石川啄木の秘密 大沢博著 光文社 昭和52年 啄木には幼なじみの沼田サタ(通称サダ子)がいたが、啄木八歳のとき彼女は十一歳でジフテリアにかかり死んでしまう。 啄木が三歳のとき妹光子が生まれて、長姉さだが母に代わって啄木の世話をしたが 啄木が六歳のとき姉さだは嫁いでいってしまった。 それから啄木はサダ子とよく遊んだ。(証言する啄木の年上の女性たち) 彼女の姿をひと目見たくて啄木は墓を掘っているところを大人たちに見つけられ厳しく叱られる。 「いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに」 この歌は、幼い啄木が土葬の墓を手で掘っていたら骨が出てきたことを、詠んだのだと 大沢先生は説明する。 「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」 この歌は啄木の処女歌集「一握の砂」の巻頭にあるため 啄木短歌の代表作とされている。 この歌には、しかし啄木をめぐる七人の女性の秘密が隠されていると 著者は説く。 東海→節子 ヨネ・ノグチの英語詩集「東海より」を節子から送られた 小→小奴 小奴は釧路時代の芸者 島→橘智恵子 島は渡島で函館をさし、橘智恵子は函館弥生小学校の女教師である 磯→いそ子 妹光子の友人瀬川もと子(通称いそ子) 白→姉さだ 砂→沼田サタ 啄木の幼なじみだったが死別 蟹→植木貞子 この女性の順序は、節子から沼田サタまでは、別居、死別を含めて これまでに別れてきた順序をさかのぼっているのである。 明治41年4月上京するため函館で妻節子と別れ 同年3月には釧路で小奴と別れ 明治40年9月には函館の橘智恵子と別れ 同年5月には北海道に渡ったので渋民の瀬川もと子(旧姓佐々木いそ子)には会えなくなり 明治39年2月には姉さだと死別し 明治26年10月に沼田サタと死別している。 そして、この歌をつくるころ 啄木は深い関係になった植木貞子に毎日のように押しかけられ 彼女を避けたくなって絶縁状を書いている。自分が苦しんでいることを金田一京助に話している。 しつこい彼女のことを、いったんつかんだらなかなか放してくれない蟹にたとえているのである。 「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手をみる」 この解釈は、大沢説によれば この手でサダ子の墓を掘ったからなあ。 いくらはたらいても生活が楽にならないのは、やはりあのたたりのせいなのだろうか ということになる。
啄木は橘智恵子に処女歌集「一握の砂」を送り、牧場主に嫁いだ彼女からバターを受け取っている。
1886(明治19年) 2月現在の岩手県盛岡市玉山区曹洞宗常光寺に生まれる。
1887(明治20年) 父一禎宝徳寺住職に転任のため一家移住。
1895(明治28年) 渋民尋常小学校卒業。盛岡市立高等小学校入学。
1898(明治31年) 盛岡中学入学。
1902(明治35年) 10月カンニング発覚し、みずから盛岡中学退学し上京。11月与謝野鉄幹、晶子夫妻を渋谷東京新詩社に訪問する。
1904(明治37年) 2月堀合節子と婚約。12月父宗費滞納を理由に宝徳寺住職を罷免される。
1905(明治38年) 5月処女詩集「あこがれ」刊行。6月堀合節子と結婚。
1906(明治39年) 4月渋民尋常小学校代用教員拝命。12月長女京子誕生。
1907(明治40年) 4月高等科生徒を引率して校長排斥のストライキを指示。6月函館弥生尋常小学校代用教員となる。9月札幌「北門新報」を経て「小樽日報」の創業に参画。野口雨情と三面を担当。12月小林事務長と争論。
1908(明治41年) 1月釧路新聞社に赴任。4月上京。金田一の下宿「赤心館」に、9月二人は「蓋平館」へ引越。
1909(明治42年) 2月朝日新聞社入社決定。6月函館より家族を迎え本郷弓町の喜之床二階に新居定める。
1910(明治43年) 9月「朝日歌壇」の選者となる。10月長男真一誕生するが死去。12月処女歌集「一握の砂」刊行。
1911(明治44年) 8月7日小石川区久堅町へ移る。
1912(明治45年) 4月永眠。
(岩城之徳:流転の詩人石川啄木)