「青い背広で」
https://www.youtube.com/watch?v=uum9AQrWcU8
作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男 (昭和12年2月)
青い背広で 心も軽く
街へあの娘(こ)と 行こうじゃないか
紅い椿で ひとみも濡れる
若い僕らの 生命の春よ
この歌詞は、下記の詩の影響があると指摘する人がいます。
ふらんすに行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん
『萩原朔太郎詩集』
(佐藤惣之助の妻は、萩原朔太郎の妹。義兄朔太郎が死亡した四日後、脳溢血で急逝。)
萩原朔太郎の
この詩は、石川啄木の「あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思ひ過ぎたる」『一握の砂』からの本歌取りであるといわれています。
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〈「昴(すばる)」と啄木(たくぼく)、その後〉 小木曽 友
およそ20年ほど前に、次のようなエッセイを書いたことがあった。(『月刊アジアの友』1990年9月号)。
◇「目を閉じて何も見えず」―「昴」と啄木―◇
最近、おもしろい発見をした(と自分では信じている)。
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
これは石川啄木の歌集『悲しき玩具』の冒頭の二首である。
この二首の歌を読んで何か気づくことはないだろうか。そういえばどこかで聞いたことがある。はて? そう、谷村新司作詩・作曲「昴」の二番と一番の歌詞である。
目を閉じて 何も見えず
哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
・・・・・ ・・・・・
呼吸をすれば 胸の中
凩は吠(な)き続ける
されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
・・・・・ ・・・・・
谷村氏に確認したわけではないが、啄木の歌を下敷きにしていることはほぼ間違のないところであろう。用語と意味内容の共通性ばかりでなく、一番と二番がこのように鮮やかな対応を見せるというようなことが、偶然に起こるなどということは、まずあり得ないことだからである。あるいは、こんなことは既に周知のことなのに、筆者が寡聞にして知らないだけのことなのかもしれないが。(啄木が文芸雑誌『スバル』の同人であったことも、谷村氏が連想によって『昴』の曲想を得た可能性がある)。
(『スバル』創刊号の発行人は石川啄木が務めた)
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石原裕次郎の「錆びたナイフ」も啄木の短歌をもとに
その歌詞が作られています。
こちらは作詞家が自分で認めています。
「いたく錆し ピストル出でぬ砂山の 砂を指もて 掘りあてありし」
http://www.tahara-kantei.com/column/column476.html
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吉井勇の作
「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」
この歌は、祇園の思いを詠んだもので石川啄木らと編集を担当した「スバル」にて他の祇園を詠んだ歌とともに発表されました。
「 かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川」 啄木『一握の砂』
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品川洋子:宵待草ノート はる書房
まてどまてど尽くることなき葬りの無言の列ぞわが前を過ぐ 啄木「歌稿ノート」明治41年
待てど来ず約をふまざる少女みな殺すと立てる時君は来ぬ 啄木「明星」明治41年7月
明治43年
8月、銚子町海鹿島を避暑のため訪れ、長谷川賢(おしまさん)と出会う。
明治44年
「少女世界」6−12(9月)に「まてど暮らせど待てどくらせど」と題された少女の絵を発表する。
明治45年・大正元年
「少女」(6月)に原詩「宵待草」を発表。
宵待草
さみせんぐさ作
遣る瀬ない
釣鐘草の夕の歌が
あれあれ風にふかれて来る。
まてどくらせど来ぬ人を
宵待草の心もとなき
「おもふまいとは思へども」
われとしもなきため涙。
今宵は月も出ぬさうな。
7月10日 たまき宛てに佃島海水館より書簡を送る。
このなかに、啄木の遺稿集「悲しき玩具」より29首を書き
自分と違う要素のある啄木を「好きな男だった」と書き、深い関心を示す。
大正2年
「どんたく」(11月刊)に三行詩「宵待草」を収録する。
宵待草
まてどくらせどこぬ人を
宵待草のやるせなさ
こよひは月もでぬさうな。