ここでは、キリスト教とイスラム教のことを勉強します。
この2つの宗教の特徴を知ると、日本人とか日本人の宗教観を自覚することが
できると思います。この記事の参考文献「キリスト教とイスラム教」(新潮選書)
の著者ひろさちや氏もそういうことをあとがきで書いています。
宗教を宣伝したり、逆に誹謗するものではありません。
戒律 紀元前1280年のころ、イスラエル民族はモーゼに率いられてエジプトを脱出した。 そして、シナイ山において、モーゼを仲介者にして神と契約を結んだ。 それ以前のイスラエル民族は、ヘブライ人と呼ばれ、部族の集合体にすぎず、 民族としての自覚はもっていなかった。(エジプトでは、奴隷の状態だった) 神と契約を結ぶことによって、彼らは奴隷の境地から脱出でき、 民族としての衿持(きょうじ)をもてたのである。 この契約に際して、神はモーゼに、イスラエル民族が守るべき「十誠」を授けられた。 それが「モーゼの十誠」と呼ばれるもので、『旧約聖書』の「出エジプト記」(20)と 「申命記」(5)にほぼ同じ形で出てくる。 I あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 2 あなたはいかなる像も造ってはならない。 3 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 4 安息日を守つてこれを聖別せよ。 5 あなたの父母を敬え。 6 殺してはならない。 7 姦淫してはならない。 8 盗んではならない。 9 隣人に関して偽証してはならない。 10 あなたの隣人の妻を欲してはならない。 この「十誠」は、ユダヤ教・キリスト教において、宗教と倫理の基礎をなすものである。 ユダヤ教やキリスト教は、この「十誠」の基礎の上にたてられた宗教である。 ところで、戒律ということから言えば、「モーゼの十誠」はじつは序の口である。 『旧約聖書』の、たとえば「レビ記」などを読めばわかるが、さまざまなことが 命じられている。 食べていい動物と食べてはいけない動物のリストを示したり、出産のときの行動、 皮膚病に対する処置、セックスのタブー等々、非常に多くの戒律が書いてある。 しかし、キリスト教は、ユダヤ教のそのような細々とした戒律は全部廃止してしまった。 廃止したというよりは、それを超越してしまったというべきだろう。 イエスは、 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。 廃止するためではなく、完成するためである」(「マタイによる福音書」5) と言っている。 そしてイエスは、ユダヤ教の律法を超えたものとして、「愛」を強調した。 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。 『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの徒に基づいている」 (同上、22) すなわち、イエスは、「神に対する愛」と「隣人に対する愛」でもって、 ユダヤ教の律法主義(戒律主義)を超越しようとしたのである。 その意味で、キリスト教は「愛の宗教」であり、ユダヤ教は「律法(戒律)の宗教」 なのである。 イスラム教の『コーラン』を読むとわかるが、ここでも生活全般にわたる細かな命令が 神から下されている。たとえば、「信ずる人々よ、おまえたちが礼拝にたつときには、 顔を洗い、肘(ひじ)まで手を洗い、頭を拭(ぬぐ)い、くるぶしのところまで足を洗え。…… もしおまえたちが病気であるとか旅に出ているとき、あるいはだれでも厠(かわや)から 出てきたとき、また女とまじわったときには、水を見つけることができなかったなら、 清い砂を使って顔と手をこすれ」(5章6節) 「信ずる人々よ、おまえたちのうちだれでも、死に臨んで遺言したいときには、 おまえたちのうちから2名の公正な人を証人とせよ。あるいは、もしおまえたちが 旅の途中で死の不幸に見まわれたならば、おまえたち以外〔=異教徒〕の2名の者 でもよい」(5章106節) まさに、『コーラン』全体が、わたしたちの日常生活の、あるいは非日常生活の、 マニュアル・ブック(手引き書)だと言ってよい。 イスラム教そのものが「戒律宗教」なのである。イスラム教は、キリスト教を飛び越して、 ユダヤ教へ先祖返り(帰先遺伝)をしたといってもいいくらいである。
