西欧の先を見た教育改革 3

但馬国出石藩の下級武士の出身である加藤弘之は帝 国大学総長となり、貴族院議員に勅選され、長年、明 治の学界に君臨した人物である。 「余の如きは本来貧士族から成り上がったのである けれども、今日は親任官(天皇によって叙任される 当時の最高の官吏)を辱(かたじけな)くして居るから、宮中席次に 於いては公侯爵の上に列することができるのである。 公侯爵といへば、近頃士族から成り上がった人々もあ るけれども、然かも旧大将軍家、旧五摂家が公爵中の 重もなるものであり、又旧清華、堂上や、旧国持大名 が侯爵中の重もなるものであることを考へてみると、 余等封建時代の老人には、実に奇異なる感が起こるの である」 (『自叙伝』)。  個人のための教育 明治の社会は才識、または学芸のある者はいかなる 高位高官にも昇進できる、江戸時代とはまったく異な る能力社会であることを自分は一応承知しているけれ ども、よく考えてみるとちょっと空恐ろしくなる、と いう思いを「奇異なる感」の語に込めて語ったように 思える。 維新以後、日本は驚異的な速度で欧州各国がかつて 昧わったことのない経験、社会構造を教育を通して抜 本的に変える全面的な変革の時代を通過した。財政の 裏付けもないまま、上から画一的理想の方式をかぶせ たような明治5年発布の「学制」は実施不可能な面 が多く、明治12年には「教育令」に取って替わら れた。それも問題があるとして、さらに明治18年森 有礼が初代文相に就き、大学・中学校・小学校・師範 という学校別に分化された「学校令」という四つの具体 的な法令を発布し、ともあれ一応地に足が着いた。し かし、たとえ現実からややかけ離れていたとはいえ、 最初の「学制」が提起した理念はその後の日本の教育 の方向をほぼ決めている。 教育は国家のためにではなく、個人のために必要な のだとし、「立身治産」のための学問を説き、「自今 以後一般の人民、華士族農工商及婦女子、必ず邑に不 学の戸なく家に不学の人なからしめん」と宣言してい る。国民各階層への教育必要の呼びかけは、ヨーロッ パではやっと第二次大戦後、主に1970年代に慌 てて行われだしたが、そのとき日本は高校進学率90 %を超え、むしろ教育過熱状態に悩み出してさえい た。 明治の「学制」がフランスの制度を模して8大学 区、各大学区に32中学区(256校)、各中学区に 210小学区(53760校)を設けると定めた中央 集権的体制は財力なき当時としては時期尚早で、むし ろ反発を買ったが、この規模が実現されるのはさして 遠い未来ではなかった。  単線型の学校制度 しかし何と言っても、「学制」の中の最重要のポ イントは、中央集権スタイルだけはフランスを模した のに対し、フランスやドイツやイギリスなどヨーロッ パ諸国で今も普通の、エリート階級、中間実務者階 級、労働者階級という三つに分岐した複線型の学校系 統を採用せず、これだけはアメリカから学んで、単線 型の学校系統を提示したことである。これは明治維新 が下級武士によるきわめて開明的な、教育を用いた 「革命」であったことの何よりもの証拠といっていい。 全国的な初等教育制度を実施し、学校制度の全体を 段階的なピラミッド構造に一元化しようとする決意も また歴然としていた。ビラミツドの頂点を目指して、 すべての児童は同し所から出発し、それぞれ才能や能 力に応じどこまでも高く登ることができるとする公平 の確保が高らかに謳われていた。 ヨーロツパ諸国をもはるかに凌ぐ、合理的で普遍的 な単線型学校制度という選抜方式をつくりあげること に、なぜ日本はこんなに早く成功したのだろうか。ヨ ーロッパ諸国が第二次大戦後にも何とか克服し、脱却 しようと苦悩した複線型学校制度 ー いまなお成功して いない ー を、日本は明治の初頭に少なくとも理念的に は実に易々と乗り越えてしまった。 この飛躍を可能にした要因についてR・P・ドーア 『学歴社会 新しい文明病』は、「支配階級の構成 ・文化両面における非連続性」を挙げている。イギリ スでは十八世紀の貴族エリートから、1970年代の オックスブリッジ・エリートヘの変遷には一貫した流 れがある。家系、趣味、生活様式、自意識は世代から 世代へとつながっている。地主貴族文化の継承といっ ていい。しかし日本の支配階級は、明治維新により一 変し、断絶した。 近代日本の成功が教育にあるとはたしかにこのこと だが、同時にこの成功は別の新たな災いをも随伴して いた。 (評論家 西尾幹ニ)

(はじめて書かれる地球日本史313 平成10年11月23日 産経新聞)

次の回へ