杉原千畝の妻の書いた本
多数のユダヤ人の命を救った日本通過ビザ。
この奇跡的なビザを大量に発行した
杉原千畝を裏で支えた妻と家族。
日本通過ビザを発行する許可を杉原は東京に問い合わせたが
こころよい返事はなかった。
妻の同意を得て、彼はきっぱり決心して
可哀想なユダヤ人たちに日本通過ビザを発行する。
食事の時間もおしんでビザを発行し続けた杉原。
倒れないかと心配する妻。
外務省にあてて出していたビザの発行枚数の報告も2000枚くらいで打ち切った。
日本円で30銭だった発行手数料も受け取るのをやめた。
1940.7.31-8.28 約6000人分のビザを発給した。
(この日付は他の本と食い違っているが、妻の書いた本のまま)
8.28 カウナスの領事館を閉鎖し、ただちにベルリン大使館へ行け(日本の外務省からの電報)
やむをえず、ビザ発行を午前中で打ち切る。
モスクワの日本大使館の友人に手紙を書き、ユダヤ人が来たらビザを発行してほしいと頼む。
こうしてしばらく、モスクワでビザが発行された。
ホテルに休む彼のもとになお、ビザのほしいユダヤ人が訪れる。
領事の印もベルリンに送ったため、手書きの許可証を作って手渡したという。
そして、この許可証でもユダヤ人は日本までやってこれた。
プラハ、ケーニヒスベルクでの勤務の後、1942年秋からルーマニアの
ブカレスト日本公使館で勤務し終戦を迎える。
1946年12月に突然ソ連から日本に帰国することを伝えられ、
シベリア鉄道を通り1947年2月に博多港に帰る。
杉原千畝の名前は「ちうね」と読むのだが
外国人に発音が難しいから
センポ・スギハラと名乗っていた。
したがって
戦後にユダヤ人たちが彼を探したが
なかなか見つからなかった。
家族はいつも妻の妹節子と一緒。節子が子どもたちの世話をしていた。
杉原幸子・杉原弘樹:杉原千畝物語、金の星社
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