偶像崇拝 アラブの国々を訪れるときには、人形をお土産に持って行ってはいけない。 人形は偶像であり、イスラム教では偶像崇拝を禁じているから。 偶像崇拝の問題であるが、いったい「偶像」とは何か……? ”偶像”という漢字は、もともと「人形」を意味する。(土偶) ”偶像崇拝”というときの”偶像”は、宗教的崇拝の対象となる像 − 神像や仏像 − を意味する。 偶像崇拝を厳しく禁じたのは、ユダヤ教である。『旧約聖書』には、神がモーゼに 次のように語っている。 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、 奴隷の家から導き出した神である。 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、 また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」 (「出エジプト記」20) これは、いわゆる「モーゼの十誡」と呼ばれるものの最初の部分である。 ところでこれを読めば、「偶像」に関して広狭二つの解釈が可能である。 まず1つは、「いかなる像」を強調して、その宗教が認めている神の像までを含めて 「偶像」とする解釈――。 第2は、「それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」 ものの像のみを「偶像』とする解釈――。 前者はユダヤ教やイスラム教の解釈で、後者がキリスト教の解釈である。 つまり、ユダヤ教やイスラム教は「偶像」を広い意味に解し、 キリスト教では狭い意味に解釈している。 キリスト教ではキリスト像やマリア像、十字架などが崇拝の対象とされている。 ユダヤ教やイスラム教の立場からすれば、これらは、「偶像」に当たる。 しかし、キリスト教の解釈によると、キリスト教徒が崇拝してはならない 異教の神の像(仏像を含む)のみが「偶像」なので、キリスト教やマリア像は 「偶像」ではない。 もっとも、キリスト教も最初からこのような立場をとったわけではない。 初期のころはユダヤ教の伝統に忠実で、偶像崇拝を低級で原始的な信仰として 排除していた。 しかし、ヨーロッパには、もともと偶像崇拝の傾向が強く存在した。 キリスト教は布教に当たって、その土壌と妥協するかたちで偶像崇拝を受け容れ ざるを得なかったのである。 一方、マホメットは土着の多神教の偶像崇拝と対立・拮抗するかたちで、 一神教のアッラーの宗教を説いた。したがって、イスラム教では最初から 偶像崇拝は厳しく否定され、いっさいの偶像を排除している。 イスラム教にとっての崇拝の対象であるアッラーの像も、これを造ることは許されない。 イスラム教のモスク(礼拝所)には神像はなく、ただメッカの方向にあたる部分に 壁龕(へきがん ミヒラーブ)が設けられているだけである。 このように、イスラム教では偶像崇拝は厳格に否定されている。マホメットの像や マホメットの母の像を造ることはない。ましてやそれらに祈りを捧げたりすることも、 絶対にありえない。 イスラム教からすれば、キリスト像やマリア像に礼拝するキリスト教徒の態度は、 「堕落」以外のなにものでもない。
断食 イスラム教徒は、イスラム暦第9月(ラマダーン月)に、30日間の断食をする義務 がある。もっとも、30日間の断食といっても、その間、何も飲まず食わず というのではない(そんなことをすれば、死んでしまう)。 日の出から日没までのあいだの断食であって、夜は飲食が許されている。 日の出から日没まで、いっさいの飲食がダメで、水を飲むこともできない。 それが1ヵ月もつづく。しかもイスラム暦は1年が354日なので、太陽暦とは ずれが生じる。ラマダーン月が夏の酷暑の季節にぶつかることがある。 そんななかで水一滴も飲めない30日間がどれほどの苦しみか、 想像に余りあるものがある。 ただし、病人や旅行者は、ラマダーン月の断食をやめて、他の月に同じ日数だけの 断食をしてもよいし、あるいは貧者に食物を施すことで償いができる。 断食の目的は、やはり人間の最大の欲望である食欲に打ち克つ、ということであろう。 また、食なき者への想いを新たにするということも目的のーつとされている。 その他、30日間の断食の苦しみに耐えることによって、イスラム教徒としての自覚も 高まり、信者同士の連帯意識の高揚にもなるなどの効用もあるだろう。 しかし、皮肉なことにイスラムの国々では、断食月が年間で最も食糧消費の多い月 になっている。太陽が西に沈むと、人々は空腹に耐えかねて腹いっぱい詰め込むから である。人々はイライラしており、夜のご馳走の材料が不足したりすれば 怒りが爆発して暴動も起こりかねない。 イスラム教諸国の政府は断食月に向けての食糧確保が、最も重要な仕事のーつとされて いる。 イスラム教と同じく、ユダヤ教でも断食は行なわれていた。 というより、イスラム教の断食は、ユダヤ教の断食に倣(なら)ったものである。 ユダヤ教では断食は、蹟罪(しょくざい)、懺悔(ざんげ)の行為として意味づけられている。 これに対して、キリスト教では、イエス・キリスト自身は、荒野において40日に わたる断食をしたが、一般信者には義務づけられてはいない。 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。 偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。 (中略)あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられる あなたの父に見ていただくためである」(「マタイによる福音書」6) これで見ると、断食はしたほうがいいが、ぜひともせねばならぬものでも なさそうである。それで、キリスト教徒はあまり断食をしないようになったのだと 思われる。
