この著者の佐伯胖(さえき・ゆたか)先生の講演を聞いて、ものの見方が自分には
新しかったので、印象が深かったのでした。講演の後にエレベータで一緒だったので、
感想を少し話しました。岩手大学の様子も少し知っているみたいでした。
その後岩手大学の教育学部の先生方と話をしたら
佐伯先生は岩手大学でも有名な先生だということがわかりました。
(東京大学教育学研究科教授)
知らないとは恐ろしいことだと反省しました。
この本は岩手大学の図書館で借りたものです。
例によって、おもしろそうな内容を紹介してみましょう。
第15期中央教育審議会が発足し、1996年7月に第1次答申を提出した。
それによると、「高度情報通信社会」の到来に対応するため、初等中等教育段階での
情報通信ネットワークの活用を本格的に進めるべきだとしている。
要するに、これからの教育では、すべての段階(小・中・高等学校)で、各教科で
積極的にコンピュータやインターネットを活用せよというわけである。
コンピュータを学校に導入せよという、国の文教政策はどんどん進められているが、
教育現場では、どう対処すべきかわからず、大混乱をきたしているというのが現状である。
まず、「パソコン指導ができる」教員が極端に不足している。
一応、「指導能力のある」現場の先生たちの声をいろいろ聞いてみると、
「どう指導したらよいか」にずいぶんとまどっているようである。
たとえば、コンピュータを導入して何を教えたらよいかがわからない(情報メディア
の概念の教育か、操作技術の習得か)、機器をどう管理すべきか(子どもにどの程度
「自由に」使わせてよいか等)がわからない。
いったいなぜ、そんなにしてしてまでコンピュータを学校に導入しなければ
ならないのだろうか。
おそらく中教審の答申から判断すると、次のような3つの理由が考えられる。
・適応教育のため
・対抗教育のため
・学校改革のため
適応教育のため
そもそも学校でパソコンの基本操作を特別に教育すべきだろうか。
ファックスやポケベル、携帯電話などと同様、別段学校で「使い方」の指導など
しなくても、使いたい人はどんどん自分であれこれいじりまわして習得し、勝手に
どんどん使っているということで、別段何の問題もない時代になるの
ではないだろうか。
したがって、「これからの時代には、コンピュータもインターネットも自由に
使いこなす時代になる」ということから、「だから、今からコンピュータや
インターネットの活用を学校でちゃんと教えるべきだ」と直結させる話は、
どこかマユツバものだといえなくもない。
対抗教育のため
コンピュータを学校教育でとりあげる「対抗教育」とは、予想される
大きな力に「対抗する力」をつけさせようとすることである。
高度情報通信社会では、子どもたちは大量の情報の洪水にさらされる。
さらに、情報化の進展については、様々な可能性を広げるという「光」の部分と
同時に、人間関係の希薄化、生活体験・自然体験の不足の到来、心身の健康
に関する様々な影響等の「影」の部分も伴うものであり、それらに対処する
教育が必要となる。そのために、まず「コンピュータとは何か」を知らせて
おこうというのである。
「影」に対抗するものとして、ボランティア活動や地域と結びついた実体験を
させる教育、コミュニケーションを重視した教育が必要になるということだ。
しかし、これらをただ「反・コンピュータ主義」のもとですすめるのではなく、
むしろそういう活動にコンピュータやインターネットを積極的に活用することに
よって、「影」の部分の克服をめざすべきであろう。
コンピュータを使ってコンピュータの危険性や落とし穴を理解させる
− こういうことは、学校こそがきちんと教育すべきことである。
人びとの勝手なコンピュータ利用を野放しにしていたのでは
とうてい対処できない。
一方、自動車の普及で人びとが歩かなくなり運動不足になっているとか、
電卓の普及で暗算による計算力が落ちたとか、ワープロの普及で漢字が書くなく
なったとか、電子調理器の普及で「包丁もろくに使えなくなった」とか、
いろいろな例を見ると、新しい技術の普及はかならず旧来の技術の退化(diskill)
をもたらすものであり、それはそれなりに「嘆かわしい」ことである。
もちろん、文化全体の流れとして「手仕事」の軽視や「わざ」の衰退などが
急激に進行しているということは事実であり、さまざまな点で社会的に「不都合」
や「問題」を生み出してきている。伝統工芸や伝統芸能の衰退は文化的な損失
である。
企業でも、自動化が進むことで、かつての職人芸の伝承がなくなることは、
