ノートルダム(聖母マリア) ノストラダムスの本名 1503-1566
サン・レミ・ド・プロヴァンスで生まれ、アヴィニヨンの大学で学ぶ。
医学を学び学業途中でペストが猛威をふるう町にかけつけ治療に専念。
妻子をペストで失い、四十代半ばでサロン・ド・プロヴァンスで再婚し
三男三女を残して亡くなる。
ノストラダムスの住んでいた家がノストラダムス記念館となる。
町の歴史的名士アダム・ド・クラポヌはデュランス川から灌漑用運河
フランス革命でノストラダムスの墓が暴かれた。暴いた兵士は銃殺された。
日本のノストラダムス・ブーム
新興宗教の教祖がそろってノストラダムスを利用した。
あの地下鉄サリン事件を起こしたカルト教団の教祖だけではなかった。
ノストラダムスは当時のルネサンスの知識人 ラブレーは「ガルガンチュワとパンタグリュエル物語」の作者として 日本でも知られている16世紀の作家だが、ラブレーが医師であり カトリック修道士でもあったということは意外に思われるかもしれない。 しかし、もともと医術は宗教者の専門であった。後に、外科のように 血を流す医術が宗教とは相いれないということで、世俗の医者も出てきた わけだが、大学というものがもともとは神学部から発達したように、 中世のすべての知識人は、基本的に僧侶(聖職者、修道士を含む)の 身分を前提として持っていた。また、知識人や芸術家は、僧禄をもらうか 宮廷人の庇護を受けるかどちらかでないと生活できなかったという事情もある。 ルネサンスの先進部においては、医者も、僧侶も、文学者も、科学者 (その中には近代科学のもとになる占星術や錬金術もふくまれている) も、知識人はみな専門に分化せず合体していた。 実際、たとえば16世紀フランスの大文学者といえば、前述のラブレーの 他に、叙情詩で有名なプレイヤード詩人のロンサールや、エッセー(随想) というジャンルの創始者となった「随想録」作者のモンテーニュなどが いるが、彼らはみな共通の宮廷に出入りしたり、同じ大学を出たりしている。 同じようなルネサンスの洗礼を受けたユマニストであり、自然と人間の 観察者でもあった。 そして、ノストラダムスも彼らと共通する学歴をもち、彼らと同じ保護者を もっていた。つまり、ノストラダムスは時代に孤立した得意な存在ではない。 ラブレーやロンサールやモンテーニュと同列に置かれるメジャーで正統的な ルネサンスの知識人であったのだ。ラブレーの研究書にも、ロンサールの研究書 にもノストラダムスの名が言及される。ノストラダムスは16世紀の文学の 風景の中に確固とした地位をしめた正統派インテリだった、彼の教養の中に オカルトや錬金術や占星術や神秘主義が満溢しているとしたら、それは彼の 特殊性ではナクテ、ルネサンスというマルチ時代のもつ特殊性なのだ。 そしてノストラダムスには他の文学者にはない要素がひとつあった。それは タレント性である。彼は自分の才能をどのように表現すべきかを心得ていた。 生まれつつあったジャーナリズムというものを利用し、王侯貴族の自尊心 と不安感に同時に訴える才覚があった。大局を読む目も持ち合わせ、 宗教的なものや超自然についてのあつかいや表現をきっちりと計ることが できた。 紙の普及と印刷術の発展のおかげで、印刷された書物がヨーロッパに 普及していった。最初のうちは著述だけで生活費を得るシステムは確立 していなかった。著者はできあがった本をいくらか出版業者からもらい、 それを王侯貴族に贈呈し、王侯貴族から謝礼を受けていた。 16世紀はじめに高名な著者の原稿確保のために出版業者が謝礼する という習慣ができたようだ。1511年「痴愚神礼賛」でジャーナリズム の寵児となったエラスムスは、1512年に格言集を出すためにパリの 出版業者から15グルデンを受け取っている。当時の初等学校教師の年俸 が4グルデン、女中の給金が年俸1.5グルデンであることを考えると 著作収入は十分高かった。エラスムスの次の世代のノストラダムスが 書で収入を得るための下地はできていたのである。 ノストラダムスの作品の中で最初に商業的に成功したのは「アルマナック」 とよばれる暦を中心にした年刊の読み物であった。