明治の女子留学生

箱館(函館)戦争の功で開拓使次官に任命された黒田清隆は、
明治4(1871)年1月にアメリカに開拓事業調査にでかけ、生き生きとしたアメリカ女性
を目にして、帰国後アメリカに女子留学生を派遣することにした。
そして明治5(1872)年10月に開拓使仮学校女学校を開設。明治9(1876)年に札幌農学校
が設立され、クラーク博士のもと新渡戸稲造など優れた人材を輩出したが、
女学校の方は資金不足と女子に厳しすぎる北海道開拓のため廃止となる。

明治4年11月 5人の女子留学生は岩倉使節団一行とともに米国に向かった。
彼女たちは官軍側ではなく敗者(幕府)側の娘たちだった。
彼女たちの親兄弟は海外渡航経験があり、外国事情に明るかった。
 吉益亮子(15歳)、上田貞子(15歳)、山川捨松(12歳)、
 永井繁子(9歳)、津田梅子(8歳) 開拓使派遣女子留学生

吉益と上田は体調をくずし半年で帰国。
明治15年11月 山川捨松と津田梅子は帰国
米国でピアノを学んだ永井繁子は彼女らより1年早く帰国

山川捨松は社会的な圧力から仕事をもつことをあきらめて結婚、
自分のおかれた環境の中でできる役割をはたした。
永井繁子は結婚して東京音楽学校教授となり、家庭と仕事を両立させた。
津田梅子は初志貫徹のため結婚も考えず女子教育向上のために人生を捧げた。
明治33年9月に梅子の努力で女子英学塾が設立される。

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