製品の質的低下をまねき、マニュアルにない故障や事故の際の臨機応変な対応が
できないことなどにつながり、大きな損失でもある。
某自動車メーカーでは、定年退職の迫った熟練工の優れた技を継承するため、
かつての「徒弟制度」に似たシステムを取り入れた。
まず、その分野第一人者が師匠となり、後継者の中堅技術者に約2年かけて技能を
教え込む。この課程を終えた技能工は、工場の職長クラスの報酬が得られ、
数年すれば今度は師匠となって若手を教えることになるというわけだ。
このように、社会が手仕事やわざの重要性を認識し、高く評価すれば、
なんらかの形での伝承は行われる。
問題は技術の発展はすべて「以前よりよい」はずだと信じ込むという風潮にある。
こういう単純な技術信仰を冷静に批判し、その危険性をきちんとした根拠で
明らかにしていく「知」を開き育てることこそ、私たちの教育に課せられた
重要な課題であろう。
ともかく最新鋭の機種でなければ良い研究ができないとの強迫観念にとりつかれ、
業者が必要だといって押しつける仕様をそのままうのみにして莫大なコストを
かけても、結局複雑すぎて使いこなせない。かつての単純素朴な、タネもシカケも
見え見えという機種をうまく使いこなすことが評価されずに、市販の高機能
ソフトが高機能ハードウェアの上で動く、ほとんどマニュアルにある前例を
いじった程度で作られた作品を、「スゴイ、スゴイ」といって高く評価する
風潮にははっきり対抗すべきである。
(いくつかの学会の情報処理を使った事例研究の発表論文など思い当たりそう)
本来の対抗教育というのは、ただ技術の進歩発展に「対抗する」という
教育ではなく、技術万能主義や何でも新しい技術はスバラシイと礼賛する
考え方におちいらず、技術がもたらすものと失わせるものを見極めた上で、
大切なものを維持し発展させることに目を向けさせる教育でなければならない。
学校改革の起爆剤に
第三は「学校改革」としてコンピュータを導入しようという考え方である。
中教審の答申であるべき姿の「新しい学校」とは、要するに、コンピュータや
通信技術を積極的に「利用」する学校である。
このような学校改革は、いわば学校の「技術革新」であり、教育産業の振興と、
企業と家庭を直結させた「教育の市場化」によって、形の上での「学校のスリム化」
を達成しようとするものにすぎない。
このような「学校改革」の提案には、現在の学校がかかえている教育的問題に
対する何らかの対応とか、新しい時代にふさわしい教育理念の提起というような
視点は、まったく含まれていない。たんに「情報通信技術」が発達・普及したから、
学校もそれを大いに活用するように変わるべきだ、という主張のように見受けられ、
基本的には「適応教育」の線上にある。
これでは「改革」どころか、従来の教育がもたらしてきた問題をさらに拡大させる
危険性すらある。
たとえば、「コンピュータが教員の役割を補完して、一人一人の
子どもの特性等に合わせた個別指導を徹底して行っていく」というのは、これまでの
管理主義的、詰め込み教育の「効率化」以外のなにものでもない。
ただ技術的に、近年、人工知能の技術を取り入れて発達したCAI技術の
積極的活用を示唆したものである。
このCAI技術が学校で積極的に活用されはじめると、それは遅かれ早かれ、
市場に出回り、家庭で使われはじめる。むしろ、パソコンが家庭に普及しはじめ
ていることから、教育産業界ではすでに「CAIを家庭に」という目標で、
大量のCAIソフトを家庭に売り込む体制を着々と整えているに違いない。
これは教育の「市場化」であり「私事化」である。まさに「金を出して教育を買う」
時代になり、家庭で「買われる」学習内容は、「受験」に関係する教科に集中する
ことは目に見えている。
こうなると、「学校」化した知識・技能に集中した学習がますます強化される
ばかりであり、「学校のスリム化」どころか、「学校知の肥大化」である。
さらに、市場化原理により、経済格差と教育格差が相互に連動して拡大する、
ということが予想される。
このように、従来開発されてきたCAIで助長される「学習」というのは、
他人との交流やさまざまな幅広い経験をぬきに、コンピュータ画面だけから
一方的に注入される知識の蓄積であり、いわゆる「受験」には役立つにしても、
教育的視点から見て評価できるものはきわめて少ない。
また、不特定多数の、見知らぬ人びとへ向けての「情報発信」をもっと盛んに
するように学校は変革されるべきだという点についても、大いに歓迎すべきだは
必ずしもいえない。
不特定多数の見知らぬ者同士のコミュニケーションというのは、うまくいくことは
