのだ。
もちろん上手なことにこしたことはないが、要は意欲であり中身なのだ。
海外で生き抜くには、自分から回りに積極的にはたらきかけないといけない。
そういう意味で海外生活の長い人は、多少横柄な印象を与えるのは、
まず自己主張する習慣になれてしまったからだろう。
それも時と場合で、やはり日本人だから、相手を思いやる謙虚さも必要と思う。
シンガポールで日本人が少しでも働きやすいのは、日本人企業の活動が
背景にあるのだから。日本人社会との付き合いも大切にするなら、そういう配慮も
必要と思う。欧米流の自己主張と東洋の気配り、両方備えたら強い。
東南アジアに移住した中国人は、現地人と結婚する場合がある。
そういう結婚の結果生まれた子どもたちが成長すると、マレーシアでは
男はババ、女はニョニャと呼ばれ、インドネシアではプラナカンと呼ばれる。
このプラナカンの風俗習慣をわざわざ、シンガポール・ヒストリー・ミュージアム
で展示して説明しているから、その存在は無視できないのであろう。
その数はどのくらいなのか、彼らは中国人として生活しているのか、興味がある。
シンガポールのあざやかな発展は、リー・クアンユー(李光耀)によるところが大きい。
成功談を書く本は多いが、独立までの道、独立後のさらに険しい道を解説した本は
少ないようだ。詳しい歴史を調べないと、そんなにふみこんで書けないから
やむをえない気もするが。糸林誉史氏の本は詳しい内容で一読の価値がある。
太平洋戦争の後に、イギリス政府は1945年マラヤ連合構想をうちだした。
シンガポールだけはイギリス直轄植民地としてイギリスの管理下におかれた。
日本の支配時代に民族運動にめざめたマレー人は、マラヤ連合に反対し、
1948年マラヤ連邦が成立した。シンガポールはイギリス支配をのがれる努力を
続け、1957年シンガポールは英国から独立する。そして、1959年の選挙で
35歳のリー・クアンユーはPAPを率いて、シンガポール自治国首相になった。
そのころシンガポールは共産党の影響が強かったので、それを阻止するため
リー・クアンユーはマレーシア連邦との合併を推進した。連邦との合併を問う
住民投票の結果、1963年にシンガポールはマレーシア連邦の一員となった。
しかし、マレー人優先の政策をとるマレーシア政府と、各人種の平等政策をとる
PAPとの対立は深まる。また中国人に経済支配されることを恐れたマレーシア政府は
1965年にシンガポールの連邦離脱を要求し、シンガポールはマレーシアから追放
されるようにして、独立の道を選ばざるをえなかった。当時の世界の人々は、ちっぽけな
国で資源も何もないシンガポールはこれでお終いだと思ったという。
もともと土着の人種マレー人からすれば、マレーシア国家でマレー人を優先することは
あたりまえのことだったのだろう。(マレー人からすると、西から来たイギリス人も
イギリス人の植民地開拓のため、呼び集められた中国人もインド人もよそ者と
思っているかもしれない。中国人もインド人もイギリス人の来るはるか昔から少しずつ
文化を背負って住みついてきた歴史がある)
一方、シンガポールは多数派の中国人をはじめ、マレー人、インド人、その他の
人種から成り立っているから、民族平等というのが国をすすめる前提なのである。
19世紀にイギリスがマラヤを植民地化したとき、マレー人は数百年もこの地に
住んで農業を営んでいた。イギリスはこのマレー人の農業社会はそのままにして、
スズ鉱山やゴム園を開発した。この生産品を世界中に売って利益を上げた。
この新しい事業に必要な労働力を、中国とインドから調達した。そうした中国人や
インド人は、イギリス人の部下や協力者として、イギリス人の仕事を補う地位や
職業を得ていったのだろう。こうして中国人とインド人がマラヤに住むようになり、
マラヤから独立したシンガポールに中国人、マレー人、インド人などが住んでいるわけである。
公団住宅は同じ人種だけ集まらないように、それぞれの民族が共同で住むように
政府が配慮している。
コーヒー・ショップは庶民の社交場である。安いし1日そこですごせる。
しかし、エアコンはなく、壁などの2面が解放されているという。
高級ホテルの中にあるエアコン付きの喫茶店は、コーヒー・ハウスとして区別している。
だんだんコーヒー・ショップの数が減って、それとともに昔のゆとりも無くなって
いったという文章を読む。コーヒー・ショップの店主はパジャマ・ズボンをはいて
いるがみっともないから禁止させたらという新聞投書があったそうだ。
暑いところだから、それなりの理由があって伝統的なその服装になっていただろうに。
シンガポールや東南アジアに住む中国系市民は、自分たちのことを「華人ホアレン」
と呼び、自分たちの使う中国標準語を「華語ホアユー」と呼ぶ。なぜ、中国人、
中国語と呼ばないか。中国人や中国語という言葉に含まれる国という字が国籍や
国語を暗示するのを避けたのだ。日本では彼らを華僑と呼ぶが、華僑は一時的に
