ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて 異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや


むかしZ会の添削を受けていたことがあります。
室生犀星の「ふるさとは遠きにありて」の詩について
あれは金沢での作か、東京での作か
「遠きみやこにかへらばや」のみやこが萩原朔太郎のいうように金沢を指すのか
それとも東京なのか。
どちらともとれる設問に迷った私はみやこは「東京」説を解答したのですが
結果は残念となりました。ピンポンではなかった。

時は流れ、それから数十年 筑摩書房の日本文学全集を購入したとき
月報合本で
新保千代子さんが、直接犀星から聞いたことだがと断って
「あれは金沢で作ったのです。みやこは東京のこと」と答えられたので
自分の思った通りだと安堵したことを書いています。
しかし、朔太郎との論争になりそうな今となっては、作者本人に
一筆書いてもらうのだったとも書いている。

これを読んで私は、なんとこんなに関係者でさえも迷うような問題を出して
しかも私の方が正解なのに、正解としない国語の試験なんて(ちびまる子調)
と思ったものです。

         だから国語の入学試験はやめたほうがいいとさえ思っている。まだ内心怒っている私。 あの遠藤周作も自分の文章が国立大学の入学試験に出て 作者のいいたいのは、A、B、C、Dのうちどれかとあるが 作者本人がいいたのは全部なんだと書いている。 大学の先生が作者に代わって決めてくれるのかと抗議の手紙を書いたそうです (返事はなし)。 そんな大学の入学試験で長い人生が決まるのじゃなし 試験に落ちても元気を出しなさいと浪人生を激励する遠藤先生。 そして、あの数学の森毅先生は、まあええやないの、世間の常識で採点するというのも 入学試験なんだからと わたる世間の常識を受け入れる意義をすすめて 一種の慰めを書いているが..... 答えが一つしかない数学と違って、何通りも答えのありそうな国語は 試験に出すのは、私なら逃げ出したいところ。

しかし、大学に合格してこんにちあるのは、
あのZ会の通信添削のあったおかげ。
レベルが高かったが、必死の勉強も役に立ったといま思っています。