キリスト教の象徴は十字架。イスラム教のそれは? 十字架はキリスト教の象徴であり、また礼拝の対象である。 イエス・キリストは、十字架で処刑になった。当時のローマでは、奴隷や凶悪犯の処刑に 十字架を使った。ユダヤ地方を治めていたローマ総督のピラトは、イエスを二人の 強盗犯人とともに十字架にかけたのである。 キリスト教では、「神の子」であるイエス・キリストは、全人類の罪を贖(あがな)って 十字架についたと考えられている。そこで、十字架がキリスト教の象徴とされ、 十字架を崇拝の対象とするようになったのである。 一方、イスラム教には、十字架に相当するものはない。しいて言えば、三日月と星が イスラム教の象徴になるであろう。この三日月と星を国旗に使っている国は、 トルコ、アルジェリア、パキスタン、マレーシア、モーリタニア、コモロなどがある。 この他にも、アゼルバイジャン、トルクメニスタンなどもある。 三日月にしたのはどういうわけか。おそらく、砂漠においては、太陽は人間の敵で、 月が人間の仲間とされているからであろう。日本人は太陽を崇拝するが、砂漠の住民 は太陽を忌まわしいものと思っている。そして、月に親しみを感じる。 だから、日本人は国旗に太陽を採用し、イスラム教徒は月を選んだのであろう。 三日月にしたのは、満月では太陽と区別しにくいからではないかと思われる。 キリスト教の十字架といえば、わたしたち日本人が思い浮かべるのは、ラテン十字架 だと思う。このラテン十字架は、ローマ・カトリック教会でよく使われるが、 最も典型的な十字架といえばギリシア十字架である。 東方正教会はこのギリシア十字架を使っている。 (ギリシア十字架は、柱の真ん中の高さのところで横棒と交わっている) (ラテン十字架は、柱の上の方で横棒と交わっている) このギリシア十字架を赤くすると、赤十字の記章になる。赤十字のマークは、 赤十字の創設に貢献したスイスに敬意を表するため、スイスの国旗の赤地に 白十字の配色を逆にしたと言われている。 キリスト教の思想に関係があるわけではない。 しかし、いくら赤十字の記章には宗教的意味がないと言われても、 イスラム教徒にすれば納得できない。十字軍を思い出さないわけにはいかないから であろうか。 あの十字軍は、西欧諸国のキリスト教徒がイスラム教徒を討伐するために、 11世紀末から13世紀末にかけ、実に8回にもわたって起こした遠征軍である。 このとき、キリスト教徒の従軍者たちは、衣服に赤い十字のマークをつけていた。 イスラム教徒にすれば、赤十字は忌まわしいマークなのであろう。 したがって、イスラム教諸国は赤十字の記章の使用を拒否し、その代りに 赤い三日月を図案化した「赤新月」マークを使用している。この赤新月のマークは 赤十字に関する国際条約でも認められている。 また「赤十字社」という呼称も、イスラム教諸国では「赤新月社」という。 独立国家共同(CIS)(1991年以前はソ連)では国内にイスラム共和国が あるので、「赤十字赤新月社同盟」と名乗っている。 イスラム教が赤十字に反対すれば、われわれだって……と言いたくなるのが ユダヤ教であろう。ユダヤ教国であるイスラエルは、赤十字の代りに「ダビデの赤盾」 を使用させよと主張している。しかし、この主張は今のところ公認されていない。 数の多いイスラム教国に比して、ユダヤ教の国は、イスラエル国だけだからであろう。
キリスト教の象徴的人物はローマ法王。イスラム教を代表する人物は誰? ローマ法王はローマ・カトリック教会の首長であって、単に”法王”あるいは”教皇” とも呼ばれている。ローマ法王には多くの称号があるが、そのうち、「ローマ司教」 「イエス・キリストの代理者」「使徒の頭の後継者」「全カトリック教会の首長」 の4つが、ローマ法王がどういう存在であるかをよくあらわしている。 イエス・キリストは生前、弟子のペトロ(ペテロ)に、 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建て、あなたに天の国の鍵を授ける」 と宣言した。 また、同じくペトロに、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」 「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました(「ョハネによる福音書」21)。 すなわち、イエスはペトロに、「キリストの代理者」としての資格と、 自分が世を去ったのちに教会を指導する権限を与えられたのである。 この権限は、代々のローマ司教に受け継がれていると考えられ、ローマ司教を ローマ法王と呼び、全カトリック教会の首長として尊敬するゆえんでもある。 