シンガポールは1965年にマレーシアから独立したから、シンガポール の歴史を考えるには、まずマレー半島の歴史からはじめたほうがよい。 1400年ころから1511年まで、マレー半島南端近くのムラカ(マラッカ) を中心にムカラ王国があった。この王国をマラッカ王国ともいう。 マラッカ王国の国王パラメシュバラは当時マレー半島に勢力を伸ばしつつあった タイのアユタヤ朝に服従し、貢物を納めていた。しかし、1405年から33年まで、 明の永楽帝の時、鄭和(ていわ)の船隊が東南アジアの各地を訪れ、ムラカは国際 貿易港になった。そしてムラカ王国は、タイから独立し、明の朝貢国となった。 ムガト・イスカンダル・シャー(在位およそ1414ー19)は初めてイスラムに改宗した 王であった。当時、イスラムはまだ王族、貴族、外国人の間だけで信仰されていた。 鄭和の船隊が来なくなってから、王国に大きな危機が訪れた。マレー半島中北部 のナコーンシータマラートを根拠地とするタイ軍がムラカを攻撃し、昔のように ムラカを支配しようとしたのであった。国王シュリ・パラメシュバラ・デーバ・シャー (在位およそ1445−56)は、イスラムを精神的団結に利用し、タイに対する戦いを イスラムの聖戦として勝利することができた。これより彼はスルタンと称した。 これから後ムラカはその地理的位置により、インド方面より来航する商船の 最終到達地点となり、東アジア、東南アジア方面から来航する商船との間に 交易が行われるようになった。そしてムラカ市には多数の外国人商人が住み ついた。琉球からも商船がたびたび訪れたという。貿易都市ムラカ全盛時代 東南アジアの諸島部におけるムラカ王国の領土は広がり、その範囲はマレー 半島南部(現在のマレーシアの地域)と、スマトラ島中部の海岸地点であった。 1509年セケイラの率いるポルトガル艦隊がムラカに来た。国王マフムード・ シャーは最初貿易を許可したが、インド人やイスラム商人の強硬な反対に あい、ポルトガル人とセケイラの艦隊に結局攻撃をした。セケイラは逃れ、 今度は1511年ポルトガル艦隊が王宮を攻撃し、ムカラ王国は滅びた。王は ムラカを捨て、やがて半島南端のジョホールに移りジョホール王国を建てた。 その後ジョホール王国はオランダ東インド会社がマラッカを占領するのを助け、 一時は旧ムラカ王国の版図をほぼ支配下に置いたが、王位をめぐる争いなどで いくつかの王国に分裂し、ラッフルズにシンガポール島支配の条約を結んだ 王族がジョホール国王として存続した以外はイギリスの支配となった。 ムラカ王国はジョホール王国として存続したのち現在のマレーシアに至る。 王国の遺産として東南アジア各地のイスラムがあり、王国の言語ムカラ語は 今日のインドネシアのインドネシア語、マレーシアのマレー語となった。 1596年、オランダ人がジャワ島に来る。そして、1605年にはオランダが ポルトガルを駆逐してジャワのバタヴィアに商館を建設した。さらに 1641年にオランダはポルトガルからマラッカを奪って支配をかためた。 そのあと、1795年にイギリス東インド会社がマラッカを占領した。 これはヨーロッパ大陸が主な戦場であったナポレオン戦争であったが、 この戦争に乗じて戦場を東南アジアに拡大して、イギリスはフランス の支配下にあったオランダと戦い、マラッカを占領したのである。 ナポレオン戦争が終わると、東インド会社はマラッカをオランダに 返還したが、ラッフルズはオランダに対抗するために、 マラッカ海峡の出口付近に根拠地を獲得することを主張し、1819年に シンガポールに植民地を獲得した。そして1824年に英蘭協約が締結され、 ペナン、マラッカ、シンガポールが会社の植民地となった。シンガポール は自由港とされ、東南アジアの国際貿易の中心地として繁栄した。 英国はシンガポール島の発展のため、労働力として中国人やインド人を移住 させた。1869年スエズ運河が開通すると、シンガポールの貿易は飛躍的に 発展した。1871年に中国人は全人口の65%を占め、マレー系を追い越した。 1909年までに、イギリスはマレー半島全域を保護国として、 ペナン、マラカ、シンガポールを直轄植民地とした。 1941年、日本は太平洋戦争に突入し、1942年2月に日本軍はシンガポール島 を陥落させた。1945年に日本は敗戦し、再び英国統治下に戻る。 英国植民地だったシンガポールは1959年に自治領となり、1963年に マレーシア連邦の一員として英国から独立することができた。 このときマレーシア連邦が強大になることをおそれたインドネシアのスカルノ大統領は シンガポールの繁華街で爆破行動をおこしたりした。 フィリピンもマレーシア連邦に反対した。 回りの国から反対の声があがる、シンガポールのマレーシア連邦入りは 実は長く続かなかった。 マレー人優遇の中央政府と、中国人の多いシンガポール島はそりがあわず、 1965年シンガポールはマレーシア連邦から追われるようにして独立した。 最初は、経済政策や政治権力のあり方をめぐる、中央政府と州政府の考え方の 違いから紛糾する。それがやがて、マレー人と華人という種族対立になり、 マレー人を優位にする「マレー人のマレーシア」か、 すべての種族を平等に扱う「マレーシア人のマレーシア」かという 国家理念をめぐる対立になってしまった。 シンガポールには農耕地が皆無に近く、独立後は200万人国民が 輸入食品を食べていかなければならない。これまで食料品の大半を 依存していたマレーシアと対立関係になったから大変。 さらに追い打ちをかけて1968年にイギリス駐留軍の撤退が発表された。 国民の雇用の20%がなくなるという経済危機もせまる。 ところが独立後2カ月で突然、シンガポールに厳しい姿勢を見せていた インドネシアのスカルノ大統領は失脚し、対外的に協調路線をとる スハルトが代わった。アメリカのベトナム戦争のかたわら 東南アジアの反共政権によるASEAN(インドネシア、マレーシア、 タイ、フィリピン、シンガポール)が結成された。 世界貿易の増大、他国籍企業の安い労働力を求めて発展途上国への投資 それらはシンガポールの追い風となる。 イスラエルの国防体制を手本と独自の道をさぐりながら、 1971年、五カ国防衛協定(シンガポール、マレーシア、イギリス、 オーストラリア、ニュージーランド)結ぶ。 なんといっても1965年の独立から1990年まで初代首相をつとめたリー・ クアンユー(李光耀)の功績は大きい。多民族国家をまとめながら、小国 シンガポールを、観光、国際会議、物流中継の地として発展させたのだから。