これは
橋梁新聞に連載されているリレー橋友録「私の橋歴書」のために頼まれて
書いた原稿です。
全国の著名な橋梁工学の大学教授や、架橋の仕事に携わる
行政の立場の人、あるいは実務の立場の人、橋梁製作
メーカーなど第一線の技術者たちがリレー式に原稿を書いていっています。

私も前の執筆者から紹介され、この原稿を書きました。
当然、私も次の執筆者を指名しています(いちおう了解をとりますが)。

皆さんの原稿は自分の手がけた橋梁技術について力をこめて書かれています。
そこで私はわざと橋だけではなく、自分の子どもの頃の興味の対象が
しだいに変わっていって最後に橋梁工学にたどりついたことを説明しました。
ややサービス精神が旺盛で、その結果他の執筆者の文章から浮いた存在に
なったかもしれません。
でも、こういう原稿があってもよいと思っています。
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恐竜から橋梁へ
                岩手大学工学部 宮本 裕
 皆様は若い時将来進む道をどう選んだろうか。私は小学生の時化石に興味があり、
明石原人の直良信夫の本を愛読した。古生物学者として恐竜を発掘する事を夢見た
ものだった。

中学生の時化石採集のつもりで採集クラブに入ったが、指導の先生の影響を受けて
蝶の採集のとりこになった。

春先にだけ飛ぶヒメギフチョウを飼育して、食草を求めて毎日川の崖を下りて探した
ものだった。

当時深い川に 鉄道橋(単純プレートガーダー)が架けられていて、 高い橋脚の上に
よくあんな橋を作ったものだと子供心に感心するとともに恐怖心すら覚えた。

私の昆虫の趣味は続き、土木学会全国大会が九州で開催される度、九大の蝶の世界的
権威白水隆先生にお目にかかっている。白水先生の推薦で、環境庁緑の調査員(蝶の
調査)に加えていただいた。

 大学の教養部から学部移行をする時、生物学が好きなので、農学部の農業生物、
農芸化学、あるいは獣医学科、理学部の地質学科、生物学科など考えた末、生物学を
工学に応用した衛生工学科に決めることにした。

間際になりある先輩から助言を得て土木工学科を選択した(衛生工学科の学生は国家
公務員試験を土木の分野で受験するため、土木工学科の仲間からノートを借りて勉強
している。土木工学科に進めば就職に衛生工学の分野も選べる)。

 3年生の夏期実習で建設省の関東地方建設局を選び、横浜国道工事事務所のお世話
になった。大磯出張所の現場で若き日の三谷浩氏の薫陶を受けたものだった(三谷氏
は記憶しておられるだろうか)。

横浜国道工事事務所で北大の渡辺先生の建設省時代の活躍の話を聞き、卒業研究講座
に渡辺先生の講座を希望した。

 渡辺先生の講座は一番人気があり優秀な学生が集まる激戦状態であったが、今教授
や北郷学科主任のお世話でなんとか私の希望は実現できた。

橋梁学講座を選んだ理由は、好きな数学を使って設計に役立てたいと思ったことと、
無意識の世界では子供の頃見た深い川に橋を架けた人々の偉大さに畏敬の念を持って
いたためであろう。

 渡辺先生は説明が上手で講義も非常によく理解でき、私も大学生活の中で最高に
勉強して、国家公務員上級試験にも合格できたが、まだ勉強の不足を自覚していたの
で、両親の支援も受け大学院博士課程をおくることができた。

 就職は岩手大学に採用されることになり、母方先祖の地盛岡に墓もあり、母が大変
喜んでくれた。

また就職した学科の前身採鉱科の卒業生名簿に高校時代の数学の恩師の名前を発見
した。この先生のきちんと計算せよという指導(展開式は省略しないで書く等)が
今日の私の研究者としての基礎になり感謝している。

 渡辺先生や芳村先生や稼農先生に続いて、私もドイツ留学を目指した。無事アレキ
サンダー・フォン・フンボルト財団の研究奨学生の合格通知をもらった時は、ほっと
したものだった。

なぜ今ドイツなのかと人に聞かれたら私はこう答える。ドイツはヨーロッパの伝統が
あり日本のようにアメリカの言いなりにはならない(戦後アメリカはドイツの大学制
度を変えるよう勧告したが、アメリカの師匠がドイツだといって断った。日本の大学
は戦後にアメリカの指導に従い教養部を導入したが現在全国の大学で教養部の見直し
をしている)。

大江健三郎の小説が海外で英語以外の言語で広く翻訳されているように、ヨーロッパ
では英語帝国主義を批判する動きがある。

日本も世界の中で独自の生き方をするには、アメリカを客観的にながめる必要があり、
その面でドイツから学ぶことは今後も必要である。

限りある資源を有効に利用するため工夫するドイツ技術者に見習う点も多い。

ミュンヘンのドイツ博物館はあらゆる科学技術の展示がされているが、私は土木
コーナーの橋展示の説明ガイドブックを入手し、これをドイツ語の小林先生と一緒に
翻訳した(橋の文化史、鹿島出版会)

このようにして現在に至った私を、現在天理大学勤務の日置孝次郎教授は「恐竜
から橋梁に対象が移った人」と言うのである。

 次回は北海学園大学工学部教授の杉本博之先生にお願いします。

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