海外に住む中国人を意味するので、海外に永住してその国の国籍を持つ中国系市民は
この言葉を嫌うという。「華人」は基本的には中国標準語であるが、長年暮らして
現地言葉の影響を受けているから、北京で使われる標準語とはかなり違ってきている。
マレーシアもシンガポールも共産党で苦労した経験がある。どちらの国でも共産党は
歓迎されない。ここで少しマラヤ共産党の歴史を述べてみよう。
シンガポールで共産党の人気の高かった時代はもはや過去の歴史となった。
1930年に中国共産党の支部としてシンガポールに誕生したマラヤ共産党は
たいした勢力ではなかったが、日中戦争が起こってから強大になっていった。
日本の中国侵略と戦う抗日運動がマラヤの中国系社会にも広がり、共産党はその
指導組織としてイギリス当局の承認も得た。やがてマラヤが日本に支配されると、
共産党はジャングルにたてこもりゲリラ戦を続けた。イギリス軍は撤退しても
共産党は抗日活動を続けた。そのためシンパ的中国系住民は日本軍に虐殺された。
日本軍が負けて、マラヤ共産党の戦士たちは、戦後独立を予定されていたマラヤ
の新政権に参加できると思っていたら、イギリスは共産党を嫌い政権に加えようと
しなかったし、イスラム教徒のマレー人は無神論者の共産党とは相容れなかった。
党員の圧倒的多数が中国人であることも、マレー人に不信感をいだかせた。
何百年もそこで暮らしているマレー人は、移民である中国人に自分たちと同じ権利を
与えたくなかったのだ。まして共産党の政権参加は論外だ。これを知って
日本軍との戦争で血を流したマラヤ共産党は怒った。再び武器を取り、社会主義
マラヤ独立を目標にジャングルで戦いだした。
イギリス当局は戒厳令をしき、共産党を非合法化した。ここにきて抗日戦争のとき
マラヤ共産党を支持した中国系住民は、対応が違った。祖国の国中国を侵略し
自分たちの生活を乱した日本軍と戦うのならわかるが、何の恨みもないイギリスと
どうして戦わねばならないのか。銃を突きつけられれば、しかたなく金や食べ物を
出したが、共産党を積極的に支持するものではなかった。もともと一生懸命稼いで
裕福になることを伝統的に生活のモットーとしてきた中国系住民が、共産主義に
変わるはずがないのだ。中国で地主に搾取され続けてきた農民たちが共産党の味方を
するのとは違う。マレーの華僑の価値観は違ったのだ。この人々の動きを察知した
イギリスは、ジャングル近くに住んでいた中国系住民を別の地に移住させ、ゲリラの
食糧補給を絶つ作戦に出た。ゲリラはマレー語ができないから、マレー人の村に
入りにくい。支持を得られないはらいせにマレー人の村を焼き討ちしたりした。
こうしてマレー人からも反感を買い、しだいに孤立していったゲリラは力を失った。
現代のシンガポールにおいて、共産党の存在はない。しかし、マラヤ共産党が
長い間にわたり治安上の脅威になったという事実は、シンガポールの立場を難しく
しているとようである。それでなくても、中国から移住してきて次第に現地の政治や
経済を支配してきた東南アジアの中国人に対して、他の東南アジアの人々は不信感
もっているのだろうから。
華僑の本を読めば読むほど、もともと自由貿易をしながら個人の蓄財をすることを
生きがいとする華僑は、本質的に共産主義者たちとは相容れないものをもっているから、
華僑もジャングルの共産主義ゲリラの支援はしなかったろうと思われる。
シンガポールは多民族国家のあやうい政治の舵取りに成功してきた。
国民の多数が周辺のマレーシア、インドネシア、インドそして中国という外国に
親戚家族をもっている現実があるから、周辺諸国の意向を無視できないのだ。
逆にいえば全方位外交をしなければならないシンガポールこそが、これからの
国際社会に生きていかねばならない日本の手本といえるのではないだろうか。
リー・クアンユーは今年2000年9月に台湾を訪問した。
実はシンガポールは台湾から軍事指導をあおいできた歴史がある。それを北京は
暗黙に認めているという。
北京にも台湾にも太い人脈をもつリー・クアンユーは両方から行き詰まった中台関係
の改善にあたって期待されているかもしれない。なんといっても中国人どうしだから。
東南アジアは英語帝国主義にとりこまれている。
根津清:住んでみたシンガポール、サイマル出版会(1983)
田中恭子:シンガポールの奇跡、中公新書(1984)
山下清海:東南アジアのチャイナタウン、古今書院(1992)
鈴木康子:シンガポール生活、三修社(1995)
葭原麻衣:シンガポール路地裏百科、トラベルジャーナル(1996)
久保優子:いまどきのシンガポール生活、トラベルジャーナル(1997)
葭原麻衣。篠崎弘:シンガポール、トラベルジャーナル(1999)
糸林誉史:シンガポール、三修社(2000)
スターリング・シーグレーブ:華僑王国、サイマル出版会
岩崎育夫:現代アジアの肖像15 リー・クアンユー、岩波書店
戴國軍*編:もっと知りたい華僑、弘文堂 *火編