ローマ法王は、地球上で最も小さい独立国(面積は0.44平方キロ、人口は1985年 現在で757人)であるヴァチカン市国の元首である。 法王はいずれの国家にも属さない立場をとるために、独立国の元首になっている。 イスラム教で、キリスト教のローマ法王に相当するのは、「カリフ」であろう。 もっとも、現在はカリフはいないのであるが……。 カリフは、アラビア語の”ハリーファ”の英語誂りである。”ハリーファ”は 「後継者」「代理人」を意味する。マホメットの死後、イスラム社会の指導者としての マホメットの地位を継承したのがカリフである。 何となく、キリスト死後のペトロに似ていなくもない。 しかし、マホメットは、預言者でかつ使徒であった。カリフは政治的指導者としての マホメットの地位は引き継いだが、預言者の資格は引き継いでいない。 (マホメットは最後の予言者であるから) したがって、カリフには宗教的権威はない。その点では、宗教的権威者であるローマ法王 と根本的にちがう。 しかも、「カリフ」といった称号は、実際にはほとんど使われず、歴代カリフは 「信徒の指導者」(アミール・アルムーミニーン)と称していた。 単なる指揮者というわけである。 そればかりか、じつをいえばマホメットは、自分の「後継者」については 何の指示もせずに亡くなったといわれている(ただし、シーア派はこれを否定)。 そこで、イスラム教団は一時、分裂の危機に瀕し、アブー・バクルを初代カリフに 立てて、その危機を乗り越えた。 その後のカリフのありようも、じつに有為転変としていた。初代カリフから第4代の カリフまでは、神に正しく導かれたカリフの時代ということで、正統カリフの時代 (632〜661)とされている。 このあと、ウマイヤ家がカリフ位を独占するウマイヤ朝(661〜750)、 ついでアッバース家がカリフ位を独占するアッバース朝(750〜1258)と つづくる。 その間10世紀から11世紀にかけて、ファーティマ朝の君主と後ウマイヤ朝の君主 がカリフを称し、イスラム世界に3人のカリフが並立したりして、「カリフ」の権威も 失墜した。 アッバース朝のカリフは、1258年のモンゴルの侵入によって廃絶させられた。 しかしその後、1260年にモンゴル軍を撃退してマムルーク朝のスルタン(君主) となったバイバルスー世は、アッバース朝カリフの後裔を招いてカリフ位に 就かせる。 だが、この場合のカリフは、宮廷のたんなる食客でしかなかったようである。 16世紀になると、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国のスルタンが、 カリフ位の譲渡を受けたと称して、みずからカリフを標榜した。スルタンがカリフに なるので、これを「スルタン・カリフ制」という。 そして、19世紀末から第一次世界大戦の時代に、オスマン帝国のスルタン・カリフ によって全イスラム勢力の結集が試みられるが、これは成功しなかった。 それどころか、トルコ革命(ケマル・アタチュルクの革命)によって、オスマン帝国の スルタン制は1922年に廃止になり、つづいてカリフ制も1924年に廃止された。 その直後に、アラブ世界を中心にカリフ制再興の動きはあったのであるが、 結局それも失敗に終わった。 現在、全イスラム共同体の政治的・精神的統一は、行われていない。
教会とモスク わたしたちは一般に、キリスト教の礼拝が行なわれる建物のことを「教会」と 読んでいるが、本当は正しくない。 「教会」はギリシア語で”エクレーシア”(ekk=lesia)といい、 この語は「呼ぶ」「召集する」といった動詞”エカレオー”(ekkaleo)からつくられた 名詞である。 したがって、「教会」とは、 ――神とキリストによって、1つの目的のために召し集められた信仰共同体 と定義する人もいる。つまり、信仰の集団全体をいうのであって、 決して建物だけを指すことばではない。 その意味からすれば、キリスト教の「教会」(エクレーシア)に対比されるのは、 イスラム教では「ウンマ」である。 「ウンマ」には、時に「民族」といった訳語が与えられるが、「ウンマ」は必ずしも 民族ではない。イスラム教では人類救済の歴史のなかで、神はしばしば使徒を遣わして 人間に呼びかけてこられたと教えている。 しかし、1人の使徒が全人類に呼びかけるわけには行かない。それぞれの使徒が 呼びかけることのできるのは、ごく限られた集団である。 この単位集団のことを「ウンマ」という。 イスラムの教徒たちは自分たちのことを「マホメットのウンマ」と自覚している。 そして、ユダヤ教徒のことは「モーゼのウンマ」、キリスト教徒は「イエス・ キリストのウンマ」と考えている。 キリスト教徒が「教会」と呼んでいるのは、イスラム教徒がいう 「イエス・キリストのウンマ」なのである。 しかし、ここでは一般に考えられている、礼拝が行なわれる建造物のことを「教会」 としよう。 