ラッフルズ
イギリスの植民地行政官。シンガポールの建設者。父親は
イギリス商船の船長で、中米ジャマイカ沖の船内で生まれた。
東インド会社事務員として、1805年にペナンに派遣されたが、
病気療養のため1808年にマラッカに移った。そこでナポレオン
戦争を口実にオランダから奪ったマラッカを、オランダへ返還
する計画を聞き、カルカッタのインド総督ミントーに報告書を送
ってその中止を進言した。(マラッカは1511年からポルトガル領、
1641年からオランダ領、1824年からイギリス領となる)
ミントーの信頼を得てから、ラッフルズはジャワ進攻を提案した
ので、マラッカを基地としてミントー指揮のもとに1811年8月
に作戦は開始され、バタビア(現ジャカルタ)占領は成功した。
ラッフルズはこのときから1816年3月までジャワ副総督として、
ジャワの制度、文物などを調査した。
1816年にジャワがオランダに返還されたのでいったん帰国し、
18‐23年にはスマトラ西岸のベンクーレン(現ベンクル)の
副総督として勤務しながら貿易の適地を探し求めた。
1819年1月にシンガポール島の支配者(トゥメンゴン・
アブドゥル・ラーマン)から植民地と商館建設の許可を
得て、シンガポール建設に尽力し、1824年に帰国した。
1824年には、イギリスの勢力範囲を確定した注目すべき
2つの条約が締結された。1つは英蘭条約で、東南アジア
一帯を支配していたイギリスとオランダが、マラカ海峡
を境としてマレー半島側をイギリスが、東インド諸島側
をオランダが勢力範囲として認めあうものであった。
もう1つは、シンガポールと周辺の島の支配権を、3万
3200スペインドルの一時金と毎月1300スペインドルの年金
で、スルタンより東インド会社に委譲するものであった。
彼はボロブドゥール遺跡の復元や動植物の新種発見にも貢献した。
大英博物館の標本はその一例である。彼の名前のついた蝶もある。