これは
平成5年に岩手日報から依頼されて書いた5回連載の記事です。
学芸さろん(月曜日)に私の解説記事「岩手の橋」が掲載されました。

 この連載記事は県内の実に多くの方々が読んでくださり、私に手紙をくださったり、
外で会ったときに声をかけられました。
岩手日報の力はすごいものだと思いました。

 テーマとしては、ここ20年近く集めた資料の中から選んで、当大学の1年生が
読んでも興味を持って読めるように心がけました。       

編集委員の六岡康光様には大変お世話になりました。ここにお礼申し上げます。

全5回の原稿締切日と題名です。記事は翌週の月曜日に掲載されました。
 第1回 6/4(金曜日) 林道の一本橋
 第2回 6/11(金曜日) 館坂橋と白鳥
 第3回 6/18(金曜日) 開運橋の歴史
 第4回 6/25(金曜日) 珊瑚橋
 第5回 7/2(金曜日) 真木沢橋と思惟大橋

林道の一本橋      (はしの意味 はしの材料)
 此岸(しがん)と彼岸(ひがん)をつなぐ橋の意味をストレートに表しているのは、
山の中の一本橋(丸木橋)ではないだろうか。歩くことも容易でない丸太の上を慎重に
進み、決して下を見ないことが渡る秘訣であるそうだ。
  人間が最初に橋をかけたのは、大風や落雷などで偶然倒れた大木が川の上に横になって、
その上を人間が歩いて向こう岸に渡ったときであろう。それからは人工的に橋をつくろう
と考えついたのであろう。
 あるいは木の蔓(つる)が空中を渡ってはりわたされたとき、それを伝わって木から木
へと移動する猿の姿を見て、人間が自分の手で吊橋を作るようになったのかもしれない。
 昔から「はし」とは「ものと、ものを、つなぐものである」と定義される。
保田輿重郎(やすだよじゅうろう)のいうように、昔の日本では道のおわり、つまり端
(はし)に橋をかけたという。橋は道の終わりでありながら、その終わりははるか彼方へ
つながれる意味であった。こちらからあちらへとつなぐもの、それがはしである。
 離れたものとものをつなぐのがはしである、という説明の例として、はしご(低い場所
と高い場所をつなぐ)、はしけ(岸と沖の船とをつなぐ)、はしら(地面と屋根をむすぶ)、
食事の箸(食べ物と口をつなぐ)などがある。仲人は男女の間をはし渡しする貴重な存在
であるが、現代の若者は自分で伴侶を見つけるであろうか。情報をデータベース化して
コンピュータの助けで、自分にふさわしい相手を探そうとする若者も多いので、結婚相談
業は繁盛するとも聞く。
 盛岡の岩手公園には「願わくは、われ太平洋の橋とならん」という新渡戸稲造の碑が
ある。これが橋の意味を象徴する、盛岡の代表的な名所の一つである。
  現代の橋梁工学では、橋とは物をこえて物と物をつなぐものである、と説明している。
川をこえる橋もあり、鉄道をまたぐ橋もあり、国道や高速道路をこえて架かっている橋も
ある。それも人や車を渡す橋だけでなく、水を運ぶ運河橋もヨーロッパにはある。京都の
南禅寺の境内には、琵琶湖の水を運ぶ水路のための石のアーチ橋が静かにかかっている。
一見ローマ時代の水道橋を思わせるものであるが、これは明治にできたものである。
NTTの電話回線ケーブルを渡すために川に架けられた橋もある。我々の家庭に電気を
運ぶ送電線もたわんだ曲線を形つくるケーブルとはいえ一種の橋といえるかもしれない。
 橋を作るための材料として、初期の橋では木、蔓(つる)や蔦(つた)、石があった。
これらは自然にあった材料を使ったものである。それから文明の進むとともに鉄や鋼や
コンクリートが使われるようになった。岩手でも鋼やコンクリートの橋が多く目につくが、
石を積み上げた橋があってもよい。岩手公園の石垣はその曲線からして一種のアーチ形を
作っている。最近は公園などで環境にやさしい木の橋が多く作られる傾向にある。我々の
住宅も部屋も木で作られていると心がなごむことからも、木のもつ性質はこれから再認識
されるであろう。
 ところで鉄と鋼は、一般には鋼鉄などというように、鉄と鋼とを区別されて使われては
いない。ではいったい鉄(iron)と鋼(steel)の違いはなんであろうか。答は炭素の割合
が2パーセント以上含まれる場合は鉄となる。鉄は南部鉄瓶などのようにとにかく硬い、
しかし脆い。引っ張り力が加わると切れやすい。落とすとひびが入る。構造部材としては
鋼がまさる。歴史的に鉄はなんとか作ることができても、純粋な鋼を大量に生産するには
人類は時間がかかった。日本では「鉄筋コンクリート」というが、中国では「鋼筋コンク
リート」という。実際はコンクリートの中に鋼棒を埋め込むのであるから、中国語のほう
が正しいのであるが、「鉄筋コンクリート」は慣用語として今も使われている。
  このシリーズは、岩手の代表的な橋をいとぐちにしながら、橋をめぐる話を思いつく
ままにつづっていくつもりである。