本来は、「教会堂」もしくは「会堂」「聖堂」と呼ばれるべきものであるが……。 迫害時代のローマのキリスト教徒は、正式な会堂を持っていなかったはずだ。 彼らは個人の住宅やカタコンベ(地下墓室)で礼拝を行なっていた。 キリスト教が公認された(313)以後になって、正規の会堂がつくられた。 初期の会堂の建築様式は「バシリカ式」と呼ばれる。 この様式は、当時のローマの宮殿や裁判所、取引所などの公共建築物に用いられていた ものである。それを採り入れて、キリスト教徒は「バシリカ式聖堂」を建てたのである。 バシリカ式聖堂の特色は、建物全体が長方形である。奥の突き当たりに半円形に張り 出した祭室(アプス)があって、その中央に祭壇、背後に司教座(カテドラ)が 設けられている。 建物の本体は、中央の身廊(ネイブ)と左右の側廊(アイル)に分けられ、 側廊は通路として用いられ、身廊において礼拝がなされる。 建物は東西に長く建てられ、両正面に入口をとり、東端を至聖所にしている。 この「バシリカ式聖堂」と対照的なのが、「集中式聖堂」である。 バシリカ式聖堂では、信者が一つの方向を向いて礼拝するのに対して、 集中式聖堂では信者は中央を向くことになる。 西方教会はおおむねバシリカ式であるのに対し、こちらは東方教会において 好まれる建築様式である。 イスラム教徒の礼拝所を「モスク」という。この語は、アラビア語の”マスジッド” (masjid)が、スペイン語”メスキータ”(mezquita)、フランス語”モスケ” (mosquee)を経て英語(mosque)になったものである。 アラビア語の”マスジッド”は、「ぬかずくところ」といった意味である。 モスクの内部には、キリスト教教会に見られるような聖像・聖画・祭壇などは いっさいない。ここはただ礼拝をするところで、イスラム教徒はメッカの方向を 向いて礼拝をするので、その方向を示す壁龕(へきがん ミヒラーブ)だけが設けられている。 このミヒラーブの横(通常は右側)には説教壇(ミンバル)があり、 10段ほどの階段がついています。階段を上ったところに玉座があるが、 この玉座はマホメットのためのもので、誰も使わない。 説教をするイマーム(導師)は、2段目の階段に坐る。 モスクの中庭には、水盤や水槽などがあります。イスラム教徒は祈りの前に、 身を清めなければならない。また、モスクにはミナレット(光塔)がある。 礼拝の時刻になると、このミナレットの上からアザーン(呼掛け)がなされる。 アザーンはアラビア語でなされるが、訳せば次のようになる。 「アッラーは偉大なり」(4回) 「わたしはアッラーのほかに神なしと証言する」(2回) 「わたしはマホメットがアッラーの使徒なりと証言する」(2回) 「いざや礼拝に来たれ」(2回) 「いざや成功のために来たれ」(2回) 「アッラーは偉大なり」(2回) 「アッラーのほかに神なし」(1回) なお、モスクは、平均2百家庭ごとに1つの割で建てられている。 キリスト教の教会堂とイスラム教のモスクのあいだには、機能の上で それほど差はない。いずれも、本質的には礼拝の場所である。
キリスト教やイスラム教の聖職者 「神父」というのは、ローマ・カトリック教会や東方正教会などで、 信者が聖職者を尊敬して呼ぶ語である。原語は「父」の意味で、初代教会のとき以来、 この語が教会内の指導者に対して用いられてきた。 現在では、とくに司祭の地位にある人に用いられ、司祭に叙階されていない修道士や 修道女に対しては、「ブラザー」(兄弟)、「シスター」(姉妹)の尊称が用いられ、 女子修道会の上長には「マザー」(母)の尊称が使われています。 司祭は男性に限られる。ミサを執行し、信徒に洗礼、告解、終油の秘蹟を授け、 福音の宣教を行なうといった権能と責務をもっている。ローマ・カトリック教会では、 司祭の結婚は認められていない。 そして、このような司祭の上位に立ち、教区管理の最高聖職者であるのが司教 (東方正教会では「主教」)である。司教はキリストが福音の宣教のために 諸国に遣わした12大の使徒の後継者とされ、その使命を今日に受け継いでいる。 なかでも、12使徒の首領であったペテロの後継者がローマ法王(教皇)である。 プロテスタント教会は使徒職の解釈を異にしていて、司教職制度をとらない。 プロテスタント教会では、聖職者を「牧師」と呼ぶ。牧師の任務は、それぞれの教会の 統轄と伝道である。 按手礼(あんしゅれい)(頭の上に手を置いてその人物を聖別し、聖職に任命する儀式) によって任命され、いちおう一般信徒と区別されが、基本的には一般信徒と変りはなく、 牧師はたんなる指導者にすぎない。 イスラム教には、神と信者との中間に立ち、神のことばの解釈者であり、 神の意志の伝達者であるような聖職者は本来存在しない。 しかし、他の宗教において聖職者がもっている機能のあるものは、 イスラム教においては「ウラマー」と呼ばれる人々が果たしている。 ウラマーは、「(宗教的)知識をもった人々」の意味で、要するに「学者」である。 