むしろまれであり、実際にはトラブルのもとになることが多いのである。
(これはネットワークニュースのフレーム現象をみればわかる)
(そういうときにオフラインをして、互いに理解を深めることが必要であろう)
このように見てくると、学校でコンピュータを活用すべきだという根拠が、
「適応教育」、「対抗教育」および「学校の電脳化」のいずれかに短絡的に
直結させるものであってはならないことがわかる。
コンピュータ教育を考える際に、「コンピュータの導入で教育はどう変わるか」
という議論が多いが、これはそもそもおかしい。これでは、教育というものが
テクノロジーにあわせていろいろ変化するということが前提になっている。
テクノロジーに教育を適合させることを考えるべきではなく、教育にテクノロジーを
合わせるべきだ。まず「現代社会において、教育はどうあるべきか」という観点から
出発し、そこにコンピュータがどのような形で貢献できるかを考えるのである。
コンピュータが人びとの学習を支援する道具(学びの道具)になるべきだ。
コンピュータがあるからそれを学ばねばならない、という発想ではなく、
学ばねばならないこと、学びたいことがあるからこそ、コンピュータを使う、
という発想に変えるべきだ。
「機械があるから使わねばならない」という考え方ではなく、使いたいことが
あるから「使える」道具がほしい、という考え方である。
コンピュータを真に「学びの道具」とするためには、最低限それが
「使える道具」、「使いやすい道具」であることが必要である。
これが「ユーザ中心主義」である。
使いにくい機械は、機械が悪い。そういう機械を作るメーカーが悪い。
「道具」の3条件 ・非規範性 使う人間に「こうすべきだ」という価値判断の基準を示すものではいけない。 ・手段性 人間が何か作業をする時、その作業の達成を有効に支援してくれないといけない。 ・透明性 使ううちに使っている意識がなくなり、作業に集中できないといけない。
「奴隷としての」道具観
「主人に命令するな、でしゃばるな、やるべきことは気づかないところでだまってやれ」
認知工学による「認知的負荷の最小化」
ユーザーが「探さなければならないこと」、「覚えておかなければいけないこと」、
「選ばなければならないこと」、「推論しなければならないこと」などを
できるだけ少なくする。
ボタンのまぎらわしいOHPやカメラ
代行させている知的技能はかならず退行する。
ワープロで漢字が書けなくなる。車、エレベータ、エスカレータばかり使っていると
足腰が衰える。
ものごとを「頭の中」で思いめぐらせてばかりではうまく考えがまとまらないとき、
私たちはともかく考えていることを何らかの形で「外に出す」ことがある。
このように「見える」形にしておくと「もっと深く考える」ことができる。
(私も考えがまとまらなくても整理できたところまで、あるいは断片的資料
だけでも、自分宛の電子メールで送っておく。翌日見直すと、そこからすばらしい
まとめができることがある。少しずつ完成に近づく方法として今もやっている。
これは自分で考えたことである)
英単語のスベルチェックのソフトは、英語の論文を書くときは便利。
しかし、これで英語のスペル能力が向上するわけでなく、
むしろ退化する。
(ワープロばかり使っていると漢字が書けなくなるように)
インターネットというと、人はすぐに「世界中のいたる所から発信されている
情報を自由に検索し入手する」とか、「ホームページ(自己PR画面)を作って
世界に向けて情報を発信する」というような活動をイメージするだろう。
しかし、インターネットは本来、ごく親しい知人間の電子メールが質、量の両面
で拡張されたものであり、「人と人とが生き生きした交流をもつ」のが主眼なのである。
インターネットで学習環境はまさに「私設博物館」になり「私設劇場」となる。
従来きわめて入手困難であり専門家しかアクセスできなかった情報が、手軽に
廉価で入手可能になり、いつでもどこでも誰にもアクセス可能になるということは、
ある意味では一種の「民主化」ではあるが、他方で情報の「価値」に対する
感覚を麻痺させてしまう。すべてが簡便かつ迅速に入手できるような錯覚におちいり、
ものごとの「重要さ」「貴重さ」の感覚が失われる。
素朴で手作りの、てまひまかけてじっくりと吟味を重ねてつくられるものの
価値が評価されず、新奇で装飾性の高い「情報のパッケージ」が、次々と短い
サイクルで爆発的流行をくりかえす。
問いかける、教えるだけなら、生きた人間の心の交流が失われる。
「調べ学習」断片的知識の収集だけ。
「だから、何なのだ」「なぜそうなのだ」「ほんとうに(どこでも)