生活の知恵なも載せた 実用雑誌の先駆けだ。ノルトラダムスのアルマナックは評判がよく、 フランス中に広まり、海賊版もあらわれたようだ。手写や贋造から著作を 守るために、アルマナックは国王の名による允許(いんきょ)を得てから 出版されるようになった。 予言書のせいであろう。王妃カトリーヌ・ド・メディシスに注目された。 彼女は当時36歳で国王アンリ二世との間に7人の子どもがいた。 ルネサンス先進国イタリアのフィレンツェのメディチ家出身で、豊かで 激しい個性をもっていた。 夫にはポワティエのディアーヌという公然の愛人がいた。 新教徒ユグノーの台頭で政治的にも不穏な空気が流れ、カトリーヌ・ド・ メディシスは公私とも不安で神経をいらだたせていたであろう。 夫である王がノストラダムスを引見したいという名目で、プロヴァンス伯 を通じてノストラダムスの招聘を申し入れた。 国王からの招きが異端尋問による罠かもしれないという疑いと恐怖は 拭いきれなかったが、もし国王の庇護が確実になるのなら身分は安泰となり、 異端尋問も寄せつけなくなるという大きなメリットが期待できた。 たとえ王の誘いを断ってサロン・ド・プロヴァンスに残ったとしても、 異端尋問の疑惑は消えるわけではない。ノストラダムスは覚悟を決めて パリに発つ。 それでも旅の運をできるだけ開こうとして、日程に気を使っている。 7月14日にサロン・ド・プロヴァンスを出発し、聖母昇天祭の大祝日で ある8月15日にパリ入りを果たした。パリの司教座であるノートルダム 寺院は聖母マリアに捧げられた大ゴシック教会であり、ノストラダムスの 姓であるノートルダムは彼にとっての第一の守護聖女でもある。 ノストラダムスは聖母マリアに守られるようにしてパリに入った。 そして、自分の名であるミッシェル(ミカエルのフランス語読み)と同じ 大天使ミカエルの祝日である9月29日にパリを去った。 彼は、高官モンモランシーに迎えられ王に謁見した。王は100エキュを 彼に与え、続いてサンスの大司教であるブルポン枢機卿のところにも紹介 した。ノストラダムスはそこで通風の痛みに襲われて10日間寝込んだという。 その後王妃カトリーヌ・ド・メディシスが子どもたちと住んでいるロワール 河畔の居城ブロワ城に向かった。3人の息子は、それぞれ未来の フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世である。 父であるアンリ二世はまだ40歳前後の若さであったから、この三人の息子 たちが世継ぎも残さずに次々と王位を継ぐという可能性は大きくなかった。 しかしノストラダムスは三人の息子たちがみな王位につくことを正確に予言 してみせたといわれる。そして彼は王妃カトリーヌ・ド・メディシスからも 100エキュを賜っている。 ノストラダムスは王妃カトリーヌ・ド・メディシスをはじめ宮廷人の 相談相手となり未来のアドバイスを与えたであろう。そしてその際 決して不用意に不吉なことは告げなかったであろう。彼は賢かったから。 (王妃カトリーヌ・ド・メディシスがノストラダムスを相談相手とし庇護した) ノストラタムスの偉大な点は、借金をしたり通風に悩んだりと、 経済的にも肉体的にも犠牲を払って旅をして、成功をおさめたその金を 運河建設という公共事業に惜しみなくつぎ込んだところだ。 サロン・ド・プロヴァンスはクロー高原に位置していて、川がなく 乾いた土地柄であった。そのためしばしば干ばつに悩まされてきた。 灌漑は市にとっての最大の課題である。ノストラダムス歯早くから その対策に加わっていたらしい。 予言書刊行2年前の1553年に、市の建立した給水場に掲げられた 碑のために碑文を書いている。そこには「もしも人間の業でサロン(市) の議会や役人が市民たちに永久にワインを供給できるものならば、 彼らは大金を投じて、ここに見えるつまらない水の泉を作る必要も なかったことであろう。不死の神々に捧げる。 ミッシェル・ノストラダムス、サロンの人々のために。1553年」 とある。 市民の福祉に関心をもつ良き名士であったノストラダムスは、国王夫妻に 謁見したというメジャーな存在になった後も、町のことに心をくだき続けた。 