杉原千畝の人道的ビザ


多数のユダヤ人の命を救った日本通過ビザ。この奇跡的なビザを大量に発行した
杉原千畝とはどんな人物だったのだろう。多くの人がそれぞれの立場で本を書いている。

ユダヤ人を大勢救ったという杉原ビザの本。 日本通過ビザを発行する許可を杉原は東京に問い合わせたが こころよい返事はなかった。 外交官の自分たちも、そこはソ連領になるから退去しなければならなくなって 時間との戦いで、ぎりぎりまで可哀想なユダヤ人たちに 日本通過ビザを発行する。 彼にアイデアを教えたのは、若いポーランド系ユダヤ人の弁護士 バルハフティッヒ(バルファフティック)だった。 それは、先にドイツに占領されオランダに帰られなくなったユダヤ人が カリブ海のオランダ領キュラソー島(岩だらけ何の魅力もない)なら 行けるからと、そうやって脱出した例を聞かせたらしい。 そこで杉原も、シベリア鉄道経由で日本に行き、 そこからさらにカリブ海のキュラソー島にいくという作文のもとに 日本通過ビザを乱発したらしい。 いちおう関係各国に問い合わせて問題なしという返事はえたようだ。 貧しいユダヤ人たちが敦賀経由で神戸までたどりついたら、そこで 神戸ユダヤ人協会が費用を出して、彼らを安全な日本国外に渡らせた。 日本には誰も残らなかった。通過ビザだったから。 1938.12.6 第一次近衛内閣のユダヤ人対策要綱 このときの五相会議に出席したのは、首相をはじめ、板垣征四郎陸相、米内光政海相 有田八郎外相、池田成彬蔵相で、ここでユダヤ人対策要綱が決まった。 ・現在の日本、満州、中国に住んでいるユダヤ人は他国人と同様に公平に扱うこと ・新しく日本、満州、中国に渡来するユダヤ人については、  一般の外国人入国規則の範囲で公正にすること。 ・ユダヤ人を積極的に日本、満州、中国に招致するのは避ける。  ただし、資本家や技術者のように利用価値のあるものは例外とする。 だから、条件の整ったユダヤ人なら通行できたわけです。 彼がユダヤ人に大量に通過ビザを発給していた最中に1940.8.9 ユダヤ人技術者が南米移住するので途中日本に上陸する件を日本に問い合わせたら、 外務大臣から杉原のもとに(彼らには)日本通過ビザを発給して良いという電報が届いている。 (他の大量ユダヤ人の日本通過ビザには良い返事はなかったのに) 皆さんの理解を深めるために書きますが、当時の状況はきわめて厳しいものでした。 1939.9ドイツとソ連はポーランド分割を決定し、10月にはドイツは プラハとワルシャワにユダヤ人移送を開始します。 1940.4ドイツはデンマーク・ノルウェーに侵攻、翌5月にはオランダ・ベルギーに侵攻、 6月にはドイツはパリに入ります。 8月3日にソ連はリトアニアを併合 リトアニアの首都ビリニュスと定められ、リトアニアとソ連の国境は消え、 カウナスにあった各国在外公館は不要となり、日本領事館が閉められるから 杉原も退去しなければならなかった。 そこでリトアニア国籍者は、ソ連国籍の手続きをとらなくてはならなくなる。 以後は杉原からビザを受け取ってもソ連国籍者は国外に出られなくなる。 ソ連がバルト三国を併合した後には、大量のユダヤ人をシベリアに送ったようです。 しかし、その数はわからない。ユダヤ人を含めたポーランド人の住民は 100万人以上が拘束されシベリアや中央アジアに流され、 過酷な労働の末半数は帰らなかったと言われます。 またヒトラーのもくろみを予想していた杉原やユダヤ人たちは ドイツがいずれソ連と戦争をはじめ、リトアニア地方にもナチスが押し寄せてくることを 予感していた。 ユダヤ人たちはリトアニアがソ連邦に組み入れられる前に脱出を急がねばならない。 というように回りのヨーロッパはナチスやソ連に押さえられて、 ユダヤ人はどこにも逃げられない。わずかにシベリア鉄道で日本に達して、 そこからアメリカに逃げる道しか可能性がなかった。 杉原の手記から 「それは1940年の春5月のあたり 突然、農民、労働者風の 親ソ連分子の団体が市内の中央広場で、いわゆる人民大会なるものを開いて、 この国のソ連併合を即決し、この件を直ちにモスクワ政府に陳情すべく、 人民代表をモスクワに送り込むことを決議した。 この外面的には合法的なモスクワ政府の常套手段により、 ソ連は日本政府に、8月25日限りで日本領事館を閉鎖するよう、 在モスクワ大使館を通じて要求してきた。この動きは私には十分予想されたことだった」 自分も間もなく、ここを退去しなければならない杉原は 日本側から快い返事はもらえず、目の前にいた大量のユダヤ人から頼まれた命を できるだけ救おうと決心する。 