ここでは、キリスト教とイスラム教のことを勉強します。
この2つの宗教の特徴を知ると、日本人とか日本人の宗教観を自覚することが
できると思います。この記事の参考文献「キリスト教とイスラム教」(新潮選書)
の著者ひろさちや氏もそういうことをあとがきで書いています。
宗教を宣伝したり、逆に誹謗するものではありません。
ここでの引用紹介については、著者のひろさちや氏から了解を得てあります。
なぜイスラム教なのか 平成11年7月15日から10日間 キルギス共和国と新疆ウイグル自治区の旅(シルクロードの旅)に 参加することができました。 ご承知のように、ここらはイスラム教徒の国です。 風俗習慣も違います。おもわぬことから誤解が生じて 不愉快な目にあったり、危険なことに遭遇するかもしれません。 事前に本を読んで勉強してと思って、かねてより書名の知っている ひろさちや氏の「キリスト教とイスラム教」(新潮選書)を注文したのです。 しかし、私の手ちがいで、本が手に入ったのは旅行から帰った後でした。 でも、本を読んでみて、実際に旅行したときのことを思い出して 思い当たることもあるし、シルクロードの民の生活の現実を改めて 思ったのでした。 ひろ さちや があとがきで書いているように 「外国語を知らない者は、本当は自国語も知らないのだ と言われる。 外国語と比較することによって、自国語の特色や長所・短所がよくわかる。 それと同じように、1つの宗教しか知らない者は、本当はその宗教をよく理 解していないのであろう。 他の宗教と比較することによって、自分の信ずる宗教の特質がよくわかるも のである。 自分の信ずる宗教の理解が深まるのである。」 Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiss nichts von seiner eigenen. Goethe
キリスト教とイスラム教は親族宗教である。 ひろさちやは ユダヤ人の次のようなジョークを紹介する。 ある男が、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)において、一所懸命神に祈っていた。 「神さま、息子が、キリスト教の洗礼を受けてキリスト教徒になろうとしています。 神さま、息子を思いとどまらせるには、どうすればよいでしょうか……?」 そこに神が現われて、男に言われた。 「そなたはあきらめるがよい。じつは、わしの息子もそうだったのだ」 キリスト教というのは、ユダヤ教から出た宗教である。 キリスト教の開祖イエス・キリストは、彼自身最後までユダヤ教徒であった。 イエスには、新しい宗教を開く考えはなかった。 イエスの死後、イエスを「神の子」と信じた人々が創った宗教がキリスト教である。 結果的に、神の息子であったイエスがユダヤ教を飛び出して、新しくキリスト教を 開いたことになる。このジョークは、そのことを言っている。 ところが、もう一つのイスラム教のほうも、キリスト教と同じように ユダヤ教から出た宗教である。 キリスト教がユダヤ教から出たのは紀元1世紀、 イスラム教がユダヤ教から出たのは7世紀のことであった。 したがって、キリスト教が長男で、イスラム教は次男の関係になる。 キリスト教とイスラム教は、兄弟宗教というわけである。 とすれば、先程のジョークは、次のように書き変えたほうがよいとひろさちやは 書いている。 ユダヤ教の信者「神さま、お救いください。わたしの二人の息子は、 長男はキリスト教徒に、次男はイスラム教徒になりたいと言っています。 どうしたら、彼らを思いとどまらせることができますか……」 神「男よ、あきらめたほうがよい。じつはわしの長男もキリスト教徒に、 次男はイスラム教徒になったのだ」 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 ー この三つの宗教を一口に定義づけるなら、 契約宗教といえるだろう。 これらの宗教では、神と人間とのあいだに「契約」が結ばれたと考えている。 その「契約」の基本になるものは、古代のイスラエル人(ユダヤ人の先祖)が シナイ山において、預言者のモーゼを仲介として神と結んだ「シナイ契約」である。 ユダヤ教の伝承によると、このとき人間は神からモーゼの十誠(戒)を核とした 「律法」を与えらた。ユダヤ教は、この「律法」にもとづいた宗教なのである。 しかしながら、キリスト教では、このような「律法」を古い契約と考えている。 ユダヤ教では、「律法」を守る以外に罪からの救いはないのだが、 キリスト教徒は「律法」が守れなくても、罪からの救いがあると考えている。 なぜなら、そのような罪からの救いは、神の子であるイエスが全人類のために みずからの身を十字架にかけて死んでくれたからである。 そこで、イエスの「贖罪(しょくざい 罪のあがない)の業」が、 キリスト教では新しい契約と考えられている。 キリスト教では、「律法」の書であるユダヤ教の「聖書」を『旧約聖書』と呼び、 神の子イエスの「贈罪の業」を記した新しい契約の書を『新約聖書』と呼んでいる。 ”旧約””新約”といった語は「古い契約」「新しい契約」の意味である。 では、イスラム教はどうなるか……? イスラム教では、神は人類の救済のために多くの使徒をこの世に遣わして、 人間に呼びかけてこられたと考えている。 モーゼもイエスも神が遣わした使徒なのだ。そして、モーゼやイエスによって、 人類に啓典が与えられた。 しかし、ユダヤ教徒やキリスト教徒は、神から与えられた啓典 ―すなわち、 『旧約聖書』や『新約聖書』― を隠蔽(いんぺい)し、改窺(かいざん)し、 あるいは使徒を神格化するといった誤りを犯した。 そこで神は、最後にマホメットという使徒を遣わしてこられ、 『コーラン』という正しい啓典を与えられたのである。 イスラム教では、そう考えている。 つまり、マホメットこそ最後の使徒であり、『コーラン』こそ正しい啓典だという のである。 その『コーラン』を正しく保持して行くのが、イスラム教徒の使命なのである。
キリスト教の神とイスラム教の神の違い キリスト教もイスラム教も、ともにユダヤ教から出た宗教である。 したがって、キリスト教・イスラム教の神観念を知るには、 ユダヤ教のそれをまず考えよう。 ユダヤ教の神は”ヤーウェ”と呼ばれる。かつては”エホバ”と呼んでいたが、 現在は”エホバ”は誤読で、”ヤーウェ”が正しいとされている。 さて、このユダヤ教の神ヤーウェは、みずから預言者のモーゼに語っているところでは、 「私は有て在る者なり」(『旧約聖書』「出エジプト記」第三章。文語訳) といった存在である。 つまり、唯一・絶対の神である。そしてまた、この神の特徴は「義の神」と いうところにある。 ところで、敬虔なユダヤ教徒は、神の定めたもうた律法を厳格に守ることによって、 神の前に義とされ、神の国に入る資格を得る。それが彼らの人生最大の目的である。 その意味で、ユダヤ教は「律法主義」の宗教だといえる。 しかし、この世の中には、律法を守れない弱い人間が大勢いる。 あるいは、当時の社会では、身障者や不治の病の人々は、律法に触れることも許され ない罪人とされていた。ユダヤ教では神の国の扉は彼らには閉ざされていたが、 イエスは彼らに対する神の愛の福音を説いた。 したがって、キリスト教の神は、 − 罪人をも包む愛の神 である。ここにキリスト教の神の最大の特徴がある。 ユダヤ教は「律法の宗教」である。 それに対して、キリスト教は「愛の宗教」である。 ところがキリスト教は、神の愛を強調して、「神の子」=イエス・キリストを仲介者 として置くことにより、神の唯一の絶対性・超越性を稀薄にしてしまった。 神に「子」があるとなると、どうしても神はわれわれ人間に近い存在になって しまうから。 その点では、イスラム教は、神観念をもう一度、ユダヤ教の原点に戻した と言えるだろう。 