米良至剛(めらしごう):インパールの十字架 旺史社 いずれ戦場に行く身であるなら、医学部卒業の知識をいかした軍医になる道を考えた この著者は判断力が優れている。 当時は軍医予備員制度があって、4週間の教育を受けておけば、 召集がくるとただちに見習士官になれる。辛い4週間の訓練の後に無事終了。 昭和18年5月に召集令状を受け 6月5日に宇品から貨物船で南方に向かう。台湾、マニラ、そしてサイゴンで船を下りる。 サイゴンからメコン河を汽船で遡り、カンボジアのプノンペンに着く。 プノンペンから鉄道でタイを通過してペナンに着く。 そしてペナンから船でビルマのラングーンにたどりつく。7月28日 数々の病気にうちかって奇跡的に生還した。生水も飲まず アメーバ赤痢の特効薬エメチンの注射液2本は大切に帰国するまで持ってきた。 運も良かったが、この人は生きる力をもっていて努力をした人だ。 命令でビルマ・インドの国境近くに行くが敗戦の色が濃厚で やがて転進し結局泰緬国境付近で終戦を迎える。チェンマイで武装解除を受けて ナコンナヨーク捕虜収容所に入る。 旧日本軍将兵の秩序と統制は維持された。食料も十分だった。 息子たちの帰るのを祈って、脳梗塞になってからも毎日水行をした父親。 母がいきなり「あぶない」と叫んで、水をかぶり稲荷様の前でひれふした。 それは著者が戦場で戦車に遭遇し(暗渠にかくれ)頭上を戦車が通った頃かもしれない と著者は想像する。息子は必ず帰ってくる。後の二人も遅れて帰ってくる。 その母親の予言通り、2年遅れてソ連に抑留された兄と弟も戻ってきた。 著者のビルマの捕虜たちは英軍の元で、ソ連のような辛い目にもあわず 時期が来たら日本に帰されたのだった。 前線に命令され前線近くに進んだ筆者が助かり、 後退して移動する安全なはずの仲間は飢えのため死んだ。 負傷兵の傷の治療をする。創には蛆がいっぱい湧いていた。 蛆のある方が膿が少ない。創の治りも早い。 消毒して、蛆は二三匹残すようにした。 運の良い人 ちょっとの差で亡くなった多くの兵士。 飢えと病気で死んだ。戦いで死んだ者は少なかった。 インパール作戦 第十五軍の軍司令官牟田口中将の強引計画 三個師団の将兵は、インパールに向けて一斉に進撃を開始した。 食料は4週間分だった。あとはインパールを陥落して賄うという 甘い作戦だった。 1ヶ月たっても2ヶ月たってもインパールを落すことはできなかった。 恐ろしいアラカンの豪雨が始まった。輸送路は途絶え、食料も弾薬の補給も続かなかった。 パレルもビシェンプールも落ちなかった。 三月に三個師団はそれぞれ進撃したが、三月末に雨季に入ればインパール突入は 困難である、雨季明けまで待ったほうが良いと言った三十三師団長柳田中将は 五月に更迭された。 後方にあって、最前線の状況もわからぬままに、無謀な命令を出した山本少佐。 山本少佐と第一線の指揮官との感情は悪化して、隊は全滅。 英軍も中国軍も、昔の軍ではなかった。それを知らなかった日本軍の司令官たち。 第十五軍の軍司令官牟田口中将は、参謀本部附となり内地に帰る。 たくさんの兵を餓死させた彼に凱旋将軍となる資格はない。 軍隊人事の虚構と欺瞞。 死守すべし、玉砕すべしと命令した張本人が逃げて行く。 将軍たちの無策にふりまわされた兵士たち。命令のままいたずらに死んだ。 インパール作戦のひどさは、今や誰もが知る事実。 こんなところにも太平洋戦争の敗戦の原因がひそんでいた。

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