そのとき、行き先のあてがないものは通過ビザを出せないが、 オランダから逃れたユダヤ人たちがオランダ領事(ナチスに反抗している)の案を ヒントに、カリブ海のオランダ領キュラソー島に行く途中日本に上陸するという ぎりぎりの合法的ビザを現地領事の立場で発給するわけです。 1940.7.29-8.26  約6000人分のビザを発給した。 たいていの人は、当時の情勢を考えるなら 彼のような行為はとらないでしょうね。 人道ビザを出しても、本省からは歓迎されない。 まかり間違えば自分だけでなく家族も巻き添えを食う。 したがって、まず妻と相談して、同意を得てからビザを出す決心をしたのです。 家族が反対したらしなかったのではないかと思います。 また、後のことも考えて、ビザの作業の時は、事務室には家族を入れなかったそうです。 杉原ビザで日本に来たユダヤ人は、当時の外国人入国令により 日本通過の滞在日数は14日間が原則。しかし、杉原ビザでは滞在10日だった。 彼らの世話をしたのはユダヤ民族学者小辻節三だった。 彼は満鉄総裁松岡洋右(まつおかようすけ)に乞われてユダヤ人の援助をした。 満州で世話をしてから日本にやってきて、杉原ビザをもってきて鶴賀上陸したユダヤ人を 無事外国に向かわせた。 そのとき、なんとしても10日間の日本滞在は短すぎた。 外務省からは早くユダヤ人は日本を出ろと指示され、 困った小辻はそのとき外務大臣になっていた松岡洋右に相談した。 松岡は、内務省管理による「入国特許」で1ヶ月の滞在に延長できる裏技を教えてくれた。 1ヶ月で足りなければ再申請をくりかえせばよかった。 松岡外務大臣は日独伊三国同盟締結準備で忙しかったが、 10月初旬に二人が東京であったとき、この裏技を教えてもらったという。 この本にはスタンプ印を2つ証拠に載せてある。 ・通過許可 昭和15年10月9日より10日間有効 ・入国許可 昭和15年10月18日より11月17日まで 松岡洋右は東京裁判で公判中に病死しました。 こうして小辻はユダヤ人協会と連絡して、一人一人に十分な旅費を渡し、 安全な国に出発させたのである。 杉原一人ではそこまでは無理で、やはりチームワークがあったから。 外務大臣松岡洋右の訓令を無視した杉原。 松岡が小辻に、杉原ビザのユダヤ人を 内務省の手続きで滞在を1ヶ月に延長させる方法を教えたとは、 矛盾する松岡の行動はおかしいと思うかもしれませんが 外務大臣としてもはや決まった政府の方針にはさからえないが もともとは満鉄時代にユダヤ人の力を利用しようとしたらしいので 個人的にユダヤ人を助けるときは助けたのでしょう。 他にも日本人で大量にユダヤ人を助けた人がいました。 1938年3月から すでに満州国にビザのないユダヤ難民が逃げ込んでいた。 関東軍のハルビン特務機関長樋口季一郎が満鉄総裁松岡洋右の協力のもと 約2万人のユダヤ人を救ったと言われます。 1938.3.8 満州と国境を接するソ連のオトポール駅でビザのないユダヤ人たちが 徒歩で満州に入ろうとしていた。 ビザがないから満州に入られず野原で野宿をしなければならなかったユダヤ人たち。 3月なので昼でもマイナス15度という寒さの中。 国境の満州里日本領事館ではこれを見て本省に連絡したが、 日独防共協定を結んでいたのでドイツに気を使い、返事はなかった。 ハルビンのユダヤ人協会カウフマン会長は樋口少尉にユダヤ人救出を懇願した。 樋口は満鉄総裁松岡に相談し、ただちに救援列車が用意され、 ユダヤ難民は運賃も食料も無料でハルビンに行くことができた。 (このときの記録では18人だった。その後も何人かのユダヤ難民がオトポールから 満州里に樋口のおかげで逃げ込んだが総勢100名以下と言われる) 樋口少尉が2万人のユダヤ難民を救ったのはあやしい、と書いている本もある。 しかし、 そのときドイツから日本政府に、ユダヤ難民を受け入れたことに抗議があって (ヒトラーはその直前2月20日に満州国を承認したばかり) 日本はドイツに釈明をしたという。 こういう背景があるから、 杉原が外務省にユダヤ難民の通過ビザを発行することには、良い返事をしなかったろう。 別の本を読んだら 戦後にソ連は 関東軍のハルビン特務機関長樋口季一郎 をシベリア抑留をさせようとしたが 米国ルーズベルト大統領が彼をソ連に渡さなかったと書いてある。 (ルーズベルトは終戦前に死んでいるからトルーマンのことか) それは背後で、米国のユダヤ人団体がユダヤ人を救った樋口を守ろうとしたから。