館坂橋と白鳥      (はしの景観 地域発展 建築と土木)
館坂橋と白鳥(別ファイルにしました)

開運橋  (上路橋と下路橋 駅と町の発展)
 開運橋は盛岡駅前にある。盛岡の顔ともいうべき橋である。
 初めて盛岡にきて、この橋を渡って「開運」というえんぎの良い名前で岩手大学に合格
できたから、この橋が好きだ、という学生の感想文があった。
大学で橋梁工学を教えていて、ひととおり橋梁形式を学び橋の力学や機能性のなんたるか
を理解した学生に、盛岡の橋の中で好きな橋と嫌いな橋をあげて、その理由を書かせる
宿題を出している。
 開運橋は、好きだというものと、嫌いだというものの半々に分かれる橋である。好きだ
という理由は先にあげたような名前のひびきのよさから、さらにそのアーチ形式の構造の
美しさとか鉄骨の力強さを賞賛するものまである。
 嫌いだという立場は、交通量の多さに対して橋がもう狭くなってきていて交通渋滞と
セットになって橋の印象がとらえられているのと、いかにも檻の中に入っているかのよう
に、頭の上にも鉄骨が組まれているというのがその理由である。
 最近の傾向として、開運橋のように、橋の上にも構造部材がたくさん配置されている
形式の橋は見晴らしが悪いからドライバーに敬遠される。橋の上には視線をさえぎるもの
が何もない方がよいというわけである。
 しかし、瀬戸大橋のように、大きな橋は構造でもっているため、景観が大事だといって
もしようがないときもある。橋の上に何もおかない構造にしたいなら、海中に無数に多く
の橋脚を立て込まないといけない。そうなれば経済的に建設不可能になろう。
 私は盛岡は川の町だから橋が多い、できたらいろんな種類の形式の橋が見られるといい
と思う。盛岡の町が橋の生きた博物館である、そういう町であってほしいと思っている。
 美的感覚とはファッションにも見られるように流行がある。現在人々にもてはやされる
スタイルも将来流行でなくなることもある。景観という言葉が一人歩きをしているこの頃
であるが、あくまでも力学的に丈夫で維持管理のしやすいものでなくてはいけない。その
上に人間の感覚にとって不愉快でないものがいい。
 現在の市民が多数決で構造物の形式を選ぶことも行われているようであるが、必ずしも
それが万能とは思わない。著名な建築家が自分の芸術信念で新しいものを建設するなら
それも結構である。建築家の挑戦をすぐ受け入れたくない人でも、見慣れてくると認識を
改める場合があるからである。パリのシンボルであるエッフェル塔も最初はパリの景観を
破壊するものと反対意見が多かったという。しかし時間の経過とともにいつしか、パリの
町にはなくてはならないものとなってしまった。歴史が景観を作った、あるいは人々が慣
れるのに時間がかかったということであろうか。
 たいていの町がそうであるように、明治になって鉄道が敷かれたとき、鉄道は都会の悪
いもの(ばい煙とか犯罪)を運んでくるから、できるだけ町から離れた町外れに建設すべ
きであるという住民の声が強かった。盛岡の町も例外ではなかった。そのため、肴町どこ
ろか菜園からもずっと離れた北上川を越えた場所に線路が敷かれ、盛岡駅は町から離れた
場所に建設された。盛岡駅と町の中心部を結ぶために、開運橋が建設されたのである。
 開運橋が最初に架設されたのは、明治23年9月であるという。当時の知事石井省一郎
が、消防の親方などに命じて火消しや大工の手で木橋が架けられたそうだ。大正6年に
鋼製のプラットトラスが架けられ、その後昭和28年に現在のランガートラスが架けられた。
 こうして盛岡駅の付近はしだいに発展し、新幹線開通とともに駅付近でも「わんこそば」
が食べられるようになった。時間のない旅行客にとって、大通りまで行かなくても、駅の
近くでわんこそばを食べたり、冷麺を食べたりできるのは現代の生活にあっているので
ある。魚釣りに行くにはポイントが大事だとか。食べ物商売も場所を選べば客が後をたた
ない。そういう場所を作ってくれたのが開運橋と新幹線の駅であろうか。