イスラム教の神は、よく知られているように”アッラー”と呼ばれている。 これは、「神」を意味するアラビア語の”イラーフ”に、定冠詞”アル”が 付加されたもので、英語の "the Gog" に当たる。 歴史的には、イスラム教の以前から、アラブ人(とくにメッカの人々)が 「至上神」として信仰していた神である。 さて、『コーラン』は、このアフラーの神について、 「おまえたちの神は唯一の神である。それゆえ、このお方に帰依せよ」 (22章34節)と、繰り返し言っている。 アッラーは全知全能で、天地万物の創造者、支配者であり、超越者である。 そして、「アッラー以外に神なし」と信ずるのが、イスラム教徒なのである。 イスラム教ではアッラーの唯一性が強調されるから、キリスト教のように 「神の子」の存在は認められない。 イスラム教では、イエス・キリストを尊敬しないわけではないが、 それはあくまでキリストを預言者と見るからであって、「神の子」とは見ていない。 イスラム教では、たしかに一方ではアッラーの超越性が強調される。 つまり、アッラーは、被造物であるわれわれ人間の類推を許さない存在である。 アッラーと人間は断絶しているから、われわれはいっさいアッラーについて 知り得ない。 ところが、そうかと思えば、『コーラン』は他方では、 アッラーを人間的な神として描いている。 アッラーは悪人を罰すると同時に、善人には恩恵を与えてくれる神である。 なかなか慈悲深い神で、「主はおまえたちの心の中にあるものをもっともよく 知りたもう。もしおまえたちが善良であるならば、まことに神は、 悔い改めて帰ってくる人々に寛容であらせられる」(「コーラン』17章25節) と、人間を救済される神である。 こうして見ると、アッラーの性格はいささか矛盾しているようである。
イスラム教の概略 イスラム教は、七世紀のはじめに、アラビア半島のメッカでマホメットが創唱した 宗教である。 そこで、イスラム教を、マホメット教と呼ぶこともあるが、 イスラム教徒自身は自分たちの宗教はマホメットによって開教されたものではなく、 最初の人類であるアダムにはじまるものだと信じている。 したがって、「マホメット教」という呼称を用いず、「イスラム教」と呼んでいる。 「イスラム」ということばはアラビア語で、より厳密には「イスラーム」であるが、 「絶対帰依・服従」といった意味である。 つまり、「自分を無にして、神の意志や命令に絶対帰依・服従し、善行を積む人」 が真のイスラム教徒である。 そして、イスラム教の聖典である『コーラン』において、 「今やわし(神)は、おまえたちのために宗教を完成し、 おまえたちの上にわしの恩恵をまっとうし、 イスラムをおまえたちのための宗教として是認した」(5章3節) と述べられている。 このように、神によって是認され、神に絶対帰依する宗教がイスラム教である。 イスラム教は、信仰だけがあればよいかといえば、そうではない。 正しい信仰が行為によって裏付けられねばならない。 そこで、イスラム教では、正しい信仰の内容と、正しい行為(神への奉仕の行為) とを箇条書にして、六信・五行(五柱)としている。 六つの信仰箇条と五つの信徒義務である。 最初に「六信」を説明しよう。 l 神(アッラー)……イスラム教徒は、唯一絶対なる神=アッラーを信じる。 アッラーは、『コーラン』では、 「おまえたちの神は唯一の神である」(22章34節) 「神にくらべうるものは何一つない」(42章11節) と言われている。 2 天使(マラク)……神と人間の中間的存在として天使がある。 天使は神の命令に従って、さまざまな役割を果たしている。 マホメットに神からの啓示を伝えたのも、ガブリエルと呼ばれる天使であった。 3 聖典(キタープ)……イスラム教の聖典はもちろん『コーラン』であるが、 しかし『コーラン』だけが聖典ではない。ここに言う「キターブ」とは、 神が天使を通じて人類に下した啓示の書のことで、全体で140あるとされている。 そのうち最も神聖なものは、モーゼに下された五書(「創世記」「出エジプト記」 「レビ記」「民数記」「申命記」)、ダビデに下された「詩篇」、イエスに下された 「福音書」、そしてマホメットに下された『コーラン』である。 しかし、『コーラン』以前の現実の諸聖典は歪曲されており、神の啓示を正しく 伝えていないので、神は最後にマホメットを通して、『コーラン』という 正しい、完全な啓示を下れた。 4 預言者(ナビー)……神は、人類の祖=アダム以来、あまたの預言者を遣わして、 人間に正しい信仰と行為規範を啓示された。『コーラン』には、そのような預言者が 28名出ている。 それらの預言者のうち最後の預言者が、マホメットである。したがって、マホメット 以後には預言者は出現しない。 イスラム教では、マホメットを最後の預言者と信じ、神はマホメットを通じて 『コーラン』という最後の聖典を啓示されたと見ている。 5 来世(アーヒラ)……イスラム教にも終末思想がある。 終末は、ある時、天使の吹くラッパとともに突如として天変地異となって現われる。 人間は一人残らず墓からあばき出され、死ぬ前と同じ姿に戻される。 そして神の審判を受け、信仰をもち正しい行ないをした人は天国で平安な生活を、 信仰せず不義をなした者は地獄で永劫の罰を受ける。 6 予定(カダル)……「天命」ともいう。過去・現在・未来において、 世界に起こるいっさいの事柄と人間の行為のすべてが、あらかじめ定まっている という天命思想がイスラム教にはある。 次に「五行」(「五柱」)を説明しよう。 l 信仰告白(シャハーダ)……「アッラーのほかに神なし。マホメットは その使徒(預言者)なり」と告白することである。 2 礼拝(サラート)……礼拝は、人間が神の前に己を低くし、 神の偉大さと栄光をたたえる宗教実践である。 イスラム教徒には、1日5回の礼拝が義務づけられている。 3 喜捨(ザカート)……「ザカート」は施しの意味であるが、 ここは義務化された施しのことをいう。 したがって、これを「喜捨」と訳すのは不適当で、実際は宗教税、救貧税のことである。 金銭、穀物、家畜など、所有する財産に応じてザカートの課税率は決められている。 こうして集められたザカートは、貧者、旅人、孤児などに与えられる。 4 断食(サウム)……イスラム教徒は、イスラム暦第9月(ラマダーン月)に、 30日間の昼間の断食を行なうことが義務づけられている。 5 巡礼(ハッジ)……『コーラン』は、「この聖殿(メッカにあるカーバ神殿) への巡礼は、そこに旅する余裕のあるかぎり、人々にとって神への義務である」 (3章97節)と、メッカヘの巡礼を義務づけている。 巡礼は、イスラム暦第12月(ズール・ヒッジャ月)の7日から10日にかけて 行なわれる。 なお、わが国では、イスラム教を「回教」と呼ぶことがある。 これは、西域地方に住んでいたイスラム教徒にトルコ系ウイグル族が多く、 彼らが中国人によって「回★(かいこつ)」あるいは「回鶻(かいこつ)」 と呼ばれていたことによる呼称である。 ★:糸偏に乞 「回教」といった呼び名は、使わないほうがよい。