およそ全500ページのこの本には、杉原千畝研究の決定版ともいえる記事がずらり。
著者は杉原千畝のことは何度も本に書いたのですが
これまでの巷の間違った噂とか、デマにも気にして
いちいち根拠をあげて訂正しています。

敗戦で1947年に引き上げてきた杉原は外務省を首になった。
なぜか?
ひとつ言われているのは、彼はユダヤ人からお金をもらって
不正なビザをたくさん発給したから。
実際に彼のところに押し寄せたユダヤ人は財産をさしおさえられ
着の身着のままで逃亡先を求めてきたので、とてもそんな財産などない。
ユダヤ機関から後でもらったという噂に対しても、
外務省を退職した一家がその後非常に苦労して生き延びたことを考えると
お金などもらっていないことは明白。
そのとき彼のおかげで助かったユダヤ人たちは、
彼が日本政府の許可が出たからだと考えていた。
だから、杉原にお礼のお金を渡す必要性を感じていなかった。
しかし、1969年に杉原と再会したユダヤ人(ビザ発給の相談者、後に大臣)は
そのとき初めて真実を知り、日本政府が杉原の名誉回復をすべきだし、
彼を表彰しないのは残念だと考え、それならとイスラエル政府からの表彰手続きをとった。

戦後の財政難で外務省の職員の3分の1が首を切られたのだから
帝大卒でもなく外務省の採用試験(今でも大変難しい)に合格したわけでもなく、
早稲大学に在学中に外務省の留学生試験に合格してハルピンでロシア語を学んだ杉原は
やはりエリート(キャリア)ではなかった。

が彼の最大の功績、満州国外交部エリートとしてソ連の北鉄を、
要求額6.3億から1.4億にまけさせた。
よく調査してソ連の外交官と議論をして相手の要求をひっこめさせた。
後に杉原がモスクワ大使館勤務になるとき、ソ連が認めなかったのは
彼の能力を恐れたからと書いている。
やむをえず彼はヘルシンキ大使館勤務になる。

