板の間


 渋民村の啄木が代用教員を勤めた小学校を見ると、
板の間の教室で子供の頃勉強したことを思い出します。

そういうわけで、ここでは小学校、中学校、高等学校で勉強したことについて
思いつくまま書いてみたいと思います。私の学校時代の思い出にちなむものばかりを。

 小学校の恩師で思い出す先生は4年生のときの担任だった女の先生。
漢字の書き取りテストを毎週して、成績上位の生徒を誉めたりした。

実は私はそれまで家で勉強をしたことがなく(宿題も忘れていた)、
したがって小学校の勉強がだんだん難しくなってきて、
漠然とした不安をいだいていたものだった。

この漢字の書き取りテストに、どういうわけか前の晩に母親から強制され
しぶしぶ勉強していったところが、満点を取ってしまった。
そこから少しずつ私の自宅での勉強の習慣が始まっていったのだと今考えている。

(実は今でも漢字は書けなくて困っている。
ワープロぱかり使っていると本当に漢字が書けなくなりますよ)

ともかく家で勉強する習慣をつけてくれた、私の恩人の女の先生だった。

 5年生のときの担任の男の先生も元気がよく、字がきれいで、
なんでも上手にできる印象の強い先生だった。

この先生から聞いた話で一番印象に残っているのは、
人間は死ぬときどういう死に方をするか、それは自分の責任である、
という内容の話だった。

その先生の祖父が死んだときは、炭坑の公衆浴場
(炭坑住宅街には当時温泉のように大きな浴場があったものだった)
から帰ってきて、家の前まで来ると具合が悪くなり玄関前でしゃがみ込んで、
そのまま眠るように亡くなったという。

普通の人間は死ぬときは、死にたくない、ああ苦しい(痛い痛い)と叫びながら
死ぬものだという。

日頃の行いがよく自分の可能性をつくして精一杯仕事をしおえた人間は、
満足してやすらかに死ねるのだと先生は教えてくれた。

今はやりの言葉でいえば、自分実現できた人間は一生を満足して死ぬことができる
ということであろうか。

小学生でも自分の一生はどうあるべきか、一生を終えるとき納得して満足して
死ねるものなのか心配だった。

お年よりたちが楽に死ねるようにポックリ寺なるものにお参りに行く、
ということを年をとるとともに回りで聞いたりしている。

満足して安らかに回りに迷惑をかけないで死にたい、
そういう願いは人間社会には普遍的な願いなのであろう。

私が考えるに、その理想的な死に方をした人として、農学部の先生を思い出す。
大学を退官されても地域の畜産のため、あるいは学会のために仕事を続けられていた。

学術会議のメンバーでもあり、その会議で東京に行って、
やっと会議も終わり自宅に帰ってきて、入浴後ウィスキーをコップに少し飲んで
部屋でくつろいでいたという。

明かりを消さないでいてしばらく音がしないから奥様が見に行ったら、
なんと亡くなったばかりでまだ温かかったという。

入浴して清潔な身体で、大好きなアルコールを少し飲んで、
布団の上で死ねたという、誠に理想的な大往生だった。

さてまた小学校の先生の話に戻るが、この小学5年生の担任の先生に、
トルストイの童話イワンの馬鹿の話を聞いたことがある。

イワンは王様になっても働くことをやめなかった。
夫に感化されて女王様も一緒に働いたという。

そこへ悪魔がやってきて、何か食べる物を求めたが、
その国では働かない者には食べ物を与えられないことになっていた。

悪魔は手を調べられた。悪魔の手はすべすべして、豆やたこがなかった。
つまり手を使って働いたことのない手だった。

こんなきれいな手をしていれば働いていない証拠だとばかり、
悪魔には食べ物が与えられなかった。

そこで、みんなは手にたこや豆ができているかと先生は聞かれた。
私ははっとした。
当時の子供は今よりは家庭で仕事をさせられていたと思うが、
私はサラリーマンの家庭に育ったので、なかなか力仕事もさせられず、
(水くみもしたことがないので)手にたこも豆もできるはずがなかった。

家で寝るとき布団の中で、イワンの国に行ったらどうしようかと心配していた。

ふと思いついたのは、右手の中指にペンだこがあるのに気がついた。
ああ安心した。この右手のペンだこは今も健在です。 ^^)

 中学では、数学を教えてくれた背の高い先生が忘れられない。
美術も教えていたが、なんといっても数学だ。
数学は考えることを教えてくれた。

時間はいくらかかってもいい、納得するまで考えて、
とにかく自分の頭で考えることが大事だということを身をもって教えてくれたと思う。

この先生のおかげで数学嫌いにはならなかった。

この先生は戦争に行って弾の飛ぶ戦場で大砲の弾の計算をしながら
三角関数や測量を勉強したという。

計算が間違ったら、そのまま戦争に負けて死んでしまう。
だから必死で勉強した。それで知識は身についたと話してくれた。

後に退職され札幌に住んでいた先生を囲んで中学の同級生たちが
札幌駅前で集まった。

私は盛岡の町とか岩手大学構内をスライドに撮影しておいたのがあったので、
そのスライドを札幌に持っていって見せたことがある。

現在の農学部の記念館(農業教育資料館)、あれは私が岩手大学に来たときは
集会場にまだ使っていたが、あの建物のスライドを見せたら、
先生はあとで「大変なつかしい物を見せてもらった」と言った。