キリストとマホメット キリスト教の創始者=イエス・キリストは、「謎の人」である。 その生涯については、ほとんどわかっていない。 ”イエス・キリスト”の”イエス”は人名で、 ”キリスト”は「油を注がれた者」(「救世主」)を意味する。 したがって、”イエス・キリスト”とは、「救世主であるイエス」の意味である。 しかし、この呼称は、キリスト教徒が与えたものであって、 ユダヤ教では、イエスをキリストとは認めていない。 ユダヤ教からすれば、イエスはいかがわしい人物であり、 だからユダヤ教徒はイエスを犯罪者として十字架にかけて処刑してしまったのである。 キリスト教の成立は、イエスの死後のことであった。イエス自身は、生前、 新しい宗教を形成する気持ちをもっていたかどうか、疑わしい。 キリスト教はイエスの死後に、イエスがキリストであつたと信ずる人々によって つくられた宗教なのである。 イエスの誕生は、紀元前7年から紀元前4年のころと推定されている。 ガリラヤ地方のナザレの町で生まれま。父はヨセフ、母はマリアで、 弟や妹がいた可能性がある。 『新約聖書』では、イエスは処女マリアから生まれたとして、そのことを イエスの聖性の根拠としている。 紀元後28年のころ、イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼をうける。 ヨハネは、「悔い改めよ!」のスローガンとともに、その象徴として洗礼を施す 一種の宗教運動を展開していたようである。 伝統的なユダヤ教は厳格な律法主義の宗教であったが、それに対してヨハネは、 神の救済者としての側面を強調したのではなかったかと思われる。 その後、イエスはガリラヤ湖畔の地において独自の宣教活動を開始した。 イエスはヨハネの運動を批判的に継承し、「神の愛」を積極的に説いた。 この「神の愛」は、「神の義」を強調する伝統的なユダヤ教と鋭く対立するものである。 「神の義」が強調されれば、そこで嘉(よみ)されるのは「強者」であり「善人」で あるが、「神の愛」を強調したイエスは「弱者」の立場に立ち、「罪人(つみびと)」 を嘉した。 「貧しい人々は、幸いである、 神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである、 あなたがたは満たされる。 今泣いている人々は、幸いである、 あなたがたは笑うようになる」(「ルカによる福音書」6) 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に 神の国に入るだろう」(「マタイによる福音書」21) といった「新約聖書」のイエスのことばが、彼の考え方を裏書きしている。 イエスは、このように「神の愛」を説きつつ、一種の霊的な力によって 病人を癒し、悪霊祓いをしたようである。その点に関しては、 『新約聖書』に多くの奇蹟物語が伝えられている。 最後にイエスは、エルサレムに行き、そこでユダヤ教の指導者たちと論争し、 彼らの反感を買った。そして、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)によって逮捕、 審問され、神を冒涜した者として死刑の判決をうけた。 ローマのユダヤ総督ピラトはこの判決にもとづいて、十字架刑に処した。 イエスは30歳を超えたばかりであったと推定される。 彼の伝道の期間も、2年前後という短いものであったろうと思われる。 したがって、イエスの人物像のいちばんの特徴は、その「若さ」ではないだろうか。 仏教の開祖の釈迦が80歳まで生きたことを考え合わせると、 イエスの30歳ちょっとという生涯は、あまりにも短いものであった。 釈迦とイエスのちょうど中間が、イスラム教の創始者のマホメットである。 マホメットは、632年6月8日、推定年齢62歳で亡くなっている。 マホメットは、正確には”ムハンマド”という。生年は不明であるが、 570年ごろ、アラビア半島のメッカの町のクライシュ族のハーシム家に 生まれた。彼が生まれた時には、父はすでに亡くなっており、 六歳のころには母とも死別して孤児となり、マホメットは祖父に、 そしてそのあと叔父に養育される。 『コーラン』は繰り返し孤児への心遣いを説いているが、その背景には マホメットの孤児としての体験があると思われる。 マホメットは25歳のとき、富裕な未亡人ハディージャと結婚した。 ハディージャは、このとき40歳であったと言われている。 この結婚によって彼の生活は安定し、三男四女の父となった。 しかし、男の子はいずれも夭逝してしまったようである。 結婚後のマホメットは、しばしばメッカ郊外のヒラー山の洞窟に閉じこもり、 瞑想にふけっていた。そして610年のある夜、異常な体験をする。 突然、天使が現われて、彼に次のような啓示を下した。 誦(よ)め、「創造主の名で。 小さい凝血から人間を創り給う」。 誦め、「汝の主は、このうえなく有難いお方。 筆もつ仕方を教え給う。 人間に未知なことを教え給う」と。 (『コーラン』96章l〜5節。ただし、この引用にかぎり加賀谷寛氏の翻訳による) 別の伝承では、「おお、外衣を纏う者よ、起きて、警告せよ、汝の主を讃えよ、 汝の着衣を清めよ、不浄なものを避けよ」という74章l〜5節の啓示がそれだ とされるが、こちらのほうを第2回目の啓示だとする説もある。 いずれにせよマホメットは、啓示によって預言者の自覚をもち、人々に警告し始めた。 彼が説いたのは、アッラーが唯一であり、全知全能であり、審判の日があり、 アッラーを信ずる者には楽園が、不信仰者には地獄が約束されている − ということであった。 けれども、マホメットの宣教は、ごく一部の熱心な信者を除いて、メッカの住民たちの 嘲笑と反感を買い、それはやがてマホメットの教えを信ずる人々に対する迫害となる。 おりしもヤスリブ(のちのメディナ)の町から、マホメットを調停者として 迎えたいとの誘いがかかり、彼はメディナヘの移住を決意する。 当時、メディナの町にはユダヤ教徒とアラブ人の二つの部族が住んでいて、 彼らの間で永年にわたる対立、抗争があった。 マホメットは、そうした部族対立の調停者として、メディナに行ったのである。 622年9月24日、マホメットは70余名の信徒とともに、メッカを出て メデイナに移住した。これをヒジュラ(聖遷)といい、この年をもって イスラム暦の元年とする。 メディナに移ったマホメットは、積極的に布教をすすめ、イスラム教の基盤を築いた。 メディナに移った当座は、イスラム教徒はごく少数であったが、彼の晩年には メディナにいるアラブ人はほぼ全員、信徒になった。 しかし、メディナのユダヤ教徒は、マホメットを預言者とは認めず、イスラム教徒と ユダヤ教徒は対立をつづけた。この対立は、のちにはユダヤ教徒からジズヤ(人頭税) を徴収することで、政治的に解決された。 一方、マホメットの故郷であるメッカは、依然として偶像崇拝をつづけ、 イスラム教の信仰を受け容れない。そのため、メディナ側とメッカ側との宗教的・ 経済的・軍事的対立は激しさを加え、3度にわたる戦闘が行なわれた。 しかし、630年には、マホメットはメッカの無血征服に成功し、 カーバ神殿に安置されていた多数の偶像を破壊し、カーバ神殿を「アフラーの館(やかた)」 とした。そして、メッカがイスラム教の聖地とされた。 632年、マホメットはメッカに最後の巡礼(別離の巡礼)をした。 彼はこの巡礼から帰還後、3ヵ月ほどして突如、永眠した。 ところで、イスラム教徒にとってマホメットは、預言者であり完全な人間である。 『コーラン』は繰り返し、マホメットを、 「私は使徒としての一個の人間以外のもの〔ではない〕」(17章93節) 「この男は、昔の警告者と同じ警告者だぞ」(53章56節) と言っている。 彼は理想的なイスラム教徒であり、信徒の鑑であるが、 しかし「人間」以外のなにものでもなく、絶対に神格化されてはならない存在であった。 マホメットを神格化すれば、アッラーの超越性が制限され、 イスラム教が成立しなくなるからである。マホメットを神格化しないところに、 イスラム教の大きな特色がある。