この本の最後には、杉原の能力を恐れた各国のおもわくが推定で書かれてある。
読んで恐ろしいという印象。
歴史に、あのとき○○があんなことをしなかったらとか、
もし△△がこれをしたならということを言ってはいけないと言われるが
太平洋戦争を考える資料のひとつですね。そして、そのときの歴史は現代に続いている。

1998年3月
杉原を主人公にした「ビザと美徳」という映画が
アカデミー賞短編作品賞を受賞した。
しかし、杉原一家の感想はあまりよいものではなかった。

ユダヤ難民がビザを受け取るにあたって、幸子夫人がかいがいしく手伝っている場面がある。
実際は大違い。杉原は家族が手伝うことを禁じた。
ビザ発給期間中は一階の領事館には家族は決して入れなかった。
ゲシュタポの手が家族に及んだり、家族が困ったことにならないよう配慮したのだろう。
現地採用の秘書がゲシュタポのスパイであった。そのことを杉原は見抜いていた。

映画ではさらに
ユダヤ人が執務室に入るとき、夫人が「日本バンザイと言いながら入りなさい。
そうすれば杉原が喜ぶから」という場面がある。
これも事実とは違う。

バンザイを避難民に強要し、それを杉原が喜ぶという設定は
主人公の人格そのものまで疑われることになってしまう。
杉原はそのようなことをもっとも嫌うから。

というわけで、誤解をうける映画には、杉原の家族は困っている。
事前にシナリオを見せて相談してくれたらよかったのに。

で私が思うには
これはドラマを盛り上げるため。
映画監督はノンフィクション作品ではなく、あくまでもドラマを作ったのです。
大河ドラマもしたがって史実とは違うのです。
あれをうのみにしてはいけません。
彼にとってビザの発給は大して重要な仕事ではない。彼の重要な任務は
ソ連とドイツの情報を集めることだった。

杉原リストには2139人の名前が記されている。大部分はポーランド人でユダヤ系も
非ユダヤ系もいる。 1040.7.9-8.26の期間

外交資料館には杉原ビザに苦情を訴える文書も保管されている。
そのなかには東京駐在の英国大使クレイギーの書簡がある。 1940.12.27
ユダヤ難民がこのビザを使って当時イギリス信託統治領だったバレスチナに
上陸することに危惧を抱いていた。
彼は松岡洋右に「人間でない者を人間なみにあつかう危険」を警告している。
イギリス政府はユダヤ人のパレスチナ上陸用のビザ承認しないし、彼らを
パレスチナに受け入れる義務はないと宣言している。

四男伸生(のぶき)
日本の教育制度になじめずイスラエル政府からヘブライ大学の奨学金を受ける。
エルサレムで2年間学んでから、ブネーブラックのユダヤ人のもとで
ダイヤモンド研磨技術とダイヤモンド取引を学んで、ザルツプルクに家を持ちながら
普段はベルギーのアントワープに住んでいる。工場はバンコクにある。
彼から父親のロシア語で書かれた回想録を見せてもらった(著者)。
その中で彼は1939から41まで、カウナス、ベルリン、ケーニヒスベルクにおける
ポーランドの地下組織と自分とのつながりを要約していた。
その中で、ただ正義感と人類愛から行動したと書いてあった。
「戦後、私は過去を忘れることに最善をつくした」



