西欧の先を見た教育改革 2

銀行家として出世するのに必ずしも大学の卒業生で あることを必要としないドイツでは、編集者や新聞記 者や高校教師のような仕事に就く人でもやはり必ずし も大学の「卒業」を前提としない。「卒業」とはここ では「学位」の取得を意味する。高校教師になるに は、もちろん国家試験は通っていなくてはならない。 しかしそれは大学が与える資格ではない。  威信を保つ中等教育 新聞社や出版社などの情報産業に携わっているドイ ツ人に、どこの大学の「出身」かと訊いても、日本と 違ってうまく答えられない人が多い。「フライブルク 大学の哲学科に2年いてそれからミュンヘン大学で美 学を1年学んだ」と言ったりする。それ以上大学にい る必要がないから実務についたという意味である。 大学の「卒業」という概念が日本のように明確では ない。けれども、中高等学校(ギムナジウム)の卒業 試験(アビトゥーア)にドイツ人はこだわる。これさ え通っていれば、大学はどうでもいい。いわゆる中等 教育にそれなりに社会的威信があるのである。 ここ10年くらいは大学進学希望者が急増して、ドイ ツの様相は少しずつアメリカや日本に近づいている が、「アビトゥーア」の威信は落ちてはいない。同じ ことはフランスのリセーの「バカロレア」についても いえる。 イギリスのパブリック・スクールの卒業生は永い間 それだけでジェントルマン階層の身分証明であった。 フランス語でブルジョワジーとは「バカロレア」の取 得者のことを言うのではないか。「アビトゥーア」の 取得者は昔は「ジャーマン・マンダリン」との俗称を 得た教養貴族階級で、わが日本の旧制高校生が「あゝ 玉杯に花うけて」と唄ったのは、ドイツ人のギムナジ ウムの特権意識を模倣してのことであった。 しかし日本では中等教育が一定の威信を勝ち得ると いうことはついに起こらなかった。旧制中学の進学率 がまだ低かった時代(昭和16年で同年齢層の16 %)にも、旧制中学卒に特別の呼称はなかった。戦前 の日本に中間階層が育たなかったことにも原因がある が、その根本の原因は何であろうか。幕末に藩校が廃 止されたときに、藩校を中心として士族階級のための 特別学校が作られ、明治期に継承されていたなら、恐 らく日本にも階級的威信を保持した中等教育の一組織 が生き残ったであろう。  特権を否定した士族 これはまさに明治維新の性格に関係があるが、そう したものを打ち破ってしまうこと、士族が士族として の特権を自己否定して国難に殉したことに維新の意義 がある。維新は下の階級が上の階級を破壊する意昧で の革命ではなく、武士階級が自己の階級的利益を放棄 して、それによって前近代的身分秩序を自らの手でな くそうとしたやはり一種の革命であったことは否定す べくもない。 もちろん維新の主体となった下級武士が前半生にお いて身分的制約に苦しみ、その重い思いを改革案に盛 り込んだという事実はある。けれども上級武士への 反乱の形式はとられない。彼らは藩主に対し忠誠を守 りつつ、一歩ずつ前進した。 維新はいかなる意味でも西洋的革命ではない。もし 西洋的革命なら、商人(市民)が武士を倒す階級闘争 に走ったはずだ。どさくさ紛れに下級武士が上級武士 の位置を奪う簒奪(さんだつ)が行われたはずだ。ところが彼らの 目は諸外国からの圧力と脅威にのみ向けられ、日本と いう統一意識がはっきりしていて、国内の秩序序列を 乱していない。 けれども、ものは見方によるのである。西洋的革命 ではないが、西洋のどの革命よりも、明治維新の変革 は体制を革(あらた)めるという点では徹底的であり、根源的で あったといえなくはない。すなわち支配階層の交替と いう点で、日本は西洋のあらゆる国の革命家たちの為 し得ないことをした。しかもその力法はギロチンによ ってではなく、教育制度の変革という方法によった点 がこのうえなく独創的だった。 大名の息子たちが新時代の指導者となったのではな い。士族階級のための特別学校も作られなかった。幕 末に武士の子と町人の子を一緒に学ばせ競争させる私 塾がいくつも生まれ、能力主義に火を点けていたが、 「学制発布」はその精神を継承し、拡大した。有能な 者は身分にとらわれずに抜擢され、留学生として海外 派遣され、帰国して政府枢要の地位についた。 同時代の中国では帰国留学生は排斥されている。教 育が日本を前近代の桎梏(しっこく)から解放する決定的手段とな った。なぜ近代日本の教育が競争と結びついたかとい う前回の問いへの一つの答えである。 (評論家 西尾幹ニ)

(はじめて書かれる地球日本史312 平成10年11月21日 産経新聞)

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