岩手植物の会の会長、須川長之助の研究家井上幸三先生に頼まれて書いた
私の最初の本でした。
これも科学談話会で井上先生の講演を聞いたのがきっかけです。
科学談話会では多くの立派な先生方と知り合いになれました。

l 橋と太田橋の構造について

一 まえがき

「雫石川と太田橋」についての本を出版することを計画しているから、太田橋の構造に ついて原稿を書いてほしいと、井上幸三氏から依頼を受けた。 私は大学を卒業してから、ずっと、岩手大学に勤務してきたので、実際に現場で橋の建設 の責任者となった経験はない。そういうわけで、ご期待に添いかねるかも知れない。 しかし大学で、、橋梁工学の講義をしているので、自分のためにも、社会のためにも研究 を続けていくつもりである以上、社会における自己の役割は、橋の専門家になることだ との認識に立って、お引受けしたのである。 工学は理学と違って直接的に社会生活に役に立つことだと考えている。だからこの機会を 生かして、少しでも多くのみな様に、橋に対する興味を持っていただけるなら、それも 有意義なことだと信じる。また、私もこの機会に「橋」というものについて、ひとつの まとめをしてみたいと思う。 そこで、テーマは「橋と太田橋の構造について」であるが、内容は、学問的に正確な むずかしいものではなく、数学も力学も用いない、気楽に、しかも平易に読める一般向け のものにしたいと思う。 はしの語源 はしの語源について、多くの文献を読んだわけではないが、保田輿重郎の「日木の橋」 という本の中には、こういうことが書いてある。 むかし、日本の旅人は山野の道を歩いた。そして道の終わりに橋を作った。 はしは道の終わりでもあった。その終わりは、はるか彼方へつながれる意味であった。 つまり、むかしからはしは端末を意味し、仲介としての舟を意味し、「橋」や「箸」や 「梯」の字をあてていた、というのである。 それで、私は講義の時には、「橋」とは物と物とをつなぎ、ものを越えて渡すもので あると説明する。「橋梁」は特にものを越える構造物である。人と人とを結びつける 仲人も、「はし渡し」の役割をはたしている。盛岡には、”世代にかける橋”という 集まりがあるが、これも橋という意味をよくとらえていると思う。 そして、岩手公園には、新渡戸稲造博士の”願はくは、われ太平洋の橋とならん” の碑があるが、その意味を表徴したものとして感銘深いものである。