ポーランド生まれリトアニアMGMで働いていたカッツ
1940.1 外務省アメリカ局第三課長から杉原は連絡を受けた。
「MGM東京支配人ベルマンより、貴殿の担当地域に亡命中のポーランド人の義弟
カッツを約1ヶ月東京に呼び寄せたい旨、願い出あり」
この件では外務省は内務省と協議済みだった。
カッツがカウナスで申請すれば、日本入国のビザは何も問題がないはずだった。
杉原は 1940.3 電報を打つ。
「1月の貴殿の電報にもとづき、小職はカッツに対して本邦入国ビザを発給した
ので、ビザ調書を別添送付す。なお同人は(ナンセン旅券)で出国手続きを終えた後に
ピザ発給を願い出た。もし当領事館にての旅券でのビザ発給を拒めば彼の出国は
事実上不可能になるよって情状やむをえざるものと認め、例外として
これにビザを発給したのでご了承ありたい。」
どうして、これだけ大げさに報告書を送ったのか。
カッツはポーランド人で、もはやポーランドという国はスターリンとヒトラーに
とって存在しないものだった。カッツのもつポーランドの旅券ではビザが発行
できなかった。
そのときの救済策として、カウナス駐在のイギリス領事がポーランド亡命政府の
代表にイギリス領事館内で臨時の旅券(ナンセン旅券)の発行を認めたのである。
この言わばセミ・ビザともいえる方式のビザは1922国際連盟理事のナンセンの
提案で作られたものであった。揺れ動く国際情勢の中で、数百万の国籍喪失者が
この旅券を使い安全地帯に逃れて行った。
杉原は、このカッツに日本入国ビザを出すという決定を下した外務省の権威を擁護し、
ナンセン旅券という問題のあることを指摘して公的に記録し、間接的にこの旅券の
有効性を疑問視することを否定している。
かれの巧妙な戦略は後に続く大量ビザ発給を暗示している。

1939.6 ユダヤ難民1928人を乗せたセントルイス号がハンブルクを出て
アメリカ・キューバで入港を拒否された。ほとんどの乗客は正規の書類をもち
アメリカの親戚が経済的責任を負うと保証したが、一人も上陸できず
結局彼らはホロコーストで殺されることになった。

杉原がシベリア鉄道を通過して多くのユダヤ人が日本に達することを
ソ連の外交官に相談して、許可を得ていた。
ソ連の旅行社も通過の手数料というドルを稼ぐことができ、目の前から
ユダヤ人が消えていったことにある種の納得をしていたのだろうか。

1986年7月に死ぬその1年ほど前、千畝は鎌倉の自宅に訪ねてきた客と話をしていた。
「あなたは私の動機を知りたいという。
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。避難民には
老人も女もいた。
絶望のあまり、私の靴に口づけする人もいた。そう、そんな光景をわが目で見た。
そして当時、日本政府は、一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人は
ただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。彼らとやり合うのは馬鹿げていると
思った。だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。しかし、私自身、これが正しい
ことだと考えた。多くの人の命を救って、何が悪いのか。
もし、その行為を悪というなら、そういう人の心に邪なものが宿っているからだ。
人間性の精神、慈悲の心、隣人愛、そういった動機で、私は困難な状況に、
あえて立ち向かっていった。
そんな動機だったからこそ勇気百倍で前進できた」