キリスト教とイスラム教は、それぞれ相手をどう評価しているか キリスト教は紀元1世紀に、イスラム教は7世紀に成立した宗教である。 したがって、キリスト教は兄貴分、イスラム教は弟分にあたる。 弟のほうは兄貴に敬意を表し、兄弟仲良くやって行こうとしていた。 ところが、兄貴のほうははじめから弟を無視し、冷たくあしらっていた。 そのうちに弟のほうも、「それなら……」ということで、兄貴に対立するようになった。 いわゆる兄弟喧嘩になったわけだが、兄弟喧嘩というものは赤の他人との喧嘩より 性質が悪いもので、ちょっとやそっとで和解できないほどの対立になってしまうものである イスラム教の創始者であるマホメットが、キリスト教のイエス・キリストを どう見ていたか……。じつは、あんがい正確にマホメットはイエスを評価していた。 イエスの弟子たちは、イエスを「キリスト(救世主)」であり「神の子」と見た。 キリスト教というのは、イエスを「キリスト」「神の子」と見るところから はじまる宗教である。 しかし、イエス自身が自分をどう見ていたか、といえば、 おそらく彼は自分を「キリスト」「神の子」と考えていなかっただろうと思われる。 自分は一人の、「預言者」であるというのが、イエス自身の信念であったと思う。 預言者というのは、神のことばを預かって、人間に伝える役割をもった者である。 ところで、『コーラン』は、イエスを、 ― マルヤム(マリア)の息子イーサー と呼び、神は処女マルヤムに精霊を吹き込んで懐妊させ、イーサーが生まれたと している。 このイーサーは、 「預言者」 の一人ではあるが、「神の子」であるとは認めていない。 「アッラーに息子などあるものか」と、強く「神の子」を否定している。 要するに『コーラン』は、神は人類に数多くの預言者を遣わして警告を与えた。 最終段階においてイーサー(イエス)を遣わし、のちにマホメットが遣わされることを 預言させた。それをうけて、最後に最も優れた預言者としてマホメットが遣わされた というわけである。 マホメットは最後の預言者であり、以後、預言者が出現することはない − これが『コーラン』の主張である。 このようにマホメットは、イエスとキリスト教に対して、精一杯の尊敬をもっていた。 仮にこれ以上イエスを高く評価すると(たとえば、イエスを「神の子」とすると)、 もはやマホメット自身がキリスト教徒ということになってしまうだろう。 イスラム教徒としてのマホメットが、他宗教の創始者に捧げる尊崇の念としては、 これが限度ではなかったろうか。 ユダヤ教徒はイエスを「たんなる人間」と見、それも犯罪者であるとして、 十字架にかけて死刑にしてしまった。 イエスを、 人間(犯罪者)と見れば……ユダヤ教、 「神の子」と見れば……キリスト教、 預言者と見れば……イスラム教、 になるわけである。 また、『コーラン』は、ユダヤ教徒やキリスト教徒を、 − 「啓典の民」 と呼んで、他の宗教(たとえば仏教)の徒と区別して扱っている。 すなわち、啓典の民には必ずしもその信仰の放棄を強制しなくてよいとしている。 このように、イスラム教のほうからは、キリスト教に対してわりと強い仲間意識 をもっていた。 だが、一方 キリスト教はイスラム教に対して、冷たい態度をとった。 キリスト教がイスラム教をどう見たか……といえば、 ― イスラム教は多神教である。 ― イスラム教は偶像崇拝の宗教である。 ― マホメットは狂信者であって、『コーラン』はマホメットが捏造(ねつぞう)した ものである。 こういったところだろうか。 イスラム教が多神教であり、偶像崇拝だというのは、まったく基本的な誤解なので あるが、おそらくイスラム教に脅威を感じたキリスト教の当事者たちが、デマを 流したのだろう。 イスラム教がどんな教えを説き、どんな宗教であるのか、キリスト教徒のほうでは、 それを知る必要性すら感じていなかったのではないだろうか。 キリスト教徒とイスラム教徒の対立・抗争といえば、「十字軍」が有名である。 十字軍は1096年にはじまり、1291年にひとまず終結する、 世界史上の大事件である。 十字軍の発端は、11世紀の後半にセルジューク・トルコが小アジアに進出して ビザンティン帝国を圧迫し、聖地エルサレムを占領して聖地への巡礼者を迫害したのに 対し、西欧のキリスト教徒が聖地エルサレム回復の名のもとに遠征軍を起こしたのに はじまる。 ところが、学者の研究によると、セルジューク・トルコによる聖地エルサレムヘの キリスト教徒の巡礼に対する迫害は、ほとんどなかったとされている。 イスラム教のほうでは十字軍の真の目的がわからず、これをキリスト教側からの攻撃 と受け取り、反撃に出た。イスラム教には、「聖戦(ジハード)」といった観念が あって、異教徒との「聖戦」に参加するのは教徒の義務とされている。 そこで多くのイスラム教徒が、自発的にキリスト教徒との戦いに参加した。 十字軍は大規模なものだけでも、200年のあいだに8回起こされてる。 結局、キリスト教側の目的は失敗に終った。 この十字軍の遠征は、束西の文物の交流を盛んにする効果をあげたが、 他方、キリスト教徒がイスラム教徒を憎み、イスラム教徒もキリスト教徒を憎むように なったことは否めない。 世界史的な不幸な事件であったと言うべきであろう。
新約聖書とコーラン キリスト教の聖典は、『旧約聖書』と『新約聖書』である。 『旧約聖書』そのものは、ほんらいユダヤ教の聖典である。 ユダヤ教では、いまでもこれだけを聖典としている。 『新約聖書』のほうは聖典と認めていない。したがって、『旧約聖書』を「旧約」 と呼ぶ必要もない。単に『聖書』と呼んでいる。 『旧約聖書』は全39書から成り、それらは次の3つのグループに分類される。 l 律法……『旧約聖書』の最初の5書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」 「民数記」「申命記」) 2 預言書……「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」の3大預言書のほか、 12の小預言書と4つの前預言書 3 諸書……残りの書 ユダヤ教徒がこの『旧約聖書』を確定したのは、紀元90年ごろのヤムニア (テル・アビプの南約20キロにあった町)で開かれたユダヤ人の宗教会議に おいてであった。 それより20年前、紀元70年に、ユダヤ教の中心都市であったエルサレムの都市と 神殿がローマ軍によって破壊され、ユダヤ人は祖国を喪失して流浪の民となった。 そのとき彼らは、ユダヤ人自らを統合するものとしてユダヤ教の聖典を定めた のであった。その背景には、当時急増してきたキリスト教徒が 勝手に自分たちの文書をつくって、それを聖典としはじめていたという事実がある。 そうなると、いったい何が正しい聖典であるのかわからなくなるので、 彼らユダヤ教徒は、あわてて、ユダヤ教のスタンダード(標準)な聖典を確立した わけであった。これが『旧約聖書』(ユダヤ教の『聖書』)である。 つまり、ユダヤ教徒から見た、「キリスト教徒たちが勝手につくっている文書」が、 『新約聖書』である。キリスト教徒たちは、『旧約聖書』の上に自分たちの 『新約聖書』を加えて、それを自分たちの『聖書』(正しい聖典)にしたのである。 しかし、『新約聖書』は一時に出来上がったものではない。『新約聖書』は全27書 から成るが、そのうち最初に書かれた書は「ガラテヤの信徒への手紙」とされており、 だいたい紀元49年ごろといわれている。 イエス・キリストの死は紀元30年ごろなので、それから約20年後のことである。 これにつづいて、紀元50年から100年ごろのあいだに、[4福音書」 (「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」 「ヨハネによる福音書」)や「手紙」の大部分が書かれ、 紀元200年ごろには現在の『新約聖書』の形が出来上がっていたとされる。 『新約聖書』が正しい聖典として確立されたのは、397年のカルタゴ公会議に おいてであった。 キリスト教から見れば、『旧約聖書』と『新約聖書』の関係はこうなる。 キリストは死の直前、弟子たちとともにした最後の晩餐の場面において、 十字架にかかって流される血が、「多くの人のために流されるわたしの血、 契約の血である」(「マルコによる福音書」)と言っている。 