般若心経入門 蔡志忠

 日本語訳「マンガ般若心経入門」
なかなかわかりやすくて面白い本だ。
日本人が訳して、さらに別の日本人(僧侶)が解説を書いている。
以下、私の印象でまとめてみました。関心のある方は原本をお読みください。

般若心経入門
自我があるから善悪、好悪、美醜といった比較が生じる。
自我があるから、自分と異なる他者、つまり自分の外界という概念も生じる。

人間は自分の感覚器官「眼、耳、鼻、舌、身体、意(心)」を通じて
外界の情報「色(形)、声、香、味、触、法(概念)」をとりこむ。  受(センサー)
この情報は大脳で分析比較される。  想(データ処理)
そして、すでにインプットされている自分の情報と合わせられ、情報分析の結果
意志を生ずる。  行(意志とか印象など)
その結果、認識したり行動することになる。  識(意識作用)

五蘊とは、外界の色+内界の(受・想・行・識)をあわせたもの

どんなときでも、どんな場所でも、自我に執着せず外界と一体なれば
心は安らかになる。

コップいっぱい入った水に塩を加えたとき、塩の形は消えるが、塩は無数の分子となって
拡散し水は塩からくなる。

このように悟りを開いた人間は、自分と外界との区別はなくなり無我の境地となる。
これが空ということである。
ことさら自我を主張しなくなる。自我に執着しなくなる。

この世のあらゆる物事は本来どんな意味もなく、それぞれあるがままに存在している。
それを人間は色眼鏡で見て、良いとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか評価している。
(見る人間のフィルターを通して見ている)

ここに「美女」がいるとしよう。がしかし、そもそも「美女」というのが間違いである。
なぜなら美女の定義は時代によって、国によって、あるいは世代によって違うものなのだから。
男の見る美女と、女の判断する美女とは、そもそも違うらしい。

「色」とは心が作り出したもの。 本来の物事に実体はない。「空」なのだ。

この世のすべての事柄は、それを見る人によってとらえ方が違う。
同じものを見ても聞いても、その感じ方はその人次第。極端にいえば、その時の気分次第だ。

風鈴の音を聞いても、これを「うるさい」と思ってイライラするか、「ああ夏だ」と夏の風情を感じるか。
それはその人の心次第。

釈尊は舎利子に言われた。

「舎利子よ、この世に存在する物質や現象には実体がないのだ。
お前も、お前の心も、お前の心にうかぶ意志も、みなつかのまの現象であり実体がないのだ」

「このようなこの世の存在を空と呼ぼう」
「そしてお前が見聞きする対象物すべてを色と呼ぼう」

「感覚、知覚、判断、意識、観念というお前の精神活動も、すべて空なのだ」
「禍福美醜善悪などは、お前自身の見方に過ぎない」

「自分の狭いものの見方にとらわれず物事を見よ」

「そうすれば、もはや自分などない。時間も空間もない」
「水に入れた砂糖のように、形は消えるが水は甘くなる。水と砂糖の区別はなくなる」

「かたよった見方をしなければ、物事を区別する心も生まれない」

「無明(真理に暗いこと)もないし」
「無明によって生ずる苦悩もない」

「生の意義は自我を捨てて生きることにある」
「そうすれば、老いや死を思い煩うこともなくなる」

「小乗仏教では言う、人生は苦しい。苦の原因を探せ。その原因を除けば苦は滅する。
そのためには修業がある」
「この四段階の真理を、苦・集・滅・道という」

「だが、生は絶対なものではなく、生死はめぐるものなのだということを理解したなら、
生老病死を悩むこともない」
「そうしたら、苦集滅道も、もはや問題ではなくなる」
(これが大乗仏教なのだ)

「このような真理を悟った者を智慧者だと思うか?」

「だが悟りや智慧さえも存在しないものなのだ」
「そのようなものに対する執着すら智慧者にはあってはならないのだ」
「もしあったら、そのようなものはまだ智慧者とは呼べぬからなのだ」

「あるいは、この真理に届けば、得るところ大だと思うかもしれない」
「だが、利己心がないので得るということもないのだ」

「何ものにも執着しない者は、すべてをありのままに受け入れ、
心が安らかなので妄想もなく、自我がないから偏見もない」

「恐怖も欲望も幻想もない。物事をさかさやななめにとらえることもない」

「過去、現在、未来の三世におられる諸仏は、このような智慧の完成により、
最高の悟りを開かれたものである」

「智慧の完成こそが偉大であり大いなる悟りである」

「智慧の完成は執着から生まれたあらゆる妄想や苦しみを除くものである。
これこそが真実であり誰もが実践できることである」

「彼岸に渡ろうとしている人を励まそう」
「往く者よ、彼岸に往く者よ!」
「彼岸に渡れ、彼岸に渡れ!」
「彼岸にいたれば幸多し!」

釈迦は話し上手だったから、あちこちで仏教の考え方を
相手にあわせて臨機応変に説いてまわった。

その結果、聞き手によって仏教のとらえ方がまちまちであった。
もっとも、同じ話を聞いても、聞く者によってとらえ方が違うからしかたのないこと。
そこで釈迦の死後、高弟たちが集まって仏教の教えを一本化した。

しかし、時間がたつにつれ解釈の違いが表面化して、仏教集団は
保守派の「上座部」(小乗仏教)と革新派の「大衆部」(大乗仏教)の二派に分裂した。
それらの分裂はさらに進み、20近くの学派ができた。

その結果、仏教は学問的にはなったが、一般の人から遠くなってしまった。
難しい用語を用いて文献的に整理されていったから。

さて、布教活動において
大乗仏教が一般人をとりこむため、一般人が家族を養い生活を楽しむことを
認めなければならなかった。

そこで、小乗仏教の四諦(苦集滅道)はないと般若心経で言ってのけたのである。
(寂聴さんは、四諦を知る必要はあるがそれにとらわれてはいけないと解釈した)

欲望にとらわれてはいけない。欲望の奴隷になってはいけない。
しかし、人間が欲を捨てさることはできない。
むしろ、とらわれない程度の欲望をもって生活するのは我々に平安をもたらすのだ。

キリスト教が、市民階級が商売に励んだり日常の家族生活を大切にすることを
認めたように、信者獲得のためには、僧侶と在家信者の存在をそれぞれ
認めたのであろう。

その民族がすべて聖職者になれば、農業も手工業も商業もする者がなくなり、
生産活動はストップしてしまう。
みな僧侶のように独身をつらぬけば民族は滅んでしまう。

ゆえに、釈迦の教義の精神を守りつつ、民族の活力維持も考慮して、般若心経が
生まれたのであろう。

オリンピックもノーベル賞も、みな努力して目標に達成する喜びがあるから
あり続ける。
人間のそういう努力はよい面もある。

インターネットの人間の願いや欲望や探求心にささえられできた。

たとえば名誉欲、向上心、自己実現、これらを否定することはできない。
それにとらわれなければ、人間の積極性を受け入れながら生きるのがよい。そう解釈して
大乗仏教は般若心経を作った。そう思いたい。

参考文献 蔡志忠作画、マンガ般若心経入門、講談社

ひろさちや現代語訳「般若心経」

寂聴「般若心経」

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