ヒレル・レビンの「千畝」は杉原の遺族にとって名誉毀損に当たるとして裁判を起こした。
この本「杉原千畝の悲劇」には、遺族がいかにレビンの著書が間違いが多いかを具体的に
指摘していることを解説している。
ヒレル・レビンの「千畝」には、杉原千畝の先妻クラウディアに会いにオーストラリアの
養老院に行ったことが書かれている。クラウディアはユダヤ人医師の未亡人だった。
彼女は杉原に彼女の一族が大変世話になったこと、彼女の意志で離婚したことを告げる。
 しかし、渡辺勝正の杉原千畝の悲劇には、レビンの創作捏造の疑惑が述べられている。
1993.10.23、レゾンはクラウディアの甥の息子マイケルと一緒に養老院を訪問したのだが、
彼女が言ったのは「一緒に住んだ」「杉原は親切だった」だけで他のことを聞かれても
「昔のことなのでよく覚えていない」と返事しただけであった。
せっかくオーストラリアまで行ったのだから諦めきれないレビンは翌日一人で養老院に
行ったが面会できず、二日目の午後、マイケルの母(クラウディアの妹)ベラがレビン
を歓迎し、クラウディアの姉イリーナも参加して交わされた会話がテープにとられた。
それをもとにレビンは創作も加え「千畝」を書いたものとみえる。
「千畝」の英文原書が1996年に刊行されたのをマイケルは知らなかった。
もしマイケルが読んだら、創作や捏造に気がついただろう。
たとえば、千畝から最後に送られた着物とそれが入れられた(1981年の消印の押された)
函のことが書かれてあるが、真相は千畝の妹中村柳子が彼女に送った着物で、それは
クラウディアの姉イリーナの娘ニーナに贈ったのである。この函の宛先はマイケルの父親
レオニドであった。ドラマ性を盛り上げるため、千畝とクラウディアの交際がまだ続いた
ことにしたかったのだろうか。
ほかにも、ある年の夏休みに、クラウディアが当時の保養地だった鎌倉に行くことにした時
彼女は留守の間、夫の性的慰めの相手をするロシア女性を雇って、クラウディアがハルピン
に戻ったとき、サービス代として、その女性に10ドル渡そうとしたが、問題は金ではなく
クラウディアが帰ってきたため、その女は千畝との関係を終わらせねばならないのが不満で
彼女に会おうともしなかったと書いてある。
裁判で訴えられたレビンは、この創作は卑猥なものではなく千畝が誰にもやさしく誰からも
好かれるということを述べたかったからと言い訳をしている。当然マイケルから叔母は
杉原のためにそのような女を雇うことはしないはずだし、面会の時にそのようなことは言わ
なかったと断定する。一度だけ鎌倉には千畝はクラウディアを連れて行ったことがあるが
ハルピンで夫の性処理をする女をクラウディアが雇ったなど捏造の話をつくったレビンに
マイケルは呆れているという。
せっかく千畝の偉大な行為の数々を述べている本なのだが、こうした嘘の話が盛り込まれている
ことで信憑性が疑われてしまうのは残念なことである。
著者は大学教授ということだが、学術論文にも捏造がないことを願うものである。

渡辺勝正の杉原千畝の悲劇には、
最初に、堺屋太一、加藤寛、渡部昇一の対談を紹介している。
その中で、一般には、戦後の財政難で外務省の職員の3分の1が首を切られたのだから
帝大卒でもなく外務省の採用試験合格したわけでもない杉原が外務省を解雇されたのは
時勢の流れであると言われているが、それは大きな間違いであるということを述べている。
外務省の方針に逆らった非エリートの杉原は外務省として許せなかった。クビにした
のは自分だと名乗った人物の名を加藤氏はこの対談で明らかにしている。(曽野明*)
実際に人員整理はあったが、その整理をのケルのがれて後からシベリアから帰国した杉原の
後輩は元の外務省に再就職したという。彼らにくらべて杉原氏の偉業は今となっては
ノーベル賞級の業績として世界中から評価されるようになると益々外務省の杉原否定
はとまらなくなって、杉原の功績ではなく外務省のしたことであるかのような証拠を
かきあつめ、不正確な本をレビンに書かせたらしい。なんとレビンは外務省の招待で
講演のため来日してひそかに資料蒐集をして帰国後に本を出版したらしい。
ユダヤ系勢力の無視できないアメリカに対する外交とか、戦後の厳しいソ連との外交
において、もし杉原が外務省にいて活躍したのなら、日本にとってもより良い状態では
なかったかというのが上記の対談の三氏のほかにこの著者の考えである。
どうも役所というのは保身第一主義で、国民のための外務省というよりは身内の
エリートたちを守るほうを優先するようである。アメリカに宣誓布告するのを遅らせた
という大きな失策をした外交官(ワシントンの野村吉三郎大使)がそれを理由に左遷させら
たこともなかったのは、ノモンハン事件やインパール作戦の責任者が左遷どころか出世
を続けていった旧軍部の体質を思わせるものがある。