二 大橋と名橋

この世で一番大きな橋 この世で一番大きな橋は何であろうか。 アメリカのベラザノ・ナロウズ橋は世界一長い吊橋でその長さは、一、二九八メートル ある。 しかしこの世で一番大きな橋は、それよりはるかに大きいのである。 それは七夕の夜に天の川にかけられた鵠(かささぎ)の橋である。 私が小学一年生の時、担任の女の先生から聞いた七夕の伝説である。 むかし立派な若者の彦星(ひこぼし)と美しい娘の織姫(おりひめ)とがいた。 ある時二人は知り合った。そしてお互いに好きになり、それからいつも一緒にすごす ようになった。ところが、一人でいる時は二人とも真面目な働き者だったのに、 一緒にいるようになってからは、仕事が手につかないありさまである。 これを知った神様は怒って、二人を天の川の両側に別けてしまった。別けられた二人は 初め悲しみ泣いてばかりいたが、そのうちあきらめて、またもとのようにー生けん命 働くようになった。 これを見て神様は彦星と織姫に、一年に一度、七月七日の夜にだけ会うことを許すこと にした。この時、天の川の上に鴉が羽を並べて橋をかけてくれるのである。 地球は火星や木鼠などと一緒に、太陽のまわりをまわっていて、太陽系という星の集り の中の一つの星にすぎない。 しかしその太陽系も、銀河系というとほうもない大きな集りにくらべたら、 その中のちっぽけなかけらにしかすぎない。このとほうもなく大きな銀河系が”天の川” である。だから天の川にくらべると、地球などは虫めがねで見ても見えないくらいである。 そんな大きな天の川にかける橋であるから、どんなに大きな橋か、おわかりだと思う。 日本の名橋 日本の奇橋として、昔から木曾の桟橋(かけはし)、甲斐の猿橋、岩国の錦帯橋が 知られている。 錦帯橋は世界に誇る木造アーチ橋で、延宝元年(一六七三)に作られたと言われている。 猿橋は深い谷の上にかけられた橋で、両側から少し伸ばした構造物の上に、また構造物を 作り、これも少し伸ばすというふうにして、少しずつ伸ばしてついに川の真中で、 一つの橋にまとめた、珍しい工法の橋である。嘉禄二年(一二二六)に、すでに文献に 見られるので、相当古い橋で極めて貴垂な文化財である。 これらのほかに、最近では四国の祖谷(いや)のかずら橋が、日本の原始的吊橋 (つりばし)として有名である。平家の落人部落の深い谷にかけられた吊橋(つりばし) は、葛(かずら)(シラクチカズラ)でつくられている。 現在でこそ吊橋は鉄のケーブルでできているが、ひと昔前は麻ロープであった。 しかし麻ロープは弱いので、アメリカのローブリングがワイヤー(鉄線)をより合わせて、 ロープを作ることを思いついたので、飛躍的進歩をとげたものである。 ローブリングは、一八三一年ドイツから海を渡って新大陸の開拓にやって来て、 このワイヤー・ロープの製造会社を設立し、後にはナイヤガラ鉄道吊橋など、 当時の最大の吊橋をどんどんかけ、近代吊橋の父と呼ばれている。ローブリングは もともと、ドイツで橋梁工学を勉強して、将来を期待されていたから、 たとえアメリカに渡らなくとも、立派な仕事をしたと思われる。 しかし開拓当時のアメリカは、若いこの有能な技術者にとって、やりがいのある仕事 がいっぱいあって、毎日楽しかったに違いない。 話がわきへはずれたが、もっと大昔の吊橋は木のつるや葛でできていたのである。 これは世界中どこも同じであったようである。 ただこの祖谷のかずら橋は、ゆらゆら揺れる橋を補強するために、両岸からそれぞれ 斜めのケーブルを張って、吊橋をさらに吊っているところに特徴がある。 吊橋とあとで述べる斜張橋とが一緒になったものといえよう。 一度このかずら橋の架橋の様子をテレビで見たことがあるが、昔はたくさんあった かずら橋も、今ではーつか二つかになってしまったようである。また現在あるこの橋も、 観光用に特別に、何年に一度か架けかえて残しているということである。 もう一つ忘れてならないのが、裁断橋である。これも先ほどあげた「日本の橋」の中に 書かれているが、いかにも日本の伝統の橋という気がする。 これは名古屋の熱田の町を流れている精進川に架けられており、その青銅擬宝珠には、 つぎのような意味の美しい銘文が、和文と漢文とで書かれてある。 ”この橋は天正十八年(一五九〇)の小田原陣に豊臣秀吉に従って、出陣戦没した、 堀尾金助という若武者の三十三回忌の供養のために、母が架けたものである。 後のよの又のちまで、このかきつけを見る人は、逸岩世俊(いつかんせいしゅん)と 念仏してください。” 逸岩世俊禅定門というのは金助の戒名である。 私はその母の気持をこう思うのである。愛児の菩提を祈り、供養のために、 人々の交通の難儀を救おうとして橋を架けたのであるが、 そのほかに人々がこの橋を渡るのを見て、そのように自分の子供も彼岸の彼方に 達するように、また自分がこの世とあの世とをつなぐ橋を渡って、恋しい息子の姿を 一目でも見ることができたらいいのにという、深い願いがこめられているのだと 思うのである。 ところが残念なことに、大正十五年(一九二六)に精進川は埋め立てられ、裁断橋は 取りこわされてしまった。しかし昭和二十八年(一九五三)に名古屋市は、市民の切なる 願いに添って、姥(うば)堂境内に裁断橋を再建したのである。 私は一昨年名古屋で学会があった折、案内書に従って熱田神宮のそばの、伝馬町の 姥(うば)堂を探して裁断橋を見ることが出来た。擬宝珠には丈夫なステンレスの金網が かぶせてあり、厳重な防備なので、見た目には感じがよくなかった。 またこの橋は橋そのものだけを境内にもって来てあるので、川も池もない。 橋という役目を奪われた裁断橋は、大変気の毒に見えたのである。 こういう文化財の保存は、むずかしいものだと痛感させられた。


三 橋の形式

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