ただし、学者といっても、数学などの学問の学者ではなく、『コーラン』やイスラム教の 聖法(シャリーア)の解釈を仕事とする特殊な学者である。 「神学者」といってもよいかもしれない。 このウラマーが果たす役割は、 I 宗教的諸施設の維持管理 2 礼拝などの宗教儀式の指導 3 信徒の指導。イスラム教の教理に関する信徒の疑問に答えること 4 信徒の教育 5 異瑞の教えや他宗教の攻撃からイスラム教を護ること 6 イスラム法(シャリーア)の解釈と適用 などである。 後世、ウラマーの権威が確立すると、ウラマーたちが「神の教え」の解釈権を独占し、 道徳の番人となる。かくて、起源的には決して聖職者でなかったウラマーたちが、 実質上の聖職者になったわけである。 イスラム社会においては、このようなウラマーの集団の同意と協力なくしては、 政治的支配者もなかなか政治ができない。その意味では、ウラマー層がイスラム社会の 政治を牛耳っていたといえる。 もっとも、イスラム社会の近代化が進むにつれて、国家機関が世俗化すると、 ウラマーたちの仕事が奪われて行く。 たとえば、教育が国家の管理下に置かれると、教師としてのウラマーの仕事がなくなり、 ヨーロッパの法律制度が採用されると、それにふさわしい官僚階級が養成されて、 ウラマーは官職を失った。 けれども、ウラマーの社会的影響力が低下しても、本来ウラマーがもっていた 精神的指導性が低下したわけではない。何かの機会に、イスラムの伝統・価値が 復活すると、ウラマーの権威が高まるのである。 そのいい例が、現代史に登場したイランのホメイニ師である。 ホメイ二師はウラマーであり、「ウラマーの統治」のスローガンを掲げて 政治権力を握ったわけである。 そして、イスラム法の実現を目差して政治制度を再構築している。 このイランと反対の行き方をしているのが、リビアである。 リビアでは、イスラム教は本来、神と個人の信徒との直接関係であって、 ウラマーのような仲介者は不要だとして、直接民主主義に向けての体制づくりが 行なわれている。 このリビアの行き方が、イスラム教の近代化の趨勢だといえるだろう。
イランのホメイニ師に相当するキリスト教の人物 ホメイニ師は「宗教法学者」である。 イランの宗教は、イスラム教のシーア派に属する12イマーム派である。 12イマーム派ではイマームと呼ばれる預言者=マホメットの後継者が、宗教的・ 政治的にイスラム教徒を指導する。 ところが、9世紀に第12代のイマームは「隠れ」の状態に入り、 地上にはイマームがいなくなった。 イマームは終末に「時の主」(救世主)として再臨されるが、それまでのあいだ 法学者が隠れイマームの意志を解釈して、信徒を宗教的・政治的に指導する。 つまり、隠れイマームが再臨するまで、国家の指導権は「尊敬さるべきイスラム法学者」 にあるとするのが、イランの国教である12イマーム派の考え方である。 この考え方にもとづいて、1979年2月のイラン革命によりイスラム共和国となった イランは、新憲法の第5条に、 「救世主(隠れイマームの再臨)が現われるまでのあいだ、正しく、信心あり、 物事をわきまえ、勇気あり、進取の気性に富み、大勢の人々から指導者として 尊敬される宗教法学者に国家と社会の指導を任せるものとす」 と宣言している。 そして、新憲法のこの条項にもとづいて、ホメイニ師はイラン・イスラム共和国の 最高指導者であるのである。 ホメイ二師は、1900年、イラン中部のアラーク市近郊のホメイニ村で生まれ、 コムにある12イマーム派の学院で学び、アーヤトッラー(最高級宗教法学者)に なった。1963年には、パフラビー国王の弾圧政治に反対して追放になり、 1979年のイラン革命の勝利とともにフランスより帰国し、イラン革命の象徴的 人物としてイランの最高指導者となった。 イスラム教は、たしかに本質的には政教一致の宗教だと思われる。 しかし、今日ではイスラム諸国の政治形態はまちまちである。 スルタン制の国もあり、王制の国もあり、共和制の国もある。 共和制の国でも、トルコのように、国家やその公的領域からイスラム教が 分離されている国もあれば、パキスタンやリビアのように、 イスラム教的理想の実現を国家目的にしている国もある。 今日では、イスラム教を政教一致の宗教とは、そう簡単に言えないのではないだろうか……。 キリスト教の教会と国家との関係は、基本的には、次のように言える。 東方正教会……皇帝が教会を支配する。 ローマ・カトリック教会……国家の権力から教会の独立を守る。 中世のローマ・カトリック教会では、ローマ法王が地上の諸皇帝を支配した。 「皇帝は教会の中にあって、教会の上にあるのではない」とは、4世紀のキリスト教の 教父アンブロシウスのことばであるが、このことばが教会と国家との関係を よく表現している。 しかし、近代になると、教会と国家は分離され、政教分離が原則になっている。 では、キリスト教にホメイニ師のような人物がいるかどうか ー これはちょっとやっかいな質問になる。 