西欧の先を見た教育改革 4

教育立国として日本が近代産業国家への自己転換を みごとに果たしたことは、明治維新史の1ベージに特 筆されるべき大きな出来事であったといっていい。 例えば工業先進国イギリスの場合には、産業革命が 成功して一定の段階にまで達してから、徐々に義務教 育の就学率が上がっていくのだが、日本の場合にはそ の逆だった。義務教育制度が発足した明治5年(18 72)のわが国の小学校の就学率はわずか28%で、 イギリスの40%より格段に低かった。しかし明治3 3年(1900)には80%で早くもイギリスと肩 を並べ、明治43三年(1910)前後に両国はそろ って100%に近い数字を示した。  英国しのぐ中等教育 すなわちイギリスより約一世紀ほど産業革命が遅れ たと考えられる日本の場合には、イギリスのように社 会の工業化の後を教育が追いかけてゆくのではなく、 教育が先頭に立って、社会の工業化を引っ張っていっ たという事情を、数字が証明しているのである。 つまり日本では工業化が本格化したとき、小学校普 及はほぼ完了していた。そして驚くべきは中等教育の 進学率では明治の末年に日本は12%、イギリスは4 %で、このとき近代教育の先進国イギリスを早くも量 的に凌駕したのである。 一般にヨーロッパにおける中等教育の伸び悩みの原 因は、階級格差の残存にあると考えられる。パブリッ ク・スクールやギムナジウムやリセイは卒業しただけ で「身分」を示す標識になるということは前回に述べ たが、単線型学校制度下の日本の中等教育にはそれだ けの社会的威信がなかった。教育の自由競争は日本 を封建体制から解放するのが目的だったからである。 その結果、この国の教育が招来した最も大きな社会的 効果は「平等」だった。 それを何よりも証明したのは第二次大戦後における 高校進学率の、明治における義務教育普及率に勝ると も劣らぬ短期間での急上昇だった。昭和30年(19 55)に50%であった高校進学率は10年ごとに何と 20%ずつ上昇し、昭和50年(1975)に90% に達した。アメリカが50%から90%になるのに4 0年かかったことを考えると、世界に例の少ない急上 昇であったことがわかる。 しかし教育の「平等」は教育の「効率」を下げる、 というのは一つの公理である。人間の能力は元来不平 等だからである。異なる能力の子供を一教室に集め て、同じ教材で「平等に」教えるより、教室も教材も 能力別に分けて教えるほうが「効率」がいいことは、 自明である。単線型制度を選んだ日本の中等教育は、 戦前は中学、戦後は高校という呼び名で画一化してい る。したがって教育上の「効率」をあげるために は、学校ごとに微妙な格差を設け、学校体系をピラミ ッド型に整然と序列化することが必要になってくる。  平等が競争を激化 こうしてわが国の教育における能力の評価と選抜の システムは名目上の「平等」が実質上の「不平等」 をもたらすという病理、すなわち「平等」が進めば進 むほど「競争」を激化させるという病理を進行させ、 今日、行き詰まりの極点に達しているのは周知の通り である。現在の病的事態は明治の「学制」が高らかに 宣言した能力主義の、言うならば必然的帰結であった と考えてよい。 階級格差が残存するヨーロッパの中等教育には、こ こまで事態を崩落させない歯庄めがずっとかかってい たが、二十世紀最後の20年で同じ「平等」熱にとら えられ、日本の後を追い始めた事情を、ドイツの統計 数字で確かめてみよう。 ドイツの学校は@エリートコースのギムナジウム、 A中間階級のレアールシューレ、B労働者階級のハウ プトシューレのいずれかに、小学校四年の終了後に コースが分かれる典型的三分岐型制度だが、1965 年当時@が15%、Aが12%、Bが73%であっ た。日本でいえば昭和40年に中卒が7割以上だった ことになる。1980年には@が24%、Aが23 %、Bが44%、その他が9%と急速な変化を示して いる。そして私の入手した最新のデータは1990年 で、制度の異なる旧東独地区は統計の外になるが、@ が31%、Aが29%、Bが34%とさらに上昇し、 その他にCとして日本と同じ小学校から単線型のゲザ ムトシューレが新設され、これが6%である。興味深 いのはBの数字が州ごとに異なり、南独のバイエルン 州はいまなお41%、ベルリン市は16%と大きな開 きがあることである。しかしいずれにせよ、階級格差 による安定は壊れ始め、「平等」と「効率」の分裂 に悩む日本と同じ病理現象が出始めている。 (評論家 西尾幹ニ)

(はじめて書かれる地球日本史314 平成10年11月24日 産経新聞)

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