梅田修:世界人名ものがたり、講談社現代新書1437
これを参考にしながら、自分のおそまつ知識も加えて書いていきましょう。
ニコラス
ニコラスはヨーロッパでもっとも早く広まったクリスチャン・ネーム。
英国でもノルマン人のイングランド征服以前にすでにあったという。
フランク王国分裂の危機の時に、強力なローマ教皇として尊敬を集めた
聖ニコラウス1世(Nicolaus I 在位858−867)の影響が強い。
ニコラスは、ギリシア語nike(勝利)とlaos(人々、兵隊)からなる
Nikolaosが語源。
ラテン語ではNicolaus。nike(勝利)は、有翼の女神ニケとして神格化された。
ニコラウスは、中世後半のヨーロッパで、現在の南西トルコの地中海沿岸の
湊町ミュラの司祭聖ニコラウスにあやかって人気のある名となった。
彼は、ディオクレティアヌス帝の迫害により投獄され、コンスタンティヌス帝の時出獄し、
325年にニカイアの第1回宗教会議に出席したと言われている。
ミュラの聖ニコラウスについては、売春を強要される3人の貧しい娘に3袋の金を与えて
救ったという伝説が知られている。
この伝説ゆえに、聖ニコラウスは未婚の女性の守護聖人とされる。
また、子どもたちを守ったという伝説から、子どもの守護聖人ともされた。
西ヨーロッパで聖ニコラウス崇拝が特に盛んになるのは十字軍の時代である。
1089年イスラム教徒のトルコ人がミュラを荒らしたので、
南イタリアのノルマン人が聖ニコラウスの遺体を彼らの都バリ市に移した。
そして、その墓の上に大聖堂を建て、ニコラウスを同市の守護聖人とした。
当時の南イタリアのノルマン王国はヨーロッパ最強の王国であった。
サンタ・クロース(Santa Claus)はオランダ語のサンテ・クラース(Sante Klaas)
から変化したもの。Klaas はドイツ語名 Nikolaus の短縮形 Klaus がなまったもの。
今日の赤い服を来た白ヒゲのサンタクロースは、かつてニュー・アムステルダム
(現在のニューヨーク)に移民したオランダ人が作り出したもの。
とすれば、サンタクロースはアメリカで誕生したことになる。
ドイツのサンタ・クロースは、教皇帽をかぶっていて偉そうだ。
南ドイツでは、サンタ・クロースが召使いループレヒト(Ruprecht)を連れている
ことがある。
このループレヒトはザルツブルクやヴォルムスで司教を努めた聖ループレヒトの
ことであるとされている。
彼はザルツブルクの岩塩坑を開発した。彼の業績は土着の技術や伝統に結びついているのだろうか。
サンタ・クロースが召使いループレヒトを従えているのは、キリスト教が土着の異教的伝承を
とりこんでいったことを示しているのであろうか。
ゲオルギウス
イギリスではジョージ1世(在位1714-27)からジョージ4世(在位1820-30)まで
ドイツのハノーファー出身の国王が続いた。
その後もジョージ5世(在位1910-36)、ジョージ6世(在位1936-52)という国王が出た。
このジョージ6世はエリザベス2世の父親である。
アメリカのジョージア州もジョージ2世にちなむし、初代大統領ジョージ・ワシントン
の名もジョージ2世にあやかって付けられたという。
英語名ジョージ(George)は、ギリシャ語名ゲオルギオス(Georgios)、ラテン語名
ゲオルギウス(Georgius)が語源である。
竜を退治した聖ゲオルギウス伝説は、メソポタミアの豊饒神話がもとになって、
各地の神話を取り入れられ、次のような聖ゲオルギウス伝説ができている。
聖ゲオルギウスが、トルコの西部リュデアのシレネを通りかかった時、
湖の竜の生け贄として捧げられた王女を見つけ、王女を助けるべく、
竜退治ら成功する。そして王をはじめ多くの人々をキリスト教に改宗させた。
ドイツでも、聖ゲオルギウスは聖ゲオルク(Georg)と呼ばれ、ドイツの守護聖人
として尊敬されている。
マーガレット
Margaret の愛称に、マギー(Maggie)、マッジ(Madge)、メッグ(Meg)、ペギー(Peggy)、
ペッグ(Peg)等がある。
「風と共に去りぬ」の著者マーガレット・ミッチェルはペックと呼ばれていた。
「若草物語」の姉妹の中にも、メッグがいたと思った。
マーガレット(Margaret)は聖女マルガリタ(Margarita)から来ている。
英国では、スコットランドのマルコム3世(在位1058-93)の王妃、聖マーガレットにより
伝統的な名前となった。彼女はアルフレッド大王とハンガリー聖王の
それぞれの血をひく女性である。アルフレッド大王もハンガリー聖王もローマ教会
の強力な保護者であったから、彼女も当然キリスト教徒であった。
彼女はノルマン人(バイキング)の侵攻をのがれ母の実家のハンガリーへ
逃れる途中に嵐にあい、助けられたスコットランド王マルコム3世の王妃となったのである。
アルフレッド大王はウェセックス王家のイングランド王(在位871‐899)。
当時のイングランドの大半はバイキング(デーン人)の侵入を受けてその支配下にあり、
アルフレッドはイングランド軍を指揮して戦い、何度か敗戦をくりかえした後
