これは
平成5年に岩手日報から依頼されて書いた5回連載の中の記事です。
 第2回 6/11(金曜日) 館坂橋と白鳥


館坂橋と白鳥      (はしの景観 地域発展 建築と土木)
 館坂橋はごく普通の橋である。毎年学生たちに盛岡の橋の評価を作文に書かせているが、
この館坂橋は旧橋の上流側にくっつけて新橋が並んでいて、平凡な印象であった。
 しかし、ある年から北上川原に白鳥が飛来して、以後定着する姿が盛岡市民に定着して
きた。館坂橋の下流の右岸に白鳥の観察にも適した平地があり、白鳥にえさを与える市民
の姿と、群れをなす白鳥の集団を橋から見るのは歩行者にとっても楽しみになっている
ようである。白鳥とともにたくさんの鴨(雁)も北上川に羽根を休め餌をついばむ姿を見
るのは、近所の大人にとっても子供にとっても楽しいものである。
 この橋の床の修理をするとき、工事をする建設省の方が、工事は北上川の水の少なく
なる冬場に行うことにして、白鳥を驚かすことのないよう注意して工事をします、と付近
の住民に説明をしていた。こうして無事工事もすんで数年たってますます白鳥や鴨が定着
するようになったのを見ると、あの時の関係者の苦労は実を結んだと思う。
  景観とは自然と人間との協力で成り立つ場合もある。白鳥が館坂橋や高松の池や太田橋
付近で盛岡のすみ心地がよいと思って北国に帰った後は、また冬に戻ってくるのである。
 白鳥の姿はあこがれの対象であるが、水辺で休んでいる白鳥が空を飛ぶとは、どう考え
ても不思議であった。大きな白鳥が列をつくって大空をゆうゆうと北へ飛んでいく姿を見
て、白鳥はその大きさにふさわしい翼を持っているのだ、と思ったものだった。
 館坂橋は岩手大学方面から行くと先に五差路があるから、待ち行列が並ぶ。時によると、
上田の坂を下ってすぐの信号まで行列が並んで、青山町や天昌寺方面に行く車はなかなか
進まない。ドライバーにとってはおっくうな通り道である。
 これは橋をめぐる道路の問題である。橋は道路の一部である。交通量の多い道路には車
はたくさん走るから、橋の幅員も交通量をさばくに十分広いものでないといけないが、
付近の道路の用地をたくさん確保するのは、都会の大問題である。盛岡が将来の発展を
めざすには、道路の運べる交通量がなんとも制限となっている。特に橋がネックとなって
いる場合が多いようである。
 盛岡ばかりでなく、他の町も川をはさんだ向かい合った地域どうしが橋がないために
不便になっている場合が多い。行政にたずさわる関係者も、実状は知っていて、なんとか
一橋でも多くの橋を地域に架けたいと努力しているが、なにぶん予算の関係で苦心して
いる。
 橋ができないので地域の交流がすすまなかったのが、橋ができてから飛躍的に発展した
り、便利になって住民が喜んだことなど、我々の回りにたくさんありそうな話である。
具体的な成功例やエピソードなど、住民側からあるいは卒業生で橋建設にたずさわった者
から聞くと、私も嬉しくなる。
  橋を日本の大学では、建築ではなく土木であつかっていることは、あまり知られていな
い。したがって日本の橋梁技術が世界のトップレベルに躍りでたのは、建築技術の勝利で
あると書かれた新聞記事を見て怒った大学の土木の先生がいた。
 日本で土木と建築の区別ができて、すみ分けができたのは、明治になってからのようで
ある。東大に建築学科ができてから、人間の住む建物などは建築学科で研究することに
なった。江戸時代までは、土木という言葉は、内容としてはその中に現代我々がいうとこ
ろの建築と土木の両方を含んでいたようである。大工が家も建て橋も架けていたから。
 江戸時代の名門棟梁の家に保存されていた、皇居の二重橋の図面を調べに都立図書館に
行ったことがある。二重橋とはあの有名な石の眼鏡橋ではなく、その奥に見える鋼の橋の
ことである。そこは堀が深いので、まず橋脚を載せるための小さい木の橋をかけ、それを
基礎に木橋を架けたので、この構造から二重橋とよばれたのである。
 土木学会主催の土木の日(十一月十八日)に、青森出身の伊奈かっぺいが、土木には窓
がないが建築には窓がある、と講演していたのは、なかなかするどい見方であると思った。

岩手の橋のページに戻る。