そうだと言えるのか」
(小中学校なら許されると思う)
(調べただけのフィールド報告書を書くのは大変疲れるのに論文になりにくい)
(エジプト学の吉村作治先生はなかなか博士になれなかった)
アメリカの子どもたちのインターネット上で約束
・インターネットのコンピュータは家族みんなが集まる居間に置くこと。
・接続時間、接続料金をつねにチェックし、過剰な使用は禁じること。
・どことアクセスしたか、何を発信したか、などつねにみんなで話題にすること。
・不快な情報にであったら、すぐに親に報告すること。
・住所や本名、電話番号などは、親の許可無く相手に教えないこと。
・不快な、品の悪いメッセージには決して応答しないこと。
・インターネットにどのぐらい時間接続してよいか、いつ接続してよいか、
どういう領域の情報なら見てよいかなど、かならず親と話し合って約束を
とりきめること。
すべてのコミュニケーションには2つの側面がある。
1つは、情緒的コミュニケーションとでもいうべきか、互いの気分や気遣いを交わす
コミュニケーションであり、他方は、情感のない、きめられた形式にのった必要最小限の
情報のパッケージを「発信」し「受信」するという側面である。
前者は仲間同士のおしゃべりに見られるような、これといって伝えるべきことが
きまっているのではなく、むしろ「雰囲気を楽しむ」側面であり、いわば
「情緒的交流」と呼べるような側面である。
それに対し、後者は、ビジネスでの注文、受領といったような、定型化した仕事を
効率的に実行していくためのコミュニケーションであり、「作業的交流」といえる。
このようなコミュニケーションの二面性は、どんなコミュニケーションにも
多かれ少なかれあるが、電子メディアによるコミュニケーションでは、
どうもこの側面のどちらか一方的にかたよる傾向があるように思われる。
たとえば固定的なメンバーの電子会議室、フォーラムでは、口語調の書き込みの
おしゃべりが多く、ともすると「なれあい」におちいり、ほんとうの互いの人格を
尊重しあったものでなくなる危険性がある。
また、「これこれについて教えてください」とか「これこれのデータをください」
というような、質問応答は、「問い合わせ」と「答え」のやりとりだけの、
クイズの問題と正解のようなものになると、そこには生きた人間の心の交流が失われる。
情緒的交流と作業的交流というコミュニケーションの2つの側面がバランスよく
保たれるコミュニケーションとは、人が言葉の背後に息づいている「人」を感じとり、
その「人」にこちらも人間として応えているコミュニケーションのことである。
例1:
Iさんへ。
お手紙ありがとう。学校の校庭のさくらが紅葉しています。とってもきれいです。
そちらの学校では、なにか紅葉しているのはありますか。(Oより)
(こうした電子メールのやりとりをして、こころの会話をしている)
例2:
ほっかいどうで、にほんザリガニがおおいそうですが、ずかんにかいてありました。
ほんとうですか? へんじをください。
ぼくがとったのは、アメリカザリガニです。
(これに対して、北海道から送られてきたザリガニとりの写真を見て驚いた。
この電子メールを送った子どもは糸の先にスルメなどをつけて釣っていたのに、
北海道では海水パンツをはいて川に入り、網で取っていたから)
(地域が変わると「当たり前」のことが、「まるで違う」ということを相互に発見
しあう喜びは大きい)
コミュニケーションというのは、ただ互いの「情報」提供だけではないし、まして
「データ交換」だけではない。具体的な事物のうしろにある人や文化の交流なのだ。
そういう人と人との生きた交流というのは、電子メディアの交流から生まれるという
よりも、もともと生身の人間同士の交流で生まれ、つちかわれるものである。
そういう経験が豊富にあればこそ、それが「電子メール」ででもできるということなのだ。
「学び合う」共同体をつくりあげるためには、ほんとうに「学び合う」議論の仕方を
身につけなければならない。
日本人は議論をすることが苦手である。よくある「意見を交換する」というのは、
双方がただ自分の信じるところをモノローグ(独り言)のように一方的に吐露して
いるだけになっていめことが多い。「学び合う」共同体をつくりあげるためには、
ほんとうに「学び合う」議論の仕方を身につけなければならない。
日本人は相手の言うことに異論を述べることを嫌う。
ネットワークによるコミュニケーションを、きちんとかみ合った議論にしていくのは
容易なことではないが、これからのネットワーク時代にもっと必要とされることだ。