878年エディントンの戦で勝利して、バイキングとの境界を画定し、
その王グスルムをキリスト教に改宗させた。
アルフレッド王は軍事上・政治上の手腕にすぐれ、「アングロ・サクソン年代記」を編纂
させるなど、学芸の復興にも力を注いだ。イギリスでは、カール大帝にもならぶくらいの
アングロ・サクソン時代の最もすぐれた王とされている。
グレートヘン(Gretchen)やグレーテル(Gretel)は、ドイツ語名マルガレーテ(Margarete)の愛称である。
グレートヘンは、ゲーテの「ファウスト」において、ファウストに愛をささげる女性。
グレーテルはグリム童話「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるが、両親に森に捨てられ、
兄ヘンゼルと一緒に魔女退治する少女である。
グレートヘンもグレーテルも神を信じて、それゆえ最期にハンピーエンドになる話と
なっている。これは聖女マルガレーテの名前とイメージにそっている。
マーティン
マーティン(Martin)は、ローマの軍神マルス(Mars)の所有格から変化してできた名前という。
聖マーティンすなわち聖マルタン(St. Martin)はフランスの守護聖人として有名である。
伝説では、聖マルタンはハンガリーの生まれであり、父のようにローマ兵として徴兵された。
ある寒い日に、アミアンに入城しようとしたとき、寒さに震えている乞食を見かけた。
かわいそうに思った聖マルタンは、自分のマントを半分引き裂いて、その乞食に与えたという。
その夜、聖マルタンは、彼が与えたマントを着たキリストの夢を見た。
それから彼はキリスト信者となっが、ローマ兵士である自分との矛盾を感じ、
皇帝に兵役免除を願い出たため、臆病者とされ投獄された。
聖マルタンの法衣は聖遺物とされた。法衣のことをラテン語ではカペラ(cappella)という。
やがて、聖マルタンの聖遺物としての法衣を入れる箱をカペラと呼ぶようになった。
そして、カペラを安置した礼拝堂をカペラと呼ぶようになるのである。
そのカペラが英語のチャペル(chapel)である。なお、ドイツ語ではカペレ( Kappele)である。
聖マーティン祭はドイツでも11月11日に行われる。マーティンが自分の衣を
ぬいで乞食に与える場面を再現してみせる。
Kalender der Namenstage
英名マーク(Mark)は、福音者マルコにちなむ名であるが、ラテン語では
マルクス(Marcus)、ギリシア語ではマルコス(Markos)であり、軍神マルスからきているとされる。
クロヴィス
フランス国王名ルイ(Louis)、ドイツ国王名ルートヴィッヒ(Ludwig)は、フランク王国創始者
メロヴィング王朝のクロヴィス(Clovis 在位481-511)から来ている。
メロヴィング朝とは5世紀末から8世紀中期までのフランク王国のことである。
メロヴィング朝は相続を繰り返すうちに分裂し、やがて宰相ピピンが現れ、
カロリング王朝をうちたてフランク王国を再びまとめあげる。
カロリング朝はフランク王国の後期王朝(752‐987)のことであるが、カール大帝の名をとってそうよばれる。
カール大帝(シャルルマーニュ、カルロス大帝)(在位768‐814)の子ルートヴィヒ(ルイ)1世(在位814‐840)
によって受けつがれたフランク王国は、ルートヴィッヒ1世の息子たち、
ロタール1世(中央フランク)、ルートヴィヒ2世(東フランク)、カール(シャルル)2世(西フランク)によって分割される。
それらが今日のイタリア、ドイツ、フランスのもとである。
カール
英語名チャールズ(Charles)、フランス語名シャルル(Charles)、ドイツ語名カール(Karl)
は、英語のcorn(穀物)と同じ系統の言葉で、穀物を栽培する農夫の意味でも使われた。
カール大帝(Karl der Grosse)はフランス語ではシャルルマーニュ(Charlemagne)、
ラテン語ではカルロス大帝(Carolus Magnus)、英語ではCharles the Great という。
シャルロッテ(Charlotte)は、ゲーテの若きヴェルテルの悩みに出てくる
ヴェルテルが恋する女性である。
シャルロッテ(Charlotte)は、イタリア語ではカルロッタ(Carlotta)で、
カルロッタはカルロ(Catlo)から生まれた女性名である。
プロイセン王フリードリヒ1世(Friedrich 1 在位1701-13)の妃ゾフィー・シャルロッテ
(Sophie Charlotte)が有名である。彼女のために建てられた離宮はシャルロッテンブルク
(Charlottenburg)と呼ばれ、今もベルリン郊外の名所である。
イギリスでは、ジョージ3世(在位 1760-1820)の妃シャーロット・ソフィア
(Charlotte Sohia 1744-1818)がいる。王と王妃はドイツ出身である。
さらにイギリスには、ジェーン・エアの作者シャーロット・ブロンテ (Charlotte Bronte 1816‐55)がいる。