かのやうに (あらすじ) 秀麿はいずれ父の後を継いで子爵となる身である。学習院から文科大学に 入り、歴史科を立派な成績で卒業した。しかし、勉強しすぎて神経衰弱 寸前であった。父親が心配して気分転換にヨーロッパに留学をさせた。 彼はベルリンで勉強して元気に勉強の成果を手紙で書いてきた。 秀麿はドイツの神学者が国王の政治の相談役として活躍している例を 感動して報告してきた。 その手紙を読んで父親は父親なりに次のように理解した。 宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、 牧師になるためで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学 は不用なやうに見える。学問のしない、智力の発展していない多数には 不用なのである。しかし、学問をしたものには、それが有用になってくる。 元来学問をしたものには、宗教家のいう「信仰」はない。さう云う人、 即ち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音を尊敬しろ と云っても、それはできない。 ドイツの新教神学のやうな、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが できていると、教育のあるものは、志さへあれば、専門家のきれいに 洗ひ上げた、かすのこびり付いていない教義をも覗いて見ることができる。 それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるように なる。そこで穏健な思想家ができる。ドイツにはかう云う立脚地を有して いる人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいているというのは、 ここにある。父はおおよそ秀麿の手紙の趣意は呑みこめた。 かえりみて父は自分の宗教観の問題に気がつく。息子は、教育が信仰を 破壊するものだと考えているようである。 今の教育を受けて、神話と歴史を一つにして考えていることはできまい。 世界がどうしてできて、どうして発展したか、人類がどうしてできて、 どうして発展したかということを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の しかたをしても、何かの端々で考へさせられる。そしてその考へる事は、 神話を事実として見させてはおかない。神話と歴史をはっきり考へ分けると 同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった 前途には恐ろしい危険が横たはっていはすまいか。一体世間の人はこんな 問題をどう考へているのだろう。 こう考えた父親は3年後に帰国した息子と深い会話を避けるようになる。 息子もこのテーマは避けたかった。実は、本人も悩んでいたのであった。 そんなとき、秀麿の友人が訪ねてきて、秀麿の読んでいる本に気がつく。 秀麿はこの本は面白いという。それは「ヂイ・フィロゾフィイ・デス・ アルス・オップ」という本であった。秀麿は友人に本の解説をした。 「裁判所で証拠立てをしてこさえた判決文を事実だといって、それを 本当だとするのが、普通の意味の本当だろう。ところが、さう云ふ意味の 事実というものは存在しない。事実だといっても、人間の写象を通過した 以上は、物質論者のいう湊合が加はっている。意識せず詩にしている。 嘘になっている。........ 一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのというものがある。どんなに 細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって 線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点 にはなっていない。点と線は存在しない。ただし点と線があるかのやうに 考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのやうにだね。 精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。 その無いものを有るかのやうに考えなくては、倫理は成り立たない。理想 といっているものはそれだ。........ 宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのやうに 考えるといっている。孔子もずっと古く祭るにいますが如くすと云っている。 先祖の霊があるかのやうに祭るのだ。さうして見ると、人間の智識、学問はさておき 宗教でもなんでも、その根本を調べてみると、事実として証拠立てられない ある物を建立している。即ちかのやうにが土台に横たはっているのだね。」 ☆ ☆ ☆ 「かのように」の中心テーマは、歴史学における神話と科学の調和の問題で あろう。わが国の歴史は戦前においては天孫降臨から始められていた。 即ち神話が無媒介に歴史に重なっていた。歴史学を専攻する主人公は、学者の 良心として、そのような立場を是認することはできない。だが天孫降臨神話を 否定すれば、日本の大切な「御国柄」の根本が失われてしまう。子爵家に 生まれた主人公は、そういう「危険思想」を公表することができない。 主人公は、神話と学問の間にはさまれて、ノイローゼに陥る。そういう状態の とき、たまたまファイヒンゲルの「かのやうにの哲学」を読んだ。 ファイヒンゲルによれば、すべての価値は「意識した嘘」の上に成立している。 即ち「かのやうに」という仮定の上に立っている。現実には長さだけあって 幅のない線、位置だけあって、大きさのない点などは存在しうべくもないが、 そういう点や線を、あるかのやうに仮定しなければ幾何学は成立しない。 霊魂不滅や自由意志は現実には存在しないが、それをあるかのやうに仮定 して、始めて倫理も法律も可能になる。扱うところに秩序が保たれると すれば、この「かのやうに」こそ一切をあらしめ、秩序づける根本として 尊敬せねばならぬ。主人公はファイヒンゲルからそういう哲学を借りて、 神話は事実ではないが、事実であるかのやうに扱うことによって、 「御国柄」と矛盾しない歴史学を構想しようとする。 鴎外は大逆事件に当面して心配した山県有朋から危険思想対策を求められ、 それに応じて書いたのが、この「かのやうに」であったという。 これが妥協折衷の立場であることはいうまでもない。鴎外は「御国柄」維持 という至上命令のもとに、柁をとる人間として折衷主義を考えたわけであった。 (日本文学全集4、森鴎外集、唐木順三解説、筑摩書房)