科学者が説く 般若心経の智慧
香港理工大学 潘 宗光学長の本
日本語訳 千島英一訳
欧米に留学した理学博士が、カトリック家庭で育ったのに、
仏教の合理性にひかれて、ついに仏教修行に入り般若心経の解説をする。
般若心経については、私も何人かの著者の本を読んでいます。 この本では、学者だけあって具体的な例をあげて説明しています。 なるほどと思ったことを紹介します。 是故空中無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 同じ人間でも、そのときの状況で、意識の変化ゆえに認識の差異が生じる。 たとえば、ある人からお褒めの言葉をいただいた場合、 心が朗らかなときに聞くと腹の底から喜びが湧くが、 心が苛立ったりしているときには、なにを皮肉っているのだろうなと思ったりする。 同じ人であっても、同じ声から逆の結果を生じることがある。 無苦集滅道 これは仏教の常識ですが ------------- 生老病死の四苦に愛別離苦を加えると八苦となる。 この八苦を解決するために、苦集滅道(くしゅうめつどう)つまり四諦(したい)がある。 苦諦 苦の真実がある。 集諦 苦の原因を考える。 滅諦 その原因をなくする方法を考える。 道諦 その方法を実行する。 ---------------- しかし 般若心経では、苦集滅道はないと説いている。お釈迦様が説法した四諦なのに。 そこで、香港理工大学の学長の本では 四諦は問題解決のすぐれた方法で、それを行えば我々の日常の煩悩も減少するとは書いてある。 しかし、四諦は有機的なプロセスであるから、各自の置かれた状況により、 また各自の智恵により対応が違うはずである。 だから、四諦をひとつの固定的な概念でとらえてはいけないと説明する。 つまり仏教修行をする上で、あるマニュアルがあって、 それに従って修行していけばよいかというと決してそうではない。 固定化されたカリキュラムでは時代の進歩に対応していかないだろう。 著者のいいたいことは 般若心経が四諦にとらわれるなと書いてあることは、 仏法経文の字面や意味に執着せず、さらには一切のもっともらしい言葉や概念に執着せず、 自ら修行し深く体験しなければないないことを指摘していることだという。 そうすることによってはじめて他の人とほんとうの宗教経験を分かち合うことができ、 字句の解釈でもがいたり、教条主義に陥ることがなくなるのだ。 (寂聴さんは、四諦を知る必要はあるがそれにとらわれてはいけないと解釈した)