これは
当時の庶務課長から依頼され(財)日本国際教育協会「国際交流」平成4年第9号
に書いた原稿です。
留学生をたくさん受け入れる努力を当時もしましたが、今もしています。

留学生受入れの現状と課題

 岩手大学国際交流委員会委員長  宮本 裕

1 はじめに
 政府は21世紀初頭には10万人の留学生
受入れを目標に各種施策を講じており、各国
立大学に対しては、その際学生在籍定員の5
%に相当する留学生の受入れを期待している
と言われている。岩手大学の場合、在籍日本
人学生は約5800人で単純計算しても約2
90人の留学生を受入れることが期待されて
いるわけだが、目下の留学生は67人であり、
これを現在の4倍以上にしなければならない
ことになる。留学生の増加にともなう様々な
問題が考えられるが、それらについては今後
国際交流委員会で検討していきたい。
 
 なお、これまでの留学生の伸びを統計的に
見ると図1のようになり、国別内訳は図2の
ようになる。

2 岩手大学の受入れの現状
 これまで集めた、岩手大学における留学生
の日常生活と研究環境についての体験とか、
受入れ側の研究室の感想意見などを、この機
会を利用して整理したい。ここで述べること
は留学生の状況の一部であるが、このような
テーマについて考えることが、留学生の盛岡
あるいは日本での研究生活にとってプラスに
なれば幸いである。

 (1) 後援会の設立
 留学生を物心両面から支援するため、後援
会が設置され、とりあえず学内の教職員に賛
同を呼びかけることになった。これは増えゆ
く留学生のための体制作りの1つである。

 (2) ホームステイ
 毎年留学生のための見学旅行を行っている
が、私は平成3年秋に参加する機会を得た。
わずか2泊の旅行であったが、色々な国の若
者が同じバスに乗って、三陸海岸を旅行した
のは良い思い出になったに違いない。

 最初の夜は野田村でめいめいに分かれて、
ホームステイをすることになっていた。夜の
役場で、それぞれの受入れ家族と世話になる
留学生たちの対面式があって、1時間後に着
替えた留学生とその里親たちが、太鼓のアト
ラクションを見に集まってきた。日本の着物
を着せられた若い女の留学生は、やはりうれ
しいようで何度も写真にポーズを作っていた。
そのホームステイの主人も和服姿で現れて、
自分の息子も岩手大学を卒業して現在会社か
ら派遣されアメリカ留学中で、自分の子ども
の姿と今いる留学生の姿を重ねていた。

 (3) 日本式入浴法
 この旅行参加者の中に、インドネシアの学
生たちがたくさんいた。2日目はみな同じホ
テルに泊まることになり、疲れた私はすぐ入
浴することにした。浴槽はかなり広く同時に
20名以上入浴できるように思われた。

 私が1人でのんびり入っていると、インド
ネシアの青年たちが入ってきた。ふと見ると
みんなバスタオルで上半身を覆っている。し
かも海水パンツをはいている。まるでプール
だ。どうするのかなと思って見ていたら、ま
ずシャワーで体を洗っていた。やがておもむ
ろに浴槽に入ってきた。しかしあいかわらず
パンツをはいたままである。さては日本式の
風呂に入ったことがないのかと思い、日本で
は着物はみな脱いで入浴するということを説
明した。その中で一番若い学生だけは私のい
うことにしたがって、裸になって湯の中に入
ってきた。なんでも、このように他人の前で
裸になることは、生まれて初めての経験だと
か。他の留学生たちは、私の説明を聞いてニ
ヤニヤしながら、浴槽のそばで互いに相談し
ていたようであつたが、とうとう浴槽には入
らずシャワーだけで出て行ってしまった。

 日本式の入浴方法を押しつけたことがよか
ったのかいけなかったのか、今も迷っている。
しかし、彼らが日本のどこかで、日本人にと
って奇妙な入浴方法をとるなら、他の日本人
に怪しまれるだろう。郷に入っては郷に従えの
ごとく、日本式の入浴方法のよさも体験して帰
国してほしいというのは欲張った願いだろうか。

 (4) 留学生のいだく問題
 留学生を受入れている先生方から聞いた、
いくつかの例を紹介したい。

 ある留学生は、それまでの生活の無理がた
たったのか日本で生活しているうちに病気に
なってしまった。食べ物の違いによるストレ
スもけっこうあるようである。たとえば回教
徒は豚肉を食べない。意外に豚肉はどこにで
も入っていて、たとえばスープの味だしに使
っていることも多い。大学の食堂で、いつも
鳥とか羊の肉を食べるのは面倒だ。

 私も1人中国人留学生を受入れているが、
ある時中国から国際電話がかかってきて、隣
の部屋にいるその中国人留学生に電話に出て
もらった。たちまち北京語の会話になった。
後で留学生が説明するには、数か月後に岩手
大学に留学が決まっていたので、盛岡の住ま
いとか生活についてのアドバイスを求めての
電話であった。
 
盛岡では中国人留学生の会があり、毎年大
学祭に開店される彼らの水鮫子レストランは、
大人気である。その会長は現在電子工学科の
三年生であるが、私のところの中国人留学生
が初めて盛岡に到着するとき、飛行機の遅れ
で盛岡早朝着の寝台車で来ることになり、暗
いうちに駅まで出てもらった。日本に来たば
かりの留学生にとっても心強かったであろう
が、迎える我々にもありがたかった。

 ケニアからの国費留学生が3人いる。彼ら
は日本の資金協力により設立されたジョモケ
ニヤッタ農工大学の教官であり、教授能力を
高めるために岩手大学に留学したものである。
ところが最初は盛岡での生活がなじめなくホ
ームシックにかかつていたようであるが、そ
のことを聞いて、かつて青年海外協力隊でケ
二アで仕事をしたことのある人たちが、ケニ
アの留学生たちを囲んでケニアの話をしたり、
パーティに誘ったりしているうちに元気をと
りもどし、今では岩手大学でも名物的な存在
となっている。