すなわち、キリストの血によって、神と人間とのあいだに新しい契約が結ばれた のである。その「新しい契約」について述べた書が『新約聖書』であり、 『旧約聖書』はキリストのその新しい契約を準備する書物とされている。 『旧約聖書』はヘブル語(一部はアラム語)で、『新約聖書』はギリシア語 (コイネー・ギリシア語)で書かれた。 イスラム教の聖典は『コーラン』である。『コーラン』はアラビア語で書かれている。 『コーラン』といった呼び方はイスラム世界以外での訛(なま)りであって、 正しくはアラビア語で”クルアーン”という。”クルアーン”は、「読む」「誦(とな)える」 といった動詞からつくられた語で、「読むべきもの」「読誦さるべきもの」 といった意味である。 『コーラン』は、簡単にいえば、天使=ガブリエルを通じて 預言者=マホメットに啓示された神=アッラーのことばを集めたものである。 啓示が下されたのは、610年から632年のマホメットの死までの22年間であった。 この啓示は、マホメットの近くにいた教友たちによって暗記され、 また一部はヤシの葉や骨片などに記されて伝えられた。 『コーラン』が編集されたのは、マホメットの死後のことで、初代のカリフ( イスラム社会の指導者)であったアブー・バクル(在位、632〜634)が、 相次ぐ戦争で啓示を記憶している者が多数戦死したので、このままでは神の啓示が 砂に埋もれてしまうと考えて、マホメットの秘書をしていたザイド・イブン・サービト に命じて神の啓示を編集させた。 しかし、このときつくられた『コーラン』には不備な点も多く、またほかの教友たちが 編集した『コーラン』の異本もあったらしく、のちにいろいろと紛争が生じた。 それで第三代カリフのウスマーン(在位、644〜656)の時代に、 標準版『コーラン』が編集されたという。 『コーラン』は114章から成り立っている。しかし、章の長短はまちまちで、 長い章は286節(第2章)、短い章はわずか3節(第103章など)である。 各章ごとに一貫したストーリーがあるわけではなく、神の啓示が断片的に集録されている。 イスラム教の考え方では、『コーラン』は「書かれた」聖典であるが、 それは人間が書いたものではない。 『コーラン』の原本にあたる「天に護持されている書板」があって、 それを神が天使=ガブリエルを通してマホメットに読み聞かせたものが、 地上の『コーラン』である。
新約聖書とコーランの日本語訳 『旧約聖書』はヘブル語(一部はアラム語)、『新約聖書』はギリシア語によって 編まれまた。ローマ教会がラテン語訳を完成したのは、4世紀末になってからである。 『旧約聖書』は、ヘブル語からいったんギリシア語訳がつくられ、 それをもとにラテン語訳が訳出された。 『新約聖書』のほうは、ギリシア語写本からラテン語訳されたといわれている。 そして、カトリック教会は中世にいたるまで、このラテン語訳『聖書』を使い、 他の言語への翻訳を許さなかった。 このようなカトリック教会の態度はかたくなように思われるが、 翻訳はある意味で恣意的(同時に私意的)解釈をすることである。 宗教的権威は、独断的解釈権を持っているわけなので(独断的解釈権を持つことにより、 宗教的権威が保持できる)、翻訳による勝手な解釈を許さなかったのである。 こうしたカトリック教会の態度に反撥したのが、宗教改革の口火を切ったドイツの ルター(1483〜1546)であった。彼はドイツ語訳『聖書』を刊行した。 これを契機として、プロテスタント諸国において、それぞれの自国語訳『聖書』が 出版された。そして、カトリック教会のほうでも、『聖書』の翻訳を公認するように なった。 さて、日本語訳『聖書』の最初のものは、キリシタン禁制時代のギュツラフ (1803〜51)による、『約翰福音(ヨハネふくいん)之伝』だとされている。 彼はドイツ生れのロンドン伝道協会宣教師であったが、当時マカオに来ており、 そこで3人の漂流日本人水夫から日本語を学び、彼らの協力を得て「ヨハネによる福音書」 と「ヨハネの手紙」を和訳して、1837年にシンガポールで出版した。 日本国内における最初の日本語訳『聖書』の出版は、1871年にアメリカの バプテスト派宣教師のジョナサン・ゴーブル(1827〜98)によるものである。 しかし、これも全訳ではなく、『新約聖書』のうち4福音書と「使徒言行録 (使徒行伝)」の翻訳が試みられ、出版されたのは全文ひらがなの「マタイによる福音書」 だけであった。 こうした個人による翻訳のあとをうけて、プロテスタント系各派合同の在日宣教師ら による共同訳として、『新約全書』が明治13年に、『旧約全書』が明治21年に刊行 さた。 のちにこの明治訳は改訳され、大正6年(1917)にいわゆる『大正訳文語聖書』が 完成出版された。これは第二次世界大戦後に口語訳が出版されるまで、教会や 一般の人々のあいだで愛読された。 口語訳は、戦後の新仮名づかい、当用漢字時代にふさわしい『聖書』として、昭和29年 (1954)に『新約聖書』が、翌30年に『旧約聖書』が刊行された。 また、カトリック教会のほうでも、明治43年(1910)にE・ラゲによって 『新約聖書』が、戦後の昭和39年(1964)にはバルバロとデルコルの共訳 によって『旧約・新約聖書』が翻訳・出版された。 さらに、近年では、カトリックとプロテスタントの共同訳『聖書』が刊行された。 すなわち、昭和53年(1978)に『新約聖書・共同訳』が出版され、 62年(1987)には『聖書・新共同訳』が出版された。 本書における『聖書』からの引用は、この『聖書・新共同訳』によっている。 『コーラン』は、本質的に神=アッラーが啓示されたことばを記録したものである。 神はアラビア語で『コーラン』を啓示されたのであるから、それを人間が勝手に 他の言語に翻訳することは許されない。 『コーラン』を外国語に翻訳することは、イスラム諸国においてすらかたく禁じられて いた。ましてや、異教徒のことばに翻訳することなど、イスラム教徒にとっては まさに神を冒涜する行為であった。 しかし、アラブ以外のイスラム教徒の民族意識が高まってくると、 彼らは自分たちのことばで『コーラン』を読む権利があると主張しはじめた。 そこで最初は、イスラム諸国内で、アラビア語以外の言語への『コーラン』の翻訳が 行なわれ、ついでヨーロッパ諸国語による翻訳も行なわれるようになった。 『コーラン』の日本語訳は、大正9年に刊行された坂本健一訳『コーラン経』(上下) が最初のものである。これは「世界聖典全集」のうちに収められたものであるが、 アラビア語からの翻訳ではなく、主として英訳本にもとづいた翻訳である。 その後、昭和にはいり、昭和13年に、高橋五郎、有賀阿馬土共訳による『聖香蘭経 (イスラム教典)』(一巻)が、東京の聖香蘭経刊行会から出版された。 これもアラビア語原典からの翻訳ではなかった。 戦後になって、昭和25年に、大川周明による『古蘭』が岩崎書店から刊行された。 大川周明は東京帝国大学哲学科でインド哲学を専攻し、インド哲学の研究から植民地 インドの現状に目を向け、植民政策の研究に重点を置くようになった。 日本ファシズム運動の理論的指導者で、昭和20年の敗戦に際してはA級戦犯容疑で 逮捕されたが、巣鴨プリズンに収容中に精神障害をおこし免訴となった。 この『古蘭』の翻訳は、都立松沢病院(精神病院)に入院中の仕事である。 大川周明の翻訳も、アラビア語原典にもとづいたものではない。 アラビア語原典からの『コーラン』の日本語訳の最初のものは、井筒俊彦氏による 岩波文庫本『コーラン』(上中下)で、昭和32年の刊行(昭和39年に改訳版が刊行) である。 その後、藤本勝次、伴康哉、池田修の3氏による共訳『コーラン』が中央公論社から、 「世界の名著」の一冊として出版された(1970年)。 さらに1972年には、三田了一氏訳による『聖クラーン』が日訳クラーン刊行会より 出た。三田氏は日本ムスリム協会の会長をつとめた人であり、この『聖クラーン』が、 日本ではじめての信者による翻訳になった。 本書における『コーラン』からの引用は、藤本、伴、池田の3氏による翻訳によっている。