杉原ビザの世間的評価を認めざるを得なくなると、「杉原は政府の方針に基づいて
ビザを発給したのだから、顕彰に値しない」という説が、ある一部で意図的に
流されるようになってきた。それは、杉原個人による犠牲的人道行為を、過小評価
しようとする動きである。そのような主張する人たちの論拠として引用されるのが
1938年12月6日に決定された「ユダヤ人対策要綱」である。そこでは、日本政府
はユダヤ人を他国人同様に公平に扱うとされている。しかし、ここでいうユダヤ人とは
日本や満州やシナに住んでいるユダヤ人のことであって避難民としてのユダヤ人の
ことでない。
現に杉原は昭和15年8月16日に松岡外務大臣からユダヤ人にビザを発給すること
について、叱責に近い内容の電報を受け取っている。外務省の指示に従うべきか、
人道主義に生きるべきか、悩んだ杉原のことを無視したい人がいるということである。

杉原が外務省を追われた理由は他にもあると、この本では指摘している。
独ソ戦争は1941年6月22日に突然始まったが、実は独ソ開戦は間近に迫っている
とノンキャリアの杉原が早々とケーニヒスベルクから本省に送った情報は正しかった
のに対し、ベルリンの日本大使館のキャリアの情報担当官や武官室は、独ソ開戦の
情報を正しく把握できていなかった。
あのスターリンでさえ杉原の暗号電報を解読したのであるが、それが
事実だとは思わなかったらしい。それくらいドイツの情報操作は完璧だった。
味方も騙すくらいの偽情報「カイテル偽情報作戦命令」を流したため、ベルリンや
モスクワの日本大使館も騙されていた。
「カイテル偽情報作戦命令」とは、ドイツ国防軍総司令官カイテル元帥が1941年
2月15日に出したもので、対ソ攻撃の「バルバロッサ作戦」を偽装するために、
ドイツ国防軍の諜報部の流した偽情報である。それまでドイツは英国本土に上陸する
ことを考えていたが、海軍力が乏しいため延期することにして、ヒトラーはソ連を
攻めることにしたのであった。ソ連を攻めるためにドイツ軍を東方に移動させねば
ならなかったが、その東方移動は「英本土上陸のための最終準備から目をそらせるため」
の史上最大の陽動作戦であるとして、海岸には偽装ロケットさえ備えられ、イギリスの
地形図が大量に印刷され、落下傘部隊の情報は流され、軍隊には英語の通訳が派遣され
るなど、英本土上陸作戦が間近に迫ったかのように、敵も味方も攪乱したのであった。

こういうドイツの偽装作戦を見破って正しい情報を本省に知らせたのが杉原だけだった
ことも杉原が嫌われた原因であったろう。

何より杉原未亡人が強く思っていたことは
可愛そうなユダヤ人難民を救おうとして杉原の固い決意を決めたときに、判断の
ポイントになったのが、このような判断によって、杉原はおろか家族までもが
困難な運命におちいることを覚悟した幸子夫人をはじめ子どもたちの
自分たちのこともあるが可愛そうな人たちを救えという返事であったろう。
それを、杉原の決意はたいしたことではないとする人たちの態度に、何よりも
自分を否定されたかのように思うのは当然のことである。
実際、こうして杉原の亡き後でさえ、家族の名誉を攻撃する力はあとを絶たないのだから。


読んだ本 ヒレル・レビン:千畝(清水書院)
杉原誠四郎:杉原千畝と日本の外務省(大正出版)
小西聖一:NHKにんげん日本史 杉原千畝(理論社)
渡辺勝正:杉原千畝の悲劇(大正出版)*
白石仁章:諜報の天才杉原千畝(新潮社)

                   

杉原千畝 謎をひめた人物 彼がどうしてあのような奇跡的行為をしたのか。
その動機にこだわる人はいる。
動機がどうであれ彼の英雄的行為により多くのユダヤ人の命が救われたのは事実だった。

   杉原の記念切手    こちらも    家族の語る杉原千畝

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