珊瑚橋  (ゲルバートラス 展勝地)
 珊瑚橋は名橋である。形式的には吊橋ではなくて、ゲルバートラスという。ゲルバー
とはこの形式を考えて1866年に特許をとったドイツ人技術者の名前であり、トラスとは
部材を組み合わせて三角形を構成要素としてできる構造形式をいう。北上には東北新幹線
のトラス形式の鉄橋が架かっている。
 ゲルバー形式にすると大きな橋が架けられやすいので、世界的にも有名なイギリスの
フォース橋やカナダのケベック橋や大阪の南港連絡橋(港大橋)などがある。ただし大き
な橋になると、両岸から突き出した張出部の間に中央のトラス桁部分を載せるために、
それを効果的に支えるべく川の中の橋脚の上に立てられる柱部材は高くそびえ立つ。
 珊瑚橋は北上インターチェンジと大船渡行きの道路、あるいは江刺行きの道路を結ぶ
道路の要ともなる場所に位置するので、交通量が多い。しかし、片側一車線で計二車線
しかないので、バスとバスがすれ違うときは技術を要するような気がする。時代の要請に
こたえて、新しい橋がのぞまれる。しかし、歴史的にも価値のあるこの橋を残して、上流
にもう一本橋が架けられることになった。関係者のこの配慮はすばらしい。
 珊瑚橋には本体の橋と並んで下流側に歩道橋が架けられている。この歩道橋は斜張橋と
いってケーブルで斜めに桁を吊っている構造である。この形式の橋では岩手県で最初に架
けられたもので、日本全国の中でも比較的早かった。この頃は斜張橋がもてはやされ、
あちらでもこちらでも斜張橋の姿が目につくようになったが、今から20年近くも前に
珊瑚橋に並べて斜張橋を架けたことは、県当局の積極性が感じられる。珊瑚橋は川の中に
中間の橋脚が2本しかないので、歩道橋の橋脚もこの橋脚の間隔にあわせるとなると、
長い空間を越えなくてはならず、普通の桁形式では困難であるため、斜張橋しか選べなか
ったからであろう。もちろんアーチや吊橋でも建設可能であったが、経済的なことや珊瑚
橋の景観をなるべくこわさないように、との配慮もあったのであろう。
 北上の展勝地の桜並木は汽車からも見ることができる。展勝地生みの親とされる元県議
沢藤幸治がこの珊瑚橋の永久橋架替えに骨を折ったという。珊瑚橋はそれまでの木橋が
昭和8年に鋼橋に架替えられた。展勝地と珊瑚橋とそばにあるみちのく民俗村、これらは
北上市の力の入れた名所である。この橋から東に2キロ行くと重要文化財毘沙門堂があり、
ここから橋の名が生まれた珊瑚岳へのハイキングコースがはじまる。
  みちのく民俗村は、北上川流域に残された古民家や、歴史的建造物を一同に集め、展示
保存した野外博物館である。縄文時代の縦穴式住居、藩政時代の豪農屋敷、商家武家屋敷、
豪雪農家、南部曲り屋、境番所などが移築され、豊かな自然の中で大切に保存されている。
 村の中には北上市立博物館があり、北上川と北上山地を中心として生きてきた人々の
歴史と、北上周辺の自然科学を学ぶことができる。
 さらに領境塚は、1641年に南部領・伊達領の領境協定が結ばれ、翌年、奥羽山脈駒ヶ
岳山頂から太平洋の唐丹湾まで境が確定したときの、藩政時代の貴重な史跡である。
  北上川の脇の駐車場の南のはずれにある北上夜曲碑も、観光のポイントとなっており、
他の地方からの旅行者を連れて、時間の許す限り案内したいものである。
 この展勝地みちのく民族村の情報は、ハイテクネットとうほくを通じて、北上市のパン
チ工業の伊藤乃氏よりパソコン通信の電子メールで教えていただいた。ハイテクネット
とうほくとは、最初は科学技術庁のきもいりで岩手県庁がサービスを始めた、新潟を含め
た東北7県の産学官を結ぶ研究交流ネットワークであるが、現在は、いわてテクノポリス
財団に管理が移っている。盛岡にキーステーションがあるため、特に岩手県内の大学や
試験場や企業の研究者たちとの技術交流がさかんに行われている。この原稿も伊藤氏に
電子メールとして送り、訂正意見などの返事も電子メールで受け取ったものである。
これからこのような方式で、研究打合せ等が活発になると思われる。

