森鴎外の簡単な年表

文久2(1862)年  島根県津和野に生まれる。父森静泰(のち静男)、母ミ子(ね)(峰子)。 明治14(1881)年 19歳 春に肋膜炎を患う。7月東大医学部卒業 12月陸軍軍医副に任ぜられる。 明治17(1884)年 22歳 6月ドイツ留学を命ぜられる。 10月ベルリン着  ライプツッヒ大学に入りホフマン教授のもとで研究。 明治19(1886)年 24歳 3月ミュンヒェン大学に入りベッテンコーフェル教授のもとで研究。 明治20(1887)年 25歳 4月ベルリン大学に入る。コッホ教授に師事する。 明治21(1888)年 26歳 7月ベルリンを出発してロンドン、パリを経由して9月帰国。 (まもなくエリーゼ来日、築地精養軒に入る。鴎外の家族の説得で帰国) 明治22(1889)年 27歳 3月海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。 夏に根岸から下谷区上野花園町11番地に住む。 (この家は、池之端3丁目の水月ホテル鴎外荘に保存されている) 明治23(1890)年 28歳 1月「舞姫」を発表。(舞姫はベルリン時代の精算か) 9月長男於菟(おと)生まれる。妻登志子と離婚。 10月本郷駒込千駄木町57番地に転居。 この家は後に夏目漱石も住んだ。現在明治村にある。  漱石はロンドンから帰国して明治36(1903)年3月に住むが、  明治39(1906)年12月に本郷区西片町十ろノ七に転居した。 明治24(1891)年 29歳 8月医学博士となる。 明治25(1892)年 30歳 1月本郷駒込千駄木21番地に移転。父母、祖母が来て同居。 以後死ぬまでここで住む。 この家は団子坂上にあって、現在文京区立鴎外記念図書館となっている。 明治28(1894)年 33歳 6月台湾総督府陸軍局軍医部長となる。10月に軍医学校長として東京に凱旋。 明治29(1896)年 34歳 4月父静男死去。 明治32(1899)年 37歳 6月第十二師団軍医部長として小倉に赴任する。           明治33(1900)年 38歳 1月旧妻赤松登志子死去。 明治35(1902)年 40歳 1月判事荒木博臣の長女茂子(志け)と結婚。どちらも再婚どうし。 3月第一師団軍医部長として東京に戻る。 明治36(1903)年 41歳 1月長女茉莉生まれる。 明治40(1907)年 45歳 8月次男不律まれる(翌年2月死去)。 明治42(1909)年 47歳 5月次女杏奴生まれる。 7月文学博士となる。 明治43(1910)年 48歳 9月「青年」を発表。 明治44(1911)年 49歳 2月三男類まれる。 9月「雁」を発表。 明治45・大正元(1912)年 50歳 1月「かのように」を発表。 大正2(1913)年 51歳 1月「阿部一族」を発表。 大正5(1916)年 54歳 3月母峰子死去。 大正11(1922)年 60歳 7月肺結核で亡くなる。 向島弘福寺に埋葬。後に三鷹の禅林寺に改葬される。      新潮日本文学アルバム 1 森鴎外(1985)

母まかせの結婚 母さえよければいい。(昔はこういう結婚が多かったらしい。中国も)