実はその昔、先生は樺太に住んでいて、盛岡高等農林学校にあこがれ、
わざわざ樺太から北海道に渡り、さらに津軽海峡を越えて盛岡まで受験に来たという。
あの記念館は当時の受験会場であったという。

入学試験には合格したが、親元から遠い岩手県まで離れて勉強することは
経済的にも困難で、結局先生は樺太の地元の師範学校に入学したという。

中学校の理科の先生は英語の先生でもあった。
私に昆虫採集の手ほどきをしてくださった先生であったが、
私たちが2年生なったら、結核で入院され、以後英語の勉強は悲惨な
ことになってしまった。

私の英語の能力は中学1年生の学力(あとは独学みたいなもの)で
ストップ。だから、高校に入って、他の中学から来た友人の単語力とか
英語力に感心するばかり。
それ以来、英語コンプレックスにおちいっている。
(外国に行ったら、英語が頼りなので使うけど。北京で中国人と英会話)

勉強しないことを自分のせいにしないで先生のせいにするのはよくない傾向
だと思うが、先生の影響はあるのではないだろうか。

この先生の昆虫少年に対する影響はすごく、後に指導主事、校長と
なってゆくかたわら、周りの子どもたちに自然観察の楽しさを教え続けた。

たとえば、この先生の影響で、北海道の栗山町に国蝶オオムラサキを
育てる運動を起こした青年はまさに、わが恩師の教え子という。

ときどき札幌に行くとき、この恩師 (恩師の写真。女の人は小学校のときの先生です)の家に行きます。

 さて高校は大学受験を控えて、北海道の地方の高校でも勉強するところであった。
私は数学の先生にまた恵まれた。

その先生は数学の理解力だけでなく計算力を鍛えることを目標にしていた。
長い式も因数分解も、この先生はなんなく解いていく。

計算力のある学生は教室でも誉める。

さらに先生は自分は数学の成績を相対評価ではなく絶対評価でつけると説明した。
したがって、成績が良いと判断したら、5名でも7名でも満点をつけるのだと言われた。

そのため他の先生から嫌味をいわれることもあるが、
私は自分の信念でいくのだとなかなか強い先生だった。

この先生のおかげで、受験勉強の半分くらい数学にあて計算力を鍛えた。
計算力は現在の私の専門にも役に立っている。専門の研究では解析的仕事もあるから。

実は、後になって私は工学部資源開発工学科の卒業生名簿を見ていたら、
高校のとき計算力をつけさせてくれたこの恩人の先生の名前を発見したのだった。
珍しい名前だし、年令も近い。

もしやと思い、岩手大学工学部の卒業生名簿をたよりに、
北海道のその先生に手紙をだしたら、はたして私に教えてくれた恩師だったのであった。

石狩の高校の校長先生になっておられ、札幌でお会いし当時のお礼を言うことができた。
誠に縁とは不思議なものである。

高校の恩師の母校のしかも出身の学科に職をえて、
その後輩を教育できる幸運をできるだけ使おうと考えている。

岩手大学建設環境工学科の簡単な歴史

 さて大学に入学して大学での数学はさらに難しく、
偏微分や収束問題、ベルトル解析などだんだんわけのわからぬ世界になっていった。

(私の入った時は教養課程の終わった2年生後期に、
希望の学部学科に進むことになっていた)

理学部数学科に進学しようなどとは決して考えることはなかった。

しかし、真面目に勉強すればそこそこの計算はできるようになり、
例題さえ覚えたら簡単な応用問題はできるようになったので、
学者にならないなら工学部で数学を使って何か目に見える役に立つ製品でも作ろうかと考え、
工学部に進学することにした。

数学を使って何を作ろうか色々考えているうちに、重いトラックも列車も通す、
深い谷や幅の広い川に架けられている橋を設計するのがいいかなと考えるようになった。

 そうして色々と設計計算理論を学んでいるうちに縁があって、
岩手大学の教官となってしまった。

しかし、自分のように物理学のセンスもなく、難しい数学の苦手な者が教育者となって
学生を導いていけるのだろうか。

いいかげんな教育をして、未完成な技術者を世に出して、
あとで問題にならないだろうかと不安になったものだった。

少なくとも私が疑問に思ったことは、よく調べて納得してから、
私の学生をきちんと教育しなければならない。

彼らが岩手大学で勉強して、納得して自信をもって卒業していってほしいと思った。
27年間私も構造力学には力を入れた。

その結果、手作り教科書も世に出すことができた。

また、学生たちにきちんとした計算力をつけさせようと考えたのである。
東北工業大学の先生が開発した、多人数学生に構造力学の演習をさせるのに、
乱数を使って全員が違う組み合わせの数値を与え、
その条件のもとで課題を解くという方式のプログラムを教えていただいた。