真木沢橋と思惟大橋      (橋の公園 アーチの形)
 陸中海岸国立公園の名所北山崎のある田野畑村は、リアス式海岸の特徴をよく表して
いて、山と谷の多い村である。したがって深い谷に大きな橋がたくさん架けられている。
中でも真木沢橋は深い谷に架けられた橋として有名であり、また自殺者があとを絶たない
ことからも話題の橋である。
 最近まで大学の私の研究室の前に、この真木沢橋の模型を置いておいた。これは、この
橋を作った橋梁会社が、岩手県庁に説明用の模型を提出したもので、その時県庁に寄贈
されたものが回り回って、私の管理するところとなった。いちおう大学の財産とするため、
改めて会社から大学宛に寄贈願いなるものを書いていただいた、といういきさつがある。
 ところが、田野畑村にこれまた深い谷に架けられたアーチ橋である思惟大橋ができて、
田野畑村は大きな橋が多い村だから、思惟大橋のそばに橋の公園(思惟公園)を作ろうと
いう村の計画が立てられた。そして、村にゆかりのある真木沢橋の模型を、橋の公園の中
に建設される橋の博物館に寄贈してほしい、との村長さんからの依頼があった。真木沢橋
の模型はそれにふさわしい安住の地を見つけたのだから、私もこころよく田野畑村に橋の
模型を引き渡した。しかし、文部省の財産だから、田野畑村村長さんから岩手大学学長宛
に、管理替え願い書を書いていただくという、手続きをとらざるをえなかった。
 真木沢橋も思惟大橋も盛岡駅前の開運橋と同じアーチ橋である。しかし、開運橋は橋の
構造形式がよくわかるようになって橋の下の部分を人や車が通っている。この形式を下路
橋という。これに対して真木沢橋と思惟大橋は、橋の上を車が通過する形式、つまり上路
橋なので、気をつけてみないと、橋の下がアーチになっているか、そうでないかはわから
ない。橋の下のアーチ構造を見たかったら、橋のわきの適当な場所を探して、ゆっくりと
橋の構造を眺める必要がある。もちろん美的な要求のためにだけ橋がアーチ構造になって
いるわけではなく、深い谷に高い橋脚を建てる困難をさけるために、大きな空間をひと
またぎするために考えられたアーチ構造なのであるが、結果的には雄大な自然景観と
アーチの曲線がマッチして、美しい絵となっている。
 アーチの曲線が現代のようになるまでには歴史があった。初期のアーチは半円が主で
あった。しかし半円では深さ(半径)の倍が、アーチ橋の長さになり、広い川をわたるに
はどうしてもアーチの高さ(深さ)が大きなものになってしまう。その結果、太鼓橋の
ように橋の中央が高くなって、山をのぼるように橋をわたらなければならない。
 それで橋の長さ(専門的には支間という)をある程度長くするのは実用的に問題がある
ので、人間は偏平なアーチを作ることを発明した。半円より狭い円弧の一部を橋に使う
ようになった。これを弓形アーチとか欠円アーチという。つまり円の一部を切りとった形
であるから。その次に、色々の半径の異なったアーチをつなぎあわせて作った、いわゆる
「かご手形アーチ(多中心アーチ)」を考案した。そして、現在も広く用いられている
放物線アーチにたどりついたのである。ちなみに吊橋のケーブルの曲線は、この放物線
アーチの形をひっくり返した、逆放物線となっている。
 暇があったら、車で思惟大橋の下に続く道にそって降りて、下から橋の構造と谷に架か
る橋の雄大さを眺めるのもよい。つまり宮古方面から久慈に向かって思惟大橋を渡って左
の道に曲がり、下に降りていく旧道をたどればよい。この思惟大橋の下の谷の道を下って
海に出ると、三陸縦貫鉄道の島越駅がある。ここに宮沢賢治の銀河鉄道のデザインをあし
らった、おいしいアイスクリームが売っている。
  さきにあげた橋の公園には、木橋がいくつか架けられている。木の橋は、鋼やコンクリ
ートでできた機能一辺倒の橋にあきたらず、機能は度外視しても素朴な手作り感触への
回帰といった意味があるかもしれない。しかし、この公園の木橋は単純な丸木橋ではなく、
みな現代橋梁工学の粋をこらした形式となっていて、見ていても勉強になる。

その他の著書のページに戻る。