これは
新日本技研株式会社創立25周年記念企画として出版された
「橋 私のあの橋この橋」のために頼まれて書いた原稿です。
全国の著名な橋梁工学の大学教授や、架橋の仕事に携わる
行政の立場の人、あるいは実務の立場の人、橋梁製作
メーカーなど第一線の技術者たちが原稿を寄せてできた本です。

私などが、この本の執筆者の中に加えられたのは幸運なことだと
思っています。

わかりやすくするために写真を入れてみました。

「橋」 私のあの橋、この橋
   岩手大学工学部   宮本 裕
 たぶん、著名な方が国内外の大きな橋をあつかうであろうから、
私は誰もあまりとりあげないであろう、そう知られていない橋に
ついて書くことにしたい。

 そういうわけで、まず思いつくのは、もう12年前になる
南ドイツのシュヴァルツヴァルトの町フライブルクの橋である。
駅の裏側に教会がありその前に橋が架かっていた。

 ポニートラスのその橋の向こうにロマネスク様式の教会の
双塔がそびえ立つ写真は、ここはドイツだとの印象を与える
ものである。

 この町にはゴシック様式で有名な尖塔が1本高くそびえる
堂々とした大聖堂が町の広場に建っており、町の人からは
ミュンスターと呼ばれていた。

 たいていのドイツの町では、広場には教会があり、その近く
にはラートハウスと呼ばれる市庁舎の建物が建っている。

 私はドイツ留学の最初に、このフライブルクの町の
ゲーテ・インスティテュートで2カ月ドイツ語の語学研修
を受けたので、ドイツで最初の印象とか体験が、その後の
私のドイツ観に大きく影響を与えたような気がする。

 フライブルクの町で、もう一つ印象に残っているのは、
吊床版橋であった。

 帰国してから、日本の橋梁雑誌にこの橋のことが掲載
されていたのを目にしたことがある。
きゃしゃな3径間連続コンクリート橋だなあという印象で
あった。

 そこは公園のような広場になっていて、橋のそば
に世界各国の国旗が並んだポールの上ではためいて、
これも写真の被写体としては最適であった。

 もちろんドイツの町であるから、川にはたいてい石の
アーチが架けられていたが、私にとってその時興味が
あったのは、町の中心の広場のそばの大聖堂の、石で
構成された高いアーチの天井であった。

 あんなに高い所に、いったいどうやって石を積んで
アーチを組み上げていったのか、天井アーチはどういう
骨組で構成されているのか、作るのにどれだけ年数が
かかったのか、そういう疑問をいだいて帰国した。

 後にミュンヘンにあるドイツ博物館のガイドブック
「橋の文化史」を翻訳するきっかけとなったのである。

  この本を翻訳しているとき、ちょうど私は中国の
西安に行くことになった。西安交通大学で学術講演を
することで、中国から招待を受けていたが、あの天安門
事件のあった年で、文部省は公務員の中国渡航を
しばらく認めなかった。

 私が西安に行く10月なかばには北京も治安も
治まってきて、ようやく許可もおりた。

 西安交通大学に着いたら、私が天安門以来初めての
外国人教授である、とその大学で日本語を教えている
日本人教師から聞かされた。

 あれだけテレビで放映したから日本からの観光客も
ほとんど来なくなり、私が案内された観光地はどこでも、
みやげ物屋が手持ちぶさたで、どうして日本人は
来ないんだ、とよく尋ねられたものだった。

 ちょうどその時、西安交通大学に当時の東ドイツから
来ていた教授がいた。

 朝晩の食事のときは大学のゲストハウスで、教授たち
と話をしながら食事をしたものだった。

 私は翻訳中の本の中にある、東西ドイツ国境付近の
プラオエン近くのゲルチュ谷の鉄道橋石アーチ橋のこと
を話したら、教授はその橋は有名だから、ぜひ東ドイツ
に来て見るように勧めてくれた。

 そうしている間にも、ベルリンの壁をはじめ東西ドイツ
の間の壁を壊そうという動きが東ドイツの中に大きく
なっていって、教授は毎晩自国のラジオ放送を聞いて
翌朝には私にニュースを教えてくれた。

 東ドイツがなくなると自分の大学の地位もあぶなくなる
のだが、と教授は語り、でも国民の自由経済への憧れは
止められないだろうと言った。

 このゲルチュ谷の橋は、東京青山通りにあった東ドイツ
観光局でもらった観光案内のパンフレットの表紙にも
写っていた。

 観光局のドイツ人所長もぜひ、この橋は見たらいいと
勧めながらも、東ドイツのホテルや交通情報など全然連絡
がとれない、だいいち自分たちの職すら無くなるのだと
言うばかりで、観光案内はしてくれなかった。

 私は教えられたドレスデンのホテルに直接手紙を書いたり
したが、返事が届いたのは、私が翻訳のため著者に会う
などのドイツ旅行から帰った1991年1月よりさらに
2カ月も後のことであった。

  こんなわけで、ドイツから中国、天安門やベルリンの壁
という、世界をゆるがした出来事の中で、橋をめぐっての
翻訳の仕事ができたことは貴重な体験であった。

 私が帰国して10日ほどで湾岸戦争が始まったのだ。
 
 結局、あまり知られていない海外で見た橋のことを
書くはずが、橋の翻訳書の仕事とその時の時代背景の思い出
を書いてしまった。私の心に残る仕事だったからであろうか。


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