1556年プロヴァンスの法院は、デュランス川の水をサロン・ド・ プロヴァンスに引くための運河の建設を許可した。デュランス川はローヌ川 の支流でサロンの北側30キロほどのところを流れていた。 ノストラダムスはその年の7月に200エキュを施政者アダム・ド・クラポス の口座にこの事業のために貸しつけた。1560年には続いて288エキュ、 1562年にはさらに100エキュを貸しつける。 死の前年の1565年 には、妻の名でさらに100エキュが公庫に入った。運河の建設という 壮大な事業に関与し、自分の後も、子孫までが快適に過ごせるように 取り計らったのだ。 天に輝く星ばかりを眺めて夢見て暮らしていたのではなく、足が地に着いた 行動の人であり、大自然に対しても挑戦すべき時はするという勇気と決断力 をもっていたのである。 アルマナックは、対象になる年が決まっているだけに、その予測は論議を かもしたようだ。ノストラダムスのアルマナックの人気が出れば出るほど 彼の予想は大きな影響力を持った。ノストラダムスはいわば政治や経済に ついての予測を立てる高名な評論家だと見なされていたわけで、当然 政権を異にする敵も多かった。そして、16世紀後半には政見は宗教権力 との関係に結びついていた。 1563年向けのアルマニックは、時の法王の親戚でカトリック軍を統率 していたセルブロン将軍に捧げられた。ノストラダムスはその献辞の中で、 セルブロンが書物を引き裂く輩の攻撃からアルマナックを守ってくれる ことを確信していると述べている。つまり、アルマナックは深刻な物議 をかもしていたことになる。ノストラダムスの敵が多かったことを示す ものでもある。 予言書の類はラテン語で書かれたものが主流だった。それに対して 実用書であったアルマナックをノストラダムスはフランス語で書いて成功 したので、予言書もフランス語で書いて成功した。ノストラダムス研究者 ルワロ博士によれば、ノストラダムスは自分の博識や体験をすべて織り込み たかったから予言書を書いたという。外国語の知識、地理、古代史の情報が ぎっしり。ラテン語、ギリシア語、プロヴァンス方言、イタリア語、 すぺいん語、アラビア語、ヘブライ語、ゲルマン語。 大航海時代のルネサンス人らしく、ヨーロッパだけでなく アジア、アフリカ、オリエント地方にまでまたがっている。 彼は知らないはずのフランドル地方の町町が四行詩に出てくるのは そこを旅行したサン・レミ・ド・プロヴァンスの人間と交際があったからだろう。
ノストラダムスはユダヤの預言者の家系
預言者には二つのタイプがある。 洗礼者ヨハネ型と使徒パウロ型
洗礼者ヨハネ型
メシアであるイエスの出現予告 天才的 例としてジャンヌ・ダルク
使徒パウロ型
パウロはキリスト教を体系化した。 実務的 混乱期啓示型ではない秩序型
ノストラダムスは本来使徒パウロ型の預言者だったが、時代の求めに応じ
カトリーヌ・ド・メディシスのため洗礼者ヨハネ型を演じた
カルト宗教の教祖は、使徒パウロ型の預言者ノストラダムスを
洗礼者ヨハネ型として解釈し利用した。
予言書(預言書)は印刷術が普及した頃出版された最初のベストセラー。
終末観をあおるため中世の説教師の話芸的スタイルを使う。
ペダンティックでエキゾティックでエニグマティックな三要素を加え
さらに韻を踏む四行詩として文芸作品にまとめあげた。
(グーテンベルクの印刷術はこちら)
ノストラダムスの占いの客 イタリアやドイツからたくさん
フランス国内では嫉妬やライバル多い
預言者は故郷に受け入れられず(新約聖書ユハネ四ー四四)
1999.7の予言ははずれる。フランス人ばかりでなく、世界中でみなそう思っている。
このことを歌った詩の載っている最終巻はあとから付け加えられたもの
(彼の生前に出版された予言集は7巻の前半で終わっている)
彼の死後に出版された予言集では、7巻の後半は書かれていない。
彼ならば7巻の後半も書いて次の8巻に続けるはずで
だから、彼の死後に出版された予言集は彼の書いたものではないという説がある。
ノートルダムとノストラダムス