イスラム教の宗派 イスラム教の創始者マホメットは、「自分の死後、イスラム教は73派に分裂する であろう。そのうちの一派に属する者を除いて、残りの72派の信者は地獄に堕ちる」 と予言したそうである。 しかし、これは後世の創作ではないか。ほんとうにマホメットがそう考えていたら、 自分の死後の教団の運営について、何か指示をして死んだはずである。 彼は自分の死後、教団は教友たちによってうまく運営されると信じていたからこそ、 なんら遺言せずに死んだのである(ただし、すぐあとで述べるように、 マホメットは自分の後継者を指名していたと主張する派もある)。 イスラム教には、二大宗派があって、それぞれ、 スンニー派 シーア派 と称している。 ”スンニー”とは、「預言者のスンナ(=範例・慣行)に従う者」の意で、 「正しい伝統を守る者」「正統派」を意味する。 それに対して”シーア”とは、「党」「派」の意で、後述するような事情で、 ”シーア・アリー”すなわち「アリー派」と呼ばれることになったものである。 したがって両派は、正式には「正統派」「アリー派」といった呼称になるわけであるが、 この呼称はスンニー派が用いているものである。 スンニー派は多数派(全イスラム教徒の90パーセント以上がこれに属する)で、 自分たちこそが「正統派(スンニー)」で、自分たち以外の者は「アリー派(シ−ア)」 だと主張している。 ところが、アリー派の人たちは、自分たちこそが「スンニー(正統派)」だと言って いるから、ややこしい。 イスラム教国で国勢調査をしても、シーア派の者が自分はスンニーだと申告するので、 正確な信者人口がつかめないという。 しかしここでは、一般に使われている意味で「スンニー派」「シーア派」を区別する ことにする。 イスラム教団は632年にマホメットが死ぬと、一時、分裂の危機に瀕した。 しかし、その危機も、マホメットの古くからの友人で、最も古い信徒の一人であり、 マホメットの愛妻アーイシャの父であるアブー・バクルを初代カリフ(イスラム社会の 指導者)に選出し、彼を中心に団結することでうまく乗り越えた。 けれども、アブー・バクルはわずか2年で死に、そのあと2代目カリフにウマルが、 第3代にウスマーンが選ばれますが、彼らはいずれも政敵に暗殺された。 そして、第4代のカリフに、アリーが選出された。 アリーは、マホメットのいとこであり、しかもマホメットの娘のファーティマの夫 であった。つまり、アリーは預言者マホメットの女婿である。 アリーの人柄・家柄ともに申し分なかったのであるが、アラブ社会に根強い 部族第一主義によって、当時シリアの太守であったウマイヤ家のムアーウィアが アリーに反対し、ここに両者が戦闘状態にはいった。 そして、661年、アリーは刺客の兇刃にたおれた。 アリーが死ぬと、アリーの長男のハサンがカリフを名乗ったが、ハサンにはムアーウィア との抗争に勝てる見込みがなかったので、ムアーウィアの死後はハサンの弟 (アリーの次男)のフサインにカリフを譲ることを条件に、ムアーウィアにカリフ位を 譲った。そして、ハサンは故郷のメディナに隠退した。 ムアーウィア側はそれでは安心できないので、このハサンを暗殺した。 しかも、ムアーウィアはハサンとの約束を破って、カリフの位を自分の息子の ヤジードに譲った。ここに世襲制のウマイヤ朝がはじまった。 これを怒ったフサインは、父と兄の仇を討つため、挙兵した。ところがフサインの軍は、 敵が流したデマに引っかかって、680年10月10日、イラク中央部のユーフラテス河 畔のカルバラーの地で全滅した。 これが、カルバラーの悲劇と呼ばれる事件で、この事件が契機となってシーア派が形 成された。 シーア派では、680年10月10日がイスラム暦第1月の10日に当るので、 この日を「殉教の日」として、フサインの死を悲しむ行事を行なう。 このカルバラーの悲劇を契機にして、イスラム教は多数派と少数派に分かれる。 簡単にいえば、ウマイヤ朝のカリフの権威を認めるのが多数派のスンニー派であり、 これを否定するのが少数派のシーア派である。 シーア派は、したがって、カリフそのものを認めない。アリー以前に、アプー・バクル、 ウマル、ウスマーンと3代のカリフがいますが、彼らは、マホメットの正統な後継者 であるアリーがいるにもかかわらず、その地位を横取りした簒奪者(さんだつしゃ) ということにされている。 アリーが登場して、ようやく預言者マホメットの正しい後継者が出来たとする わけである。そして、その正しい後継者を、イマームと呼ぶ。 ”イマーム”とは、「指導者」といった意味である。 シーア派の主張によると、マホメットの女婿であるアリーが初代イマームで、 その長男のハサンが第2代イマーム、そして次男のフサインが第3代イマームとされ、 さらにフサインの子、孫へとイマーム位が継承される。 つまり、預言者の後継者には預言者の血が流れていなければならぬというのである。 雨カルバラーで戦死しフサインには、幼い息子のアリー(小アリー)がいた。 予言者の血を受けた幼い者を不必要に殺しては、信徒の反感をかうという考慮で 息子アリーは助けられた。 この小アリーの母は、ササン朝ペルシア最後の皇帝ヤズディギルド3世の皇女ハラール だったと言われる。 イラン人は、当時の西アジアで最高の文化をもち、誇り高い民族だったのに、 武力でひけをとったために、野蛮なアラブ人に征服されたのだという恨みを忘れなかった。 そういうわけで、予言者の血とペルシア皇帝の血を受けた小アリーの系統が、 唯一の正当なイマーム(予言者の後継者)であるとするシーア派の主張は、 大いにイラン人の民族意識に訴えたのであった。 この言い伝えは、イランでシーア派が熱狂的な支持を受ける理由になるであろう。 イマームは不可謬であり、イマームには教義決定権と立法権がある。 スンニー派のカリフには、このような教義決定権や立法権はない。 シーア派にも、いろいろな派がある。シーア派のなかで最も多くの信徒を有するのは、 16世紀の初頭以来、イランの国教になっている「十二イマーム派」である。 この派は、その名の通り、アリーにはじまる12大のイマームを認めている。 十二イマーム派の第12代のイマームは、ムハンマド・アルムンタザル (ムハンマド アル マッハディ)と呼ばれる人物であるが、 彼は874年(一説では872年)に死亡した。 彼には子どもがなかったので、ここでイマームは途絶える。 だが、十二イマーム派では、第12代イマームは死んだのではなく、 「隠れ」の状態に入っているのだと解釈している。そして、この世の終末に「時の主」 (救世主)となって現世に戻ってくる(再臨)と信じられている。 このイマームが隠れているあいだは、法学者が隠れイマームと信徒を結び、 信徒のために隠れイマームの意志を解釈する役割を担う。 イラン革命においてホメイ二師が提唱した「法学者による統治」とは、 このことをいう。 イスラム教には、このほか、 l ハワーリジュ派 2 ワッハーブ派 3 イスマーイール派 4 カルマト派 5 ドルーズ派 などがある。 イスラム教の宗派は、教義の違いによって出来た分派ではなく、政治的な理由で 分派したものが、のちに教義に差が出来たものである。