なぜなら、ホメイニ師は、「隠れイマームの再臨」までのあいだ、正統な指導権をもった 人物である。 キリスト教には、キリストが再臨する − キリストは最後の審判のために地上に 再臨することになっている − までのあいだ、正統な指導者はいるだろうか……? いるとしたら、ローマ法王がその人である。キリストは弟子のペトロに、 自分が世を去ったのちの教会の指導権を委ねられた。そしてその権限は、 ペトロから代々のローマ法王に受け継がれているから。 だとすれば、ホメイ二師にあたるのは、キリスト教ではローマ法王だということになる。 でも、ホメイニ師とローマ法王では、だいぶ印象がちがう。 キリスト教には、ホメイニ師のような人物は「いない」と言ったほうがよいだろう。
信者の義務 イスラム法においては、『コーラン』やマホメットのことばをさまざまに解釈して、 人間の行為に関する5段階範疇をつくりあげた。これは、われわれ人間の行為を 神の目から見ればどのように映るだろうか……といった視点で分類したものである。 l 義務とされる行為……『コーラン』ではっきりと命じられている行為であって、 強制を伴う。これを怠れば処罰される。礼拝などがそうである。 2 義務ではないが、実行したほうが望ましい行為……割礼などがこれにあたる。 3 行なってもよく、行なわなくともよい行為……義務づけられてもいないし、 禁止されてもいない行為。たとえば、喫煙がそうである。マホメットの時代には タバコがなかったので、『コーラン』に規定がない。 4 禁止されてはいないが、望ましくない行為……歌舞音曲などがこれにあたる。 5 明白に禁止された行為……『コーラン』に禁じられている行為であって、これを すれば刑罰が科せられる。刑罰は、神による罰と人による刑罰がある。 前者の神による罰は、たとえば不信仰がそれで、来世は地獄に堕とされる。 後者の人による刑罰は、殺人・傷害・姦通・中傷・飲酒・窃盗・豚肉や死肉を食べる こと・利子をとることなどである。 また、マホメットの言行録である「ハディース」において、マホメットは、 イスラム教徒間の6つの義務を言っている。 I 挨拶すること。 2 招待に応ずること。 3 求められた時、助言すること。 4 相手がくしゃみをしたら、その人のために神に救いを求めてやること。 5 相手が病気になれば、見舞ってやること。 6 死んだら葬式に参列してやること。 このうち、4は説明が必要である。くしゃみをすれば、魂が身体の外に飛び出る おそれがあるから、横にいた者がおまじないの文句を唱えねばならない…… といった風習は、世界のあちこちにある。 日本でも、傍にいる者が、「休息万病」(くそくまんみょう)のおまじないの文句を 唱えることになっていたことが、『徒然草』(第47段)に出てくる。 インド人は、「ジーヴァ」(生きよ!)と唱えることになっている。 アラブ人の場合は、「神よ、彼を救いたまえ!」と唱えることになっていたのである。 マホメットは、このおまじないの文句を唱えることを義務づけたのであった。 イエス・キリストは、いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれる弟子たちへの説教のなかで、 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。 これこそ律法と預言者である」(「マタイによる福音書」7) と教えている。 これはキリスト教において、「金の道徳律」と呼ばれているものである。 わたしたちはこのことばから、『論語』にある、 「己れの欲せざる所、人に施すこと勿れ」 という孔子のことばを連想する。 キリスト教のほうから言わせれば、こちらのほうは「銀の道徳律」になるそうである。 言っている内容はよく似ているが(あるいは、まるで違っているとも考えられるが)、 ここらあたりのところに、西洋と東洋の差がありそうである。 キリスト教では、 ― おのれの欲するところを、人に施せ! ― おのれの欲せざるところを、人に施すなかれ! と教えているのである。 これが、キリスト教徒としての他人に対する責務ということになる。 また、キリスト教徒としての信仰生活における義務としては、 I 礼拝に出席する。 2 聖書を読む。 3 祈りをする。 4 隣人への愛を実践する。 といったことがある。 最後の4を格言の形にすると、「金の道徳律」「銀の道徳律」になるわけである。