10数年この方式で構造力学の演習問題をさせている。
問題形式も毎年私の研究室の4年生に作ってもらい今では200種類を越えるくらいになった。

こうやって計算力を高めるのはいいことだと卒業生になってから彼らは言う。

教室で問題を解いているときは、頭をかかえていたり、
私を仇のようににらんでいたりしたが、
卒業したらやはり力をつけさせてくれた大学に感謝するものなのだ。

というわけで1年生に毎週1回ある講義の後半には、復習のための力学演習問題を課している。

最近の学生はセンター試験で択一式問題に慣れて、
用意された答の中から正解を選ぶのは早いが、
何もないところから答えを作り上げるのは苦手である。

当然計算力も衰えている。
もっとたくましくなってほしい、卒業して活躍してほしいと考えるので、
計算問題を出題する。毎週採点して返するは骨が折れることである。

 そして文章を書く習慣も大切なので、作文も書かせている。
私が要求するのは、誰が読んでも理解できる単純明瞭な文章であって、
かならずしも美文や名文は要求していない。

なぜ構造力学に作文なのかと彼らは不平を言うが、
卒業してコンサルタントや役所に入ったら、報告書の提出は日常の仕事である。

自分の考えを整理して文章にまとめ相手に理解してもらうことは命の次に大事なこと。

コンサルタントに入社したら末は技術士を目標にしてほしい。
そして技術士の試験といえば、4時間も5時間も自分の技術経験やセンスを整理して
文章に書きまくることなのだ。

普段から自分の考えをまとめて整理して書くという習慣をつけることは大切なことである。
それは教室で私に宿題を出され憤慨している学生たちには理解できないであろう。
しかし卒業した先輩は、作文を書かせてもらってよかったと感謝しているのである。

 教育とは、個々の学生の個性と教官の個性とのぶつかりあいであり、複雑である。
P先生の説明をわかりやすいと評価する学生と反対にわかりにくいという学生がいても
不思議ではない。

X大学の成功例をもってきても、W大学でうまくいくとは限らない。

でも、先生の熱意というものは学生には伝わるものであろう。

休講が多く試験も甘い先生は学生時代は人気があるが、
社会人となったら評価は変わる例もある。

とりあえず私は理解できた学生の数を増やすよう努力を続けるつもりである。

教育は教師の力量だけではなく、それを受ける子どもの素質にもよる。かおるさんの教育論を紹介します。

私の卒業した高校は日本で一番東にある根室高等学校である。
上に書いたもろもろの先生は実は根室ではなく、空知の学校の先生の話である。
北海道は広い。私が北海道を転々とした詳細は別の機会に書きたい。

根室は北方領土のクナシリ島やエトロフ島が近い。
根室は横浜や神戸よりも早くから、外国との関係が深かった。
根室のホームページが見られます。ここで歴史浪漫を見たらいいです。

200年前にロシア人が漂流日本人大黒屋光太夫(幸太夫とも書く)ら
を連れて、根室にロシア最初の日本への使節としてやってきたのでした。

光太夫らのカムチャツカ、イルクーツク、ペテルブルグまでの旅は北方漂流記として
小説にもなっています。彼らは、エカテリーナ2世女帝に謁見し、帰国が許されました。

あのリンドバーグ夫妻も新婚旅行をかねて根室に着陸しました。
夫妻の泊まった旅館の名前も根室のホームページに出ています。
私の同級生はこの旅館の息子です。

根室高校3年生のときのクラス担任の先生は元気のよい真面目な国語の先生だった。
この先生は学生を大事にした。

その一例として、夏休みにクラス全員を連れて阿寒(屈斜路湖畔)にキャンプ
を実施した。非常に楽しい思い出でであった。
後に友人と先生宅を訪問して、このことのお礼を述べたら、
実は職員会議で大変だったことを教えてくれた。

やはり大勢の高校生を男女とも連れて行ってキャンプをすることに
先生方は心配されたのであろう。
保健室の女の先生も引率者に加わっていたのは、担任の先生が
職員会議でなかなか許可がでなかったから、それではと頼んだからという。

改めて担任の先生の苦労に感謝したものだった。

当時の同級生には大学や高専や高校の先生をしている者が多い。
先生になってみると、むかし習った先生の苦労がよくわかるものである。

本日、教室で3年生のE君から、私のホームページを見たが、
このページが良かったとコメントをもらった。
そのうち、彼の独特な意見を紹介してみたい。
(彼などホームページを作らせたら、こり出すかもしれない)

というわけで、ぼつぼつ学科の学生たちからも見られていることを考えておかないと。