キリスト教の宗派 『新約聖書』の「マタイによる福音書」には、イエス・キリストがペトロ に言われた、次のようなことばが出ている。 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わかしはあなたに天の国の鍵を授ける」 このキリストのことばによって、教会は地上に実現された唯一の救済機関であり、 そしてすべての司教は、キリストより天国の鍵を授けられたペトロの権威を受け継いで いると考えられている。 そのような思想的背景の上に、教会としての組織を整え、経典としての『新約聖書』を 編纂し、名実ともに「教会」と呼ばれるべきものが成立したのは、紀元2世紀のころである。 そのとき成立した教会を古カトリック教会と名づける。”カトリック”とは、 「全体的」「普遍的」「公的」といった意味である。 古カトリック教会の基本神学は、イエス・キリストの神性と歴史性(人性)を同時に認め、 「父なる神」「子なる神」「聖霊の神」の三つの神格(位格)が一体をなしている という「三位一体説」である。 そこで父なる神と子なるキリストの同質性を否定したアリウス派や、 キリストの人性を重視したネストリウス派(中国にまで伝道し、”景教”と呼ばれた)や、 逆にキリストの人性よりも神性を強調したコプト教会が、それぞれ分派として独立して 行った。 キリスト教神学でいちばんむずかしいのは、イエス・キリストの神性と人性のバランス なのであろう。神性を強調しすぎてもいけないし、人性を強調して「人間であるイエス」 にしてしまってもいけないから。 この古カトリック教会は、1054年に東西に分裂して、西はローマ・カトリック教会 となり、東は東方正教会となった。分裂の原因はいろいろとあるが、分裂後の東西の 教会を比較すれば、東方正教会のほうが古カトリック教会の伝統に忠実なようである。 ローマ・カトリック教会は、聖と俗を区別し、精神(霊)を肉体よりも重視し、 政治と宗教を分離して考えているのに対し、東方正教会は聖俗一致、霊肉一致、 政教一致を主張している。 つぎに、16世紀の宗教改革運動によって、ローマ・カトリック教会に対抗して プロテスタント教会が成立する。 プロテスタント教会の”プロテスト”は、ローマ・カトリック教会に対して 「抗議(プロテスト)し、「抵抗(プロテスト)」し、そして自分たちの主張を 「公言(プロテスト)したことを意味する。 その抗議と公言が何であったかといえば、宗教改革運動の口火をきった ドイツのマルチン・ルター(1483〜1546)は、次の3点を主張している。 l 伝承主義への抗議……神の真理の唯一の根拠は『聖書』であって、その啓示に 教会は不要である。 2 秘蹟による救済への抗議……キリスト教徒はただ信仰によってのみ義とされる のであって、秘蹟による救済は不要。 3 祭司制度への抗議……すべての信徒が祭司であって、ローマ教皇を頂点とする 聖職階層制はまちがい。 宗教改革は、このルターののちにフランスにカルヴァン(1509〜64)が出て、 積極的に推進される。さまざまな派があるが、ドイツを中心にルター派、スイスを 中心にカルヴァン派が勢力をもち、この二つの派が代表的である。 さらに16世紀には、ローマ・カトリック教会からイギリス国教会が独立した。 ただし、この独立は宗教改革によるものではなく、政治的・経済的な理由によるもので、 直接の契機はヘンリー8世の離婚問題からであった。 このイギリス国教会から、16世紀後半から17世紀にかけて、プロテスタントの影響 をうけた多数のピューリタン諸派が出てくる。ピューリタンは”清教徒”とも訳され、 このピューリタンの一派の人々(彼らは”ピルグリム・ファーザーズ”と呼ばれる)が 1620年にメイフラワー号でアメリカに渡り、ニューイングランドに植民地を建てた。
「裁き」と「刑罰」 「目には目を、歯には歯を」のことばは、 紀元前18世紀の「ハンムラビ法典」にその淵源があるといわれている。 それが、『旧約聖書』にとりいれられ 「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、 目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(「レビ記」) となったようである。 しかし、このことばは、どうも誤解を招いているようである。 「裁き」と「刑罰」に対する両宗教の態度であるが、キリスト教の根底にあるのは、 人が人を裁くことは不可能だといった思想である。 換言するなら、裁きは神にまかせておけばよいということであり、同時に、 人間にふさわしいのは「赦し」だという考えになる。 キリストは、『新約聖書』において、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないように するためである」(「マタイによる福音書」7) と言っている。これが、「裁き」に対する、キリスト教の基本的態度であろう。 「ヨハネによる福音書」8に次のような話が載っている。 罪を犯した女がキリストの前に連れて来られ、人々はキリストにこの女の処分を求める。 当時のユダヤの律法によると、罪を犯した女は石で打ち殺されなければならない。 ところが、キリストは、人々に、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、 まず、この女に石を投げなさい」と答えた。 やがて、一人去り二人去り、そして、全員が逃げるように去って行ったあと、 「わたしもあなたを罪に定めない」と言って、赦したという。 キリストによると、先程の「目には目を、歯には歯を」のユダヤ教的報復の原理も、 その権利を放棄し、なおかつ積極的な赦しを相手に与えるのが、 キリスト教徒にふさわしい生き方になる。 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの 右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(「マタイによる福音書」5) このように言えば、わたしたち日本人のあいだからは、では、犯罪人や罪人を のさばらしておいてよいのか‥… といった反問が返ってきそうである。 しかし、それはちがう。人間がかりに犯罪人、悪人を放置しておいても、 神が必要とされるならその人を罰するであろう……そうした信念が、 キリスト教徒の背後にはある。 また、わたしたち人間は最後の審判といった形で真の「裁き」を受ける。 悪人は必ず、そのときに罰せられる。だから、いま、わたしたちが性急に 悪人を罰する必要はないという信念をもっているのである。 このような考え方は、現代アメリカの裁判制度のうちにも顕われている。 われわれは、アメリカの裁判は、陪審によって有罪、無罪の決定がなされる 陪審裁判だと教わってきた。 ところが実際は、ほとんどの事件(ある統計では、全刑事事件の95パーセント以上) が、被告人からの有罪の申し立て(ギルティ・プリー)によつて決着がつけられて いるとのことである。 被告が自分で有罪の申し立てをすれば、陪審裁判にかからないですむ。 そして、検察側から犯罪事実として持ち出されるものを少なくしてもらい、 刑罰を軽減してもらえる特典がある。 つまり、被告は検察側と取引(バーゲン)をするのである。 こういう裁判についての考え方には、明らかに、真の裁きは神にまかせておけばよい、 という思想が反映している。われわれがする裁判の目的は、たんに社会の秩序を 保つためであると考えられているのである。 日本人の考え方と根本的にちがっている。わたしの見るところ、日本人は ヒステリックに人を裁こうとする傾向がある。日本人に真の宗教がないから であろうか……。 イスラム教では、犯罪を大きく二種に分類し、それに応じて刑罰も二種に分類されている。 神の権利(ハック・アッラー)としての刑罰……神の命にそむいた犯罪に対して、 神がご自分の権利として科される刑罰。 人間の権利(ハック・アーダミー)としての刑罰……被害者やその親族が権利として 要求する刑罰。 