「アーメン」と「アーミン」 イエス・キリストは、キリスト教徒が祈るときには、異邦人のようにくどくどと 祈ってはならないと教えた。そして、このように祈りなさい……と、一つの手本を 示した。それが、「主の祈り」と呼ばれているもので、次のようになっている。 「天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。 み国を来(きた)らせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。 我らの日用の糧(かて)を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、 我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。 国とちからと栄えとは限りなく、なんじのものなればなり。アーメン」 この「主の祈り」は、『新約聖書』の「マタイによる福音書」(6)にある。 しかし、最後の「国とちからと栄えとは限りなく、なんじのものなればなり」は、 『新約聖書』にはない。 これは、『旧約聖書』の「歴代誌上」(29)に出てくる「ダビデの祈り」が 起源になったものである。 そしてこれは、祈りではなく頌栄(しょうえい)(神の栄光をたたえる)の句である。 「主の祈り」の最後にこの頌栄が付加されたのは、2世紀のシリア地方の教会に おいてであったといわれている。会衆が「主の祈り」を唱えたあと、 司祭が声高く頌栄を唱え、そして最後に全員が「アーメン」を唱える。 「アーメン」とは、「まことに」「たしかに」といった意味である。 これがキリスト教徒の祈りなのである。 イスラム教徒の祈りは、礼拝のあとで行なわれる。礼拝の最後に、 「アッサラーム・アレイクム・ワ・ラハマットッ・ラーヒ」 (神の平安と恩寵(おんちょう)があなたたちにあるように) といった句を2度唱える。 これは、全世界のイスラム教徒との連帯を祈願したことばである。 そしてそのあとで、各人の個人的祈願がなされる。もちろん、各人が好きなことを 願っていいのである。 その個人的祈願が終われば、最後に、「アーミン」と唱える。 言うまでもなく、この「アーミン」は、キリスト教の「アーメン」と同じである。 これで礼拝ならびに祈祷が終了する。
宗教音楽 宗教は音楽を生みだす ―― といって、もともと音楽は宗教から生まれてきた のではないか、とする説もあるほどである。 キリスト教においては、音楽は典礼を構成する重要な部分になっている。 典礼とはキリスト教の教会によって公認されている儀式(礼拝、祭礼)のことである。 キリスト教がローマ帝国の国教となり、典礼がととのえられるにしたがって、 正式な典礼聖歌として「グレゴリオ聖歌」とよばれる単旋律の聖歌が編集された。 教皇グレゴリウス1世(在位、590〜604)によって編集制定されたので、 その名がある。これがカトリック教会の典礼音楽である。 ところで、カトリック教会では典礼音楽を「聖歌」と呼び、歌詞はラテン語である。 しかし、プロテスタント教会では、「賛美歌」と呼び、それぞれ自国語による歌が つくられている。すなわち、ルター派はドイツ語による「コラール」と呼ばれる賛美歌 を創作し、カルヴァン派ではフランス語韻文訳の『詩篇』を歌詞にした典礼音楽を 使用している また、西洋音楽ファンなら、誰でも「ミサ」とか「レクイエム」と題する曲を1度や 2度は聴いたことがあると思う。ミサ曲は、カトリック教会のミサの式文から 〈キリエ〉(あわれみの賛歌)、〈グロリア〉(栄光の賛歌)、〈クレド〉(信仰宣言)、 〈サンクトゥス〉(感謝の賛歌)、〈アニュス・デイ〉(平和の賛歌)の5つに曲を つけたもので、11世紀以降、多声音楽の発展になり、合唱曲の形で数多く 作曲されるようになった。 なかには、特別な目的のために固有の式文を併せて作曲したものもあり、 プロテスタントでも、英国国教会ではカトリックのミサ曲をそのまま用い、 ルター派は〈キリエ〉と〈グロリア〉だけを使う。 17世紀以降になると、特別な式典や演奏会用に、独唱、合唱、管弦楽からなる 大規模な作品が誕生する。バッハ、モーツァルト、べ−トーヴェンなどの作品が 有名である。一方、レクイエムは、〈死者のためのミサ〉の式文に作曲したもの。 ベルリオーズ、ヴェルディ、フォーレの作品を好む人が多いようである。 一方、イスラム教の宗教音楽であるが、そもそもイスラム教世界では、 歌舞音曲が微妙な位置にあった。『コーラン』は、歌舞音曲についてなにも言って いない。そうなると、マホメットの言行を伝えた「ハディース」が問題になるが、 こちらのほうは歌舞音曲を「合法」だとするものと「非法」だとするものとがあって、 いずれとも決し難い。 そこで、だいたいのところは、 「禁止ではないが推奨はできぬ」 とされているようである。したがって、イスラム教には、キリスト教のような 宗教音楽はないと言ってよいだろう。 もっとも、イスラム教徒が『コーラン』を読誦しているのを聞けば、 それ自体がすばらしい「音楽」だということに、誰もが賛成するだろう。 さらに、イスラム諸国の民衆は歌舞音曲が大好きである。イスラム教のお祭りの日には、 芸人がよく喫茶店やサロンなどで、聖人の名がたくさん出てくる宗教的な歌曲を 歌っているのが目撃される。 このように現在のイスラム世界においては、歌舞音曲がよく保護され、民衆の支持を 得ている。イラクやエジプトには「国立民族舞踊団」があって、活躍している。