室生先生と私
            新保千代子

      筑摩書房の日本文学全集を購入したときの月報合本で

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石川近代文学館は、1968年(昭和43年)旧第四高等学校の図書館の書庫であった建物を利用し、
室生犀星の研究家であり石川県立図書館の司書であった新保千代子(1913年 - 2004年)を館長
に迎え、日本近代文学館に次ぐ、日本で2番目の総合文学館として開館した。
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 先生が逝去された前年の十一月(第一回入院)お見舞いにうかがったときはとてもお元気だった。
花の溢れたお部屋も華やかだった。先生のお指図で、病院の近所の福田家から私の分まで
美しいお弁当がとりよせられた。

 先生は散歩にお出かけのときの、藍色の結城を召してベッドの上にお座りになり、
朝子様と秘書のよっちゃんと私の三人は、真紅の毛布で覆われた一段低いベッドに並んでかけた。
まるでピクニックのような楽しい夜食の宴だった。「こんな楽しいお見舞ってあるかしら」と
恐縮する私に「お父様、退院したらお書きになるのよね」と朝子様。「それは新保さんが書けば
いい」と上機嫌の先生。甘やかして下さるお言葉も御病状が良いからだとただ嬉しかった。

 先生が退院され,年が明けた二月なかば、蟹をお届けしたのに「家中風邪で全滅だが私だけは
ぴんぴんしています。風邪ひかぬようお大事に」と逆に雪深い金沢へ時候の言葉が返された。
これが油断のもとで、先生はお元気と信じこんだ。コバルト放射のことを先生の小説に読んで
も、そこから癌だと悟る知識は私にはなかった。明るい生の蔭に、いつも準備されている残酷な
死のどんでん返しが、三月なにも知らずに上京した私を驚愕と悲歎につきおとした。

 先生がお亡くなりになってから私は、自分が大切な時間を迂闊(うかつ)に過ごしたことを悔い
ている。例年お訪ねした九月二十日前後の軽井沢は、ひっそりと早くも秋深む気配であった。
私はいつもノートの端に質問事項をいくつか書いて伺ったが,白いレースのカーテンごしに、
木洩れ日のふる庭をみながら先生のお傍らにいると、その充実した時間にはただ黙っているのが
もっとも適(ふさ)わしくおもわれてくるのであった。それでも初めの頃は色々とお尋ねした。
たとえば「ふるさとは遠きにありて」の詩が金沢での作か、東京での作か
「遠きみやこにかへらばや」のみやこが萩原朔太郎氏のいわれるように金沢を指すものか,
私が感じるように東京なのか、などもその一つであった。その時先生は事もなげに「
あれは金沢で作ったのです。みやこは東京のこと」と現下に答えられた。
自分が思っていたとおりだった安堵感からすらりとそこを通り過ぎた私は、特に先生のお言葉を
書きとめることもしなかった。ところがいま、朔太郎氏説に対する新保説では、前説の支持者の
強腰はあたりまえ中のあたりまえで私は或人と水掛論の状態にある。それにつけても先生の御命
に未練がかかる。どだい詩の意味について作者から証文をとっておく法があるものか、
私は在りし日の先生のお陰で、同郷の直感を信じることのできるのをひとり感激するのみである。

  昨年、長距離電話で美しい女性から先生のお墓に詣る道案内をたのまれた。
折りあしく私は約束の旅にでる間際であった。代りを頼む適当な人もなかった。
「雪の下の墓地を山路に探ねるより、五月には文学碑も建つし ――」と
いま思えばばいらざる常識論を持もちだし,その後それきりになっている。

 私事に亘るが昨年兄を失った。此程兄の愛人と名告る人が突然東京から訪れ,
兄の墓に案内をたのんで私を驚かせた。持参のウィスキイを墓石にそそいで涙に咽(むせ)ぶ
背後にたった私は、先の日の長距離電話の主に心で詫びた。さっそく先生のお墓へもお詫びに
伺った。すっかり雑草が生えていた。墓石の周囲から丹念にぬいてゆくうちに何となく
つまらなくなってきた。千本の雑草をぬいたところで夏草はすぐまた生える。愛する人の墓の
辺に庵を結び、尼の心で朝夕墓を清め、死を待つというならそれも清(すが)しかろう。が、
たまさか墓を訪れて喜ぶのも草をぬくのも、所詮いっときの自己満足だ。在りし日と同じ甘い
女心だと思われてきた。甘やかせて上機嫌に笑う人の亡い今はただ虚しかった。
市当局がせっせと墓地公園に作りつつある明るい山に、はるばる泣きにくる女心もあわれで
ある。が、私はさっさと山を下り書斎に座ってほっとした。積みあげた先生の本の間から
「山へ行く暇に君、少し整頓でもしたらどうかね」毒舌も温かかった先生の叱るお声が降ってきた。
                         (金沢市在住)

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http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/furusatohadokoniaruka.html