前者の、神の命にそむいた犯罪は、『コーラン』に明記されているもので、 l 姦通 2 姦通についての中傷 3 飲酒 4 窃盗 5 追剥ぎ である。 これは絶対的なもので、人間が勝手な裁量でもって刑罰を加減することはできない。 姦通をすれば石打ちの刑、中傷罪と飲酒罪には鞭打ちの刑、 窃盗罪には手足の交互切断、追剥ぎは死刑、はりつけ、手足の交互切断、 国外追放のいずれかになる。 手足の交互切断とは、初犯は右手、再犯は左足、3犯は左手、4犯は右足が 切り落とされるものである。 5犯以上はどうなるか? その点は明確ではないが、両手両足がなくて、 さて窃盗ができるだろうか……。 次に、人間の権利としての刑罰である。 これがすなわち、「目には目を、歯には歯を」である。 イスラム法では、これを「キサース」(「報復」の意)と呼んで、 基本的な考え方にしている。 「目には目を、歯には歯を」といえば、ちょっと恐ろしいことばに聞こえる。 しかし、じつはマホメットが出現する以前のアラブ社会では、もっと酷い報復が 行なわれていたのである。 「目には命を」といったくらいの拡大報復が、いわばあたりまえであったようである。 ひょっとすれば、われわれだって心の中では、それくらいの拡大復讐を考えて いるかもしれない。 それをマホメットは、「目には目を、歯には歯を」の同害報復にまで下げたのである。 すなわち、被害者(被害者死亡の場合はその相続人)には、自分が受けたと同程度の 傷害を相手に仕返す権利が与えられたわけである。 しかも、イスラム法においては、被害者はこのような同害報復の権利をできるだけ 行使しないようにと求められている。 この場合、被害者のほうがキサースの権利を放棄すると、加害者には「血の代償」 を払う義務が発生する。 「血の代償」とは、一種の賠償金である。実際には、この賠償金によって 解決される事件がほとんどなのである。 したがって、「目には目を、歯には歯を」といった有名な句は、 いわば原則を示したものであって、イスラム教徒が実際にそうやっているわけではない。
どちらの宗教も人間の意志とか力を認めるか。 この問題はむずかしい問題である。まともに取り組めば、一冊の本を書いても 論じきれない。 キリスト教の神は全能の神である。この宇宙を創造した神であり、宇宙を超越して 存在している。したがって、この宇宙におけるあらゆる出来事は、神によってあらかじめ 定められ、神の意志に支配されている ー といった考え方が成立する。 そのような考え方を「予定説」という。 予定説によると、われわれ人間のうち神に救われる者(救いに予定されている者)と 救われない者(滅びに予定されている者)があらかじめ決まっていることになり、 人間の自由意志や努力が認められないことになる。 滅びに予定されている者は、いくら努力しても絶対に救われないのだし、 救いに予定されている者は、いかにしても救われるのであるから。 こう言えば、おかしな考えのように聞こえるが、これはこれで筋が通っている。 救いに予定されている者は、いかにしても救われるわけであるが、じゃあその人 はどんなに悪いことをしても救われるのか……と、わたしたちは反問したくなるが、 しかし、その反問はおかしいのである。 なぜなら、救いに予定されている人は、悪いことができないからである。 悪いことができるというのは、その人に自由意志を認めているので、予定説ではない。 救いに予定されている人は、絶対に悪いことができない。故に、その人は救われる、 というのが予定説である。 逆に、滅びに予定されている人は、善いことができないのである。だから 彼は、滅びにいたるよりほかはない。 これを反対に考えてみよう。わたしたちが自由意志をもっていて、善いことをするのも、 悪いことをするのも、わたしたちの自由だとする。どちらでもできる。そうすると、 どうなる……? 神は善人を救い、悪人を罰するとする。そうすると神は、神の自由がなくなって しまい、神は自動販売機になってしまうだろう。なぜなら、神は善人を必ず救わねば ならない。 しかも、善人であるか否かは、人間が勝手に決められるのである。 ちょうど自動販売機にコインを入れるか入れないかは、人間の勝手であるが、 コインを入れられると、いやでも自動販売機は商品を出さざるを得ない。 それと同じで、神はいやでも善人を救わねばならなくなる。要するに、人間に 自由意志を認めると、神は自動販売機になるのである。 いや、もう一つの考え方がある。善をするか悪をするかは人間の自由だとして、 しかも善人を救うか悪人を罰するかは神の自由だとする。 すると、どうなるか? ときには善人が罰をうけ、悪人が救われることになる。つまり、デタラメになる。 この世がデタラメだとすれば、神の存在理由(レーゾン・デートル)はなくなる。 神があろうとなかろうと、同じになってしまうのだから。 このように考えると、神が万能であれば、結局は予定説を認めざるを得ないことが わかるだろう。 そして、わたしはいま、キリスト教の考え方について説明したのであるが、 イスラム教の神=アッラーも、やはり唯一・絶対の神であり、万能の神であるから、 イスラム教についても同じことが言えるわけである。 つまり、イスラム教においても、本質的には予定説になり、人間の自由意志は 認められない。 けれども、− だからといって、わたしたちは人生に対して投げやりになってはいけない。 キリスト教もイスラム教も、わたしたちを絶望させるために予定説を言っているのでは ない。まったく逆なのである。 すなわち、わたしたちはみずからが救いに予定されていることを確信したとき、 神が命じられた善き業(わざ)をできるのである。 救われるために善き行為をするのではなく、救いが予定されているから 善き行為ができるのである。 予定説をそのように受け取るのが、わたし(ひろさちや)は予定説の正しい理解 だと思っています。 イスラム教徒の慣用句に、 「イン・シャー・アッラー」 がある。 よく知られたことばであるが、文字通りには「もしも神が欲し給うならば」の意味 である。出典は『コーラン』(18章23〜24節)である。 「なにごとにも、『私は明日それをする』などと言ってはならない。 ただし、『神のみ旨ならば』と言い足せばよい」 わたしが出版社に頼まれて、何月何日までに原稿を書きます……と約束します。 しかし、イスラム教徒であれば、そんな約束はしてはいけないのです。 なぜなら、いくらわたしが原稿を書くつもりでいても、未来に何が起こるかは わからないからです。 それに、もしも原稿が書けたとしても、それはわたしの力ではありません。 アッラーがわたしに書かせてくださったのです。アッラーの配慮がなければ、 わたしは病気になって原稿が書けなかったかもしれない。すべてはアッラーの御意 によるのです。そこでわたしは、 「イン・シャー・アッラー(アッラーの御意によって)、わたしは何月何日までに 原稿を書きます」と言わねばなりません。それが『コーラン』の教えです。 日本人の大好きな格言は、 「人事を尽くして天命を待つ」 であろう。 これはほんらいは中国の名言だが、それを忘れさせるくらい、日本的になっている。 ところで、イスラム教徒に言わせると、これほどおかしなことばはないだろう。 わたしたちが人事を尽くせるか否かは、アッラーの御意(それがイコール天命) 次第なのだから。なにも人事を尽くす必要はない。 イスラム教徒であれば、きっとそう言うだろう。 それが、「イン・シャー・アッラー」の意味なのである。 イエス・キリストも、『新約聖書』において同じことを言っている。 「だから、明日(あす)のことまで思い悩むな。明日のことは明日自(みずか)らが 思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(「マタイによる福音書」6) そして、キリスト教徒は、「御意のままにならせたまえ−」と祈るのである。