 (5) 留学生のための交流会
 大学生協が主催して、留学生のそれぞれの
国の料理を作り合って、日本人学生も加わっ
て、できた料理をみんなで食べて、話し合い
ながら相互理解を深めることも楽しい。

 盛岡にはミックス(MICS)というボラ
ンティアの団体があって、留学生の生活に役
立つ日本語会話講座をしたり、留学生を花見
に連れて行ったり、留学生による日本語劇を
上演したりしている。また盛岡に来た留学生
が最初は部屋に何もないので、机やコタツな
どの生活用品を用意することになるが、なか
なか出費が大きいものである。そこで中古品
やまだ新しい不要品を慈善家から集め、これ
を留学生に斡旋したりしている。

3 留学で得た体験
 今から10年前、私はドイツより奨学金を
受けた研究留学生であったが、けがをして心
細い気持ちで病院に行ったことや、ヨーロッ
パのローマ伝統文化とは全然異質な東洋文化
の再発見をアジアの学生たちと語り合ったり
したものである。語学は恥をかくたびに上達
するものである、ということも体験した。

 私の体験から整理して、国際化とは、自己を
認識しながら相手の人格を認めることである
と思う。そして自己と他人の違いは違いとして
認め、自分を深めることがなければ意味がない。

 私の恥いっぱいの心細かった体験を背景に、
岩手大学で学ぶ留学生にはできるだけ日本で
良い思い出を作って、日本での留学の成果を
あげていってほしいと思っている。経済大国
といっても日本にはたいした資源もない、た
だ努力の積み重ねで良い製品を作って、貿易
で国際間のすき間をついて利益をあげている
だけである。留学生が帰国して、その留学生の
まわりで日本の理解者の輪を広げて、日本がこ
れからの国際社会で孤立しないようになること
が、我々の子孫にとってもよいことであろう。

4 国としてなすべきこと

 (1) (入国当初の)国費留学生への
     給与を早く
 国費留学生の場合でも、年度当初は手続き
に時間がかかるせいか奨学金がすぐ手にでき
ない現状である。一方ではすぐ住居に入居し
ないと生活できない。入居するには家賃だけ
でなく、敷金、礼金、権利金と一度に大きな
出費がある。たいていの場合、受入れる教官
が保証人となって、共済組合から一時金を借
り入れ、奨学金が支給され共済組合に返済す
る方式がよくとられている。このような教官
の負担を軽減するためにも、先に述べたよう
に後援会が設置されたのである。

 (2) 留学フエアヘの参加
 日本の大学の教職員が自分の大学をPRし、
かつ帰国留学生たちを訪ねて再会する留学フ
ェアがある。大きな大学ならいろいろなチャ
ンスもあろうが、地方大学ではなかなか予算
のあてもなく、できることなら地方大学に特
別の予算補助を考えていただきたいものであ
る。帰国留学生のアフターケアとなり、岩手
大学で学んだ留学生同士の横のつながりがで
き、連絡が密になることもあり、さらにそれ
らのネットワークから新たに岩手大学に留学
しようという若い力が生まれるはずなので。

 (3) 公的保証機関の設置を望む
 留学生の保証人になることはリスクをとも
なうことでもある。以前に岩手大学に留学し、
その後国際結婚をして日本に在住する者が、
交通事故を起こしたということで、もう盛岡
にはいないにもかかわらず、所属していた研
究室に現地の警察から問い合わせがあったこ
とがある。

 保証人の公的保証機関を設けてほしいとい
う声が多い。留学生を受入れる教官は、集中
的に留学生を受入れるケースがよくあり、保
証することが累積する。アパート火災などと
うてい個人で保証しきれるものではない。

 (4) 地方への分散を望む
 このように、岩手では比較的留学生たちは
大事にされているようである。むしろ東京や
大阪では大勢の中のひとしずくといった存在
で孤独な留学生の話も聞く。留学生たちが大
事にされているのは、珍しさといった理由も
あるかもしれないが、岩手県民が国際交流に
関心があるせいかもしれない。たとえば、岩
手ではユネスコ協会が割合多く設置されてい
る。
 
 岩手は南部藩時代も辺境にあって文化果つ
るところなれど、向学心に燃える先人が多く
生まれたところである。

 シーボルトからドクトルの称号を授けられ
た蘭学者高野長英、国産で最初の高炉から銑
鉄を作った大島高任、彼の建設した藩校日新
堂で学んだ国際人新渡戸稲造、政党政治の基
礎をつくった平民宰相原敬、関東大震災後の
東京市長の後藤新平、太平洋戦争終局に海軍
大臣として亡国から救った米内光政、アイヌ
語学者金田一京助など枚挙にいとまがない。
辺境ゆえに情報に遅れ賊軍の汚名を着せられ、
身を立てるには万人の認める学問で成果をあ
げるか、軍人になるか、政治家になるしかな
かった。ひたむきに努力し、都にのぼり世界
に目を向ける姿勢が、岩手の伝統として残っ
ているから、留学生を積極的に受入れ、自ら
も国際交流を通じて人格形成にはげむのであ
ろうか。

 来年の2月には世界アルペン競技会が盛岡
で開催されることになっているが、国際化に
向けて市民の努力が見られる。ボランティア
通訳のための講習会もいよいよ熱が入り、駅
構内や街角の英語案内の改善にも市民の声が
反映されている。

 岩手に来ればあたたかく世話をしてくれる
人々がいる。もっと多くの留学生が岩手の地
に学び、